傘を盗られた男
結構昔に書いた純文学てきな?やつです
ある梅雨の日、男は雨の中コンビニに行って酒とつまみを買い、今夜の野球観戦に備えようとしていた。歳をとって定年間近な彼は、つまらない日々の中で無感動になっていた。野球観戦はそんな人生の中で唯一の楽しみである。だが、そんな彼をある不幸が襲った。
「……嘘だろ」
ない。傘がないのだ。自分がここに来るまでの道筋で使い、畳んで挿したはずの場所に。何かの間違いだと、雑に挿されている傘をかき分けて自分のものを探した。
しかし事実は残酷なもので、見る影もなかった。代わりの傘を買おうにも金は使い切ってしまったし、休日のくだらない呼び出しに応じてくれるような知り合いもいない。さらに、そんな彼を嘲笑うかのように、来る途中は傘がいらないのではと思うほど弱かった雨も、強風を織り交ぜた立派な豪雨へと変化していた。
スマホを取り出してこれからの天気を調べる。どうやら、今日はこれからずっとこの調子のようだ。仕方ないとため息をついて、意を決して大雨の道を変えることにした。一歩屋根から出ると、大粒の雨が体中に満遍なく降りかかった。濡れた服が肌に張り付き、濡れた体を強風が冷やす。気持ち悪さと寒さでイライラして、男は何者とも知れない傘を盗んだ人間に恨み骨髄であった。
大雨の中、男はビルが立ち並び、無数の車が四車線の道路の水溜りを弾けさせながら走る大通りを歩いていた。長い間共に生きてきた両足がいうことを聞いてくれず、水を吸収して重量を増した服が、走りたくても走れない男の弱った体に重くのしかかる。
都会の雑踏の中、こんな苦しむ老体に哀れみの目を向けてきた者もいる。しかし、助けてくれる人は誰一人としていない。その時、体を冷たいビル風が撫でた。ブルリと体が震え、大雨の中でも響くほどの大きなくしゃみをした。
すると、先ほどまで自分に見向きもしなかった人々も男の方を見た。だが、一度見ただけですぐにそっぽを向いて歩き始めた。
「うるせぇジジイだな」
そんな声が、確かに男の耳に入った。
住宅街の狭い道に入ると、雨の日のせいか人通りがどっと減った。ずぶずぶに濡れて、肌の見える頭にひっついた髪を撫でる。孤独は慣れたつもりでいたが、どうにも今回ばかりは寂しく感じる。
耳に入るのは家の敷地内に生える木々に当たって弾ける雨音と、水溜りに雨粒が降り落ちてたつ水音のみ。ビール缶が袋から手にかける重量がいつもの何倍にも重く感じる。先ほどまで怒っていた男も、疲労のせいでそんな元気もなくなり、ただただ憂鬱としていた。
そんな彼の目にあるものが映った。黒色の斜めになった「J」の文字がゴミ袋の山の中から首を伸ばして突き出ていた。もしやと思いそれを掴んで引っ張り出す。
「これは運がいい」
引っ張って出てきたのは持ち手が黒色の一般的なビニール傘だった。ようやく訪れた幸運に、先ほどまで抱いていた憂鬱など忘れて、意気揚々と傘を開いた。
しかし、その期待は裏切られることになった。傘を開くと、ビニールを支えるはずの骨は外れており、ピロンと風に従って左右に揺れていた。さらに、雨を防ぐはずのビニールもそこら中穴だらけで役割を果たしていない。当たり前のことだ。
ゴミ山に捨てられている傘なんて使い物にならないに決まっている。男は理不尽な舌打ちをすると、傘をゴミ山に投げ戻した。バシャン、パリパリとビニール同士が奏でる音が男の耳に入る。男は打ち捨てられたそれらに、少なくないシンパシーを感じたが、すぐに目を背けて身勝手な男は足早にそこを立ち去った。
男はもはや雨や風などどうでも良くなる程濡れきっていた。シャツも吸い切れる水の量に上限がきて重さを増すことはなくなり、体温も下がるところまで下がった。我が家はまだかと思いながら、重い体を引きずって、男は震える体さすっていた。
灰色の空を見上げると、コンビニにいた時よりも雨が弱まっているのに気がついた。震えながらため息をつくと、神様のほんの少しの慈悲に感謝しつつ歩いていると、後ろから高い声で呼び止められた。振り向くと、そこには黄色い雨合羽を着て、黄色い傘をさした少年がいた。純朴そうな少年は透き通った瞳で、心配そうに男を見つめている。
「おじさんどうしたの?」
純粋に、単純な疑問を少年は口にした。雨の中とトボトボ歩いている老人など不自然で仕方ないだろう。
「おじさんは傘をなくしてしまってね。それはもう、雨に濡れて大変だったよ」
老人は優しい声でそう答えた。彼は少年が話しかけてくれたことが相当嬉しかったようだ。男は、共有する人間が欲しかったのだ。先ほどまでずっと感じていた、孤独と排他的な空気が彼をそうさせた。情けない話だ。
「かわいそう……あっ、この傘あげるよ!」
「いや、大丈夫だよ」
少年は確かな同情を示し、老人に黄色い傘を差し出した。しかし、それを男は受け取らなかった。それはあまりにも小さすぎ、あまりにも大きすぎたからだ。男は言葉だけで十分だった。いや、十分すぎたのだ。その小さな傘でさえ、こんな少年から物を与えられるのは、彼の大人としてのプライドが許さなかった。
そんな時、彼も聴きなれた電子音が少年の持っている鞄から聞こえてきた。少年は鞄からスマートフォンを取り出して電話に出た。男はこんな少年でも携帯電話を待っていることに時代を感じた。
「うん……うん……わかった。すぐ帰るね」
「お母さんからかな?」
老人の質問に少年は頷くと、ペコリと頭を下げて謝った。
「ごめんなさい。もう帰らないとダメなんです。なにもしてあげられなくて、ごめんなさい」
その少年には確かな謝罪の気持ちがあった。男は自分に腹が立った。こんな少年に同情され、物を与えられかけただけでなく、頭まで下げられたのだ。
子供が大人に謝るときというのは大抵、子供側に非がある。しかし、男の場合に至ってはこの少年はなにも悪いことはしていない。むしろ、こんな老人を助けようとしたのだ。少年は良いことをしていた。それなのに少年は頭を下げて謝ったのだ。そんな理不尽が許されるはずはない。
「大丈夫、大丈夫だから。そんな顔しないで。こっちこそ心配させてごめんね」
男はまるで言い訳をするように頭を下げた。だが、その頭の位置はどうしても少年より下へはいかなかった。
「それじゃあ、さようならおじさん。お母さんが待ってるから」
少年は手を振って老人と別れた。男も棒立ちのまま手を振り返した。少年にはこんな老人よりも優先すべきものがたくさんある。母親、家族もその一つだ。それは幸せの象徴のようなもので、恥ずかしい話だが、男はそれを羨ましく思った。
男はまた強くなった雨に打たれながら、辟易としていた。すると、そんな彼にとって絶対放っておけないものを見つけた。
電柱に開かれたまま置かれた、盗られたはずの自分の傘があったのだ。思わず歓喜の声をあげそうになったのを抑えて、駆け足でそれに近づいて手に取った。黒色のストライプ柄、所々穴の開いた持ち手を包むビニール、使い古されてひとつだけ外れた骨、間違いなく自分の傘であった。
もはやびしょ濡れで手遅れだし、何故こんなところに置いてあるか疑問に思うところだが、そのような事は男にとって些細なものであり、ただ傘が見つかった事を喜んでいた。
その時、男の耳に何かが聞こえた。高音で弱々しく、人間が出すものとは違うもので、つまらない人生を送ってきたこの男でも聞き覚えのある声。あえて文字に起こすとするなら「ニャー」となる声。男がそれに気がついて下を向くと、先ほどまで傘があった場所の下には毛布が敷かれた段ボールがあり、その中には真っ白な毛並みを持ち、青い瞳の子猫が上を向いて鳴いていた。男はあんまりな状況に頭を抱えた。
彼とて良心がないわけでない。このまま傘を奪ってしまうと、この子猫が雨に濡れてしまうことを心配している。だが、せっかく見つけた傘を放っておくことはできない。そんな心がせめぎあっている。
どうするべきかと迷い、傘を持ったまま猫を見つめて立ち尽くしていると、猫がダンボールの縁に手をかけてニャーニャーと騒がしく鳴き始めた。人懐っこいのか、びしょ濡れの男を全く警戒していない。
「どうしたものか」
どうするか決めあぐねて迷っているうちに、自然と猫に向かって手が伸びた。愛らしいものを愛でたいという人間の性故か、無意識のうちに吸い寄せられるように。
すると、猫はその手を拒絶せず舐めた。ペロペロと、ザラザラした舌が指を走りくすぐったい。その様子を見て、初めて男は笑った。人懐っこいにも程があるだろと、可笑しくなった。それがきっかけか、男にある気まぐれを起こさせた。
男が傘を畳んで我が家に入る。
「ついたぞ」
いつもは無言で帰宅する彼が、久方ぶりに玄関で言葉を発した。その対象は、小脇に抱えているダンボールの中にいる猫であった。
濡れた体を震わせながらそれを床に置く。すると、猫はヒョイとダンボールから飛び出てきて、家の中をキョロキョロ見渡した。男も靴を脱いで床に上がると、リビングに続く扉を開けた。男が入るよりも先に猫が俊敏な動きでリビングに突入した。
男はエアコンを除湿冷房にすると、着替えを持って浴室に行った。体を軽く洗うだけにして、さっさと浴室から出て着替える。リビングに戻ると、白い猫はソファの上で丸まって眠っていた。よほど人慣れしているのだろう、順応が早い。
男はまたクスリと笑うと、カーテンを開けて外を見た。先ほどまでどしゃ降りであった天気とは打って変わって、曇り空の隙間から光が差し込み、幻想的な景色を作り上げていた。時計を見ると、降り始めた頃から三十分しか時間が経っておらず、ほんの少し待っていれば雨に打たれずに済んだ。
しかし、男は待っていれば良かったと後悔することもしなければ、大外れした天気予報に怒りを露わにすることもなかった。ただ、男は傘を盗んだ何者かに、ほんの少し感謝した。そして、男は猫を見てなぜあの時この猫は自分を拒絶しなかったのか、なぜ自分はこの猫と生活することを選んだのか少し考えた。
その結果、男はある一つの結論に達した。きっとこの男と猫は、似たもの同士だったのだろう。向けられる目は同情や軽蔑で、孤独の中にいて、世間の冷たさを知っている。そんな中でも、誰かにすがるような気持ちで助けを求めている。幸せを求めている。そんなところが似ていたのだろう。だから、一緒に求めていたものを手に入れようとしたのだ。
自分の行動に合点がゆき、心の整理がついた。そして、少し休んだ後、男は今日増えた家族のための道具を見るためにパソコンを立ち上げた。