1 大きな婚約者 (ラルフ、五歳から八歳)
王に気に入られてしまったばかりに結婚を約束していた人と引き裂かれ、婚姻の名の元、離宮に閉じ込められていた母は、僕が五歳の時に病で亡くなった。すべてをあきらめ、心が削られていくのにあわせて魂までも削られていき、とうとう僕を置いていなくなってしまった。
離宮で母と二人で暮らしてきた僕にとって、周りに執事や侍女がいてくれても、一人になった寂しさしかなかった。母がいなくなっても住む場所はあり、着る物、食べる物にも不自由しない。それがどんなに恵まれていることなのかその頃の僕には知りようもなかったし、そう言われてもこの寂しさを消せはしなかった。
ある日、「こんやくしゃ」という人がやってきた。
大人ではなかったけれど、見上げるほどに大きなその人は僕に優しく笑いかけ、
「イヴリンです。よろしくね」
そう言って手を伸ばしてきた。大きくて柔らかな手は優しく僕の手を握り返した。
第三王子として生まれたけれど、僕だけ母が違い、第一王妃に嫌われていたせいで誰もが僕を敬遠していた。僕が王になることを不思議なくらい警戒していて、そのために中立派にして王家に忠実なアディンセル侯爵家の令嬢イヴリンを僕の婚約者に当てたのだ。
うまく笑えない僕に本を読んでくれ、一緒に絵を描き、散歩し、花を摘み、花冠の作り方を教わって、できた冠をイヴの頭に乗せると、嬉しそうに笑った。
僕はイヴの笑顔が大好きだった。イヴが来てくれるのが楽しみで、来ると知らせのあった日は先生に出された課題だってすぐに済ませて待っていた。
イヴも母親がいなかった。周りのみんなは母の話を避けたけれど、僕らは時々自分の母の話をして、どんなに素敵な母だったかを語り合った。母を思い出すことを寂しいと思わなくなったのは、イヴのおかげだ。
婚約から二年が経った頃、突然イヴの父が亡くなった。盗賊に襲われたと聞いた。
イヴは涙も出ないくらいに憔悴していて、見ていて痛々しかった。気丈に振る舞い、喪主として葬儀を執り行っていたけれど、まだ七歳だった僕にもイヴの悲しみと喪失感が伝わってきた。
再び僕のいる離宮に来るようになるのに一月かかった。久々に会ったイヴは、ずいぶん無理をして笑顔を作っていた。
父親を亡くしたことだけでも心の重りになっていたのに、さらに学校をやめることになったのが追い打ちをかけていた。学校は友達もいて楽しかった、と既に諦めた口調で話した。
イヴの父に代わり新たに侯爵になったのはイヴの叔父だった。学校をやめさせたのも新しい侯爵で、多くは語らなかったけれど家は居心地が悪く、イヴの居場所はないようだった。
イヴの父はあんなにいい人だったのに。僕のように幼く何の力もない者が一人娘の婚約者になっても文句ひとつ言わず僕らを支えてくれ、時に周囲が見せる冷たい視線からそっと守ってくれた。
いい人ほど早くいなくなってしまう。僕もイヴも家族の縁が薄い。
本当は泣きたいだろうに、ささやかに浮かべた笑みですべてを飲み込もうとしてしまうイヴを励ましたくて、僕はイヴが時々僕にしてくれるように、そっと頭を撫でて励ました。
いつも頑張ってるね。えらいね。
そう言って僕を撫でてくれる手が好きだった。だから僕もそれをお返しした。
撫でているうちに、イヴの作られた笑顔が崩れ、目から涙があふれてきた。
ずっと我慢していたんだ。
僕がつらかった時にそばにいてくれたから、僕もイヴのそばにいよう。イヴが悲しまなくていいように。
僕はイヴが泣いている間ずっと頭を撫で、もたれかかってきたイヴの髪にそっと頬を寄せた。
…そばにいられてよかった。
学校に行かなくなったイヴは頻繁に離宮に来るようになった。家にいたくない気持ちもあったんだろう。叔父一家から少し離れた部屋に移り、使用人たちは入れ替わり、馴染みのある者はどんどんいなくなったと聞いた。
父にイヴが学校に行けるようにできないか聞いてみたけれど、侯爵家の問題には立ち入れないと言われた。代わりに学校に行けなくても僕の先生に勉強を習い、王城にある図書室を使うことが許された。離宮までなら図書を借り出すこともできる。それがどれくらいイヴの願いに沿っているかはわからなかったけれど、僕の隣で静かに本を開き、僕が問題を解いている間に先生にいろいろな質問をしていた。疑問が解けた時の、ぱっと明るくなる顔がまぶしく見えた。先生がいない時にはイヴに聞いてみることもあったけれど、イヴは何でも知っていて、優しく丁寧に教えてくれ、僕が正しく理解できると大げさなくらいに喜び、笑顔で褒めてくれた。