野球
今年50歳になる俊哉は、小学生から大学在学中まで野球に打ち込んできた。
恵まれた体型と抜群の運動神経で周りからの注目はいつも高く、
リトルリーグの結果で大分県の甲子園常連高校へ進学。甲子園にも2度出場する事ができた。
チームの甲子園での結果は、2度とも初戦敗退。
その後も、一般入試で合格した神奈川県内の私立大学の野球部に所属し、4年間汗を流した。
大学時代は目立った結果は残すことができず、4年生の秋のシーズン終了後、
子供のころから夢みていたプロ野球選手を諦めた。
翌年春、大手建設会社に入社するのをきっかけに野球一筋の人生を一旦終了した。
文武両道だった俊哉は、会社でも大いに活躍した。15年間で培った根気や協調性だけでなく、
もともと持っていたキャプテンシーも働き、会社での信頼や地位を日々高めていった。
係長になった29歳の年には、2つ年下の同じ会社に勤める女性と結婚。
翌年には長女が生まれ、その2年後に長男が生まれた。
そして、、、
そこから野球への情熱が再燃された。
「男の子が生まれたら絶対に野球をやらせる」と決めていた。
息子が幼稚園に入る頃には、プラスチックバットとゴムボールを買い与え、
先ずは野球に興味を持たせた。
その後、小学生になれば地元のクラブチームに入部させ、
早朝のランニングや夜間の素振りを一緒になって行った。
土日のクラブチームの練習には、コーチとして自分自身もユニフォームを着て、練習に参加した。
息子が中学に入ると、プロ約選手を輩出させている地元屈指のリトルリーグに入部させた。
とにかく息子の野球にために出来る事は頑張った。
早朝からの配車、遠征費用の捻出、自主練習のための設備等々。
自分がプロ野球選手になれなかった後悔を息子に重ねるように。
息子はひたむきに努力し、関西の甲子園常連高校に野球推薦で進学が決まった。
俊哉は、本当に嬉しかったが、そんな姿を息子には見せなかった。
「甲子園に出場しても、プロ野球選手にはなれない。」
そんな気持ちを知ってか、知らずか、
息子はさらにひたむきに努力し、努力し、努力し、
甲子園にも3年生の夏の大会で出場を果たした。
そして、息子は野球選手を辞めた。
息子は、夏の予選大会で左膝の半月板を損傷し、選手としては甲子園に出場出来なかった。
しかし、三塁コーチャーとして、そして、キャプテンとして、
選手たちに的確な指示や大きな声援を送った。
俊哉は、スタンドで立ち上がり、試合終了後
整列している息子に対して、大きな声を張り上げた。
「ありがとおおお」