幸せの果て
自分の意にそぐわない行動を、社会に強制されることは多くあるでしょう。しかし、それは皆が平等に生きるために必要なことであり、それにより私たちは社会の歯車の一つになっているわけです。
ただ、自分の信念は貫き通したいですね。
ある国で新しく法律が定められた。
ー煙草は一日1箱までー
まさかの法律であった。しかし、その国の死亡者の大半が「肺がん」を患っていることを考えれば、まさしく健康的な法律ではあった。どこかの国のように、税金を特別に多く課すよりは、喫煙者にとって良いものであった。
しかし、ここに一人、その法を犯してしまった者がいた。
「被告人は前へ」
裁判長の無機質な声が法廷に響く。この国で法を犯した者は、即、裁判にかけられる。罪の重さは関係ない。たとえそれが子供の万引きでも、あるいはちょっとした交通違反であってもだ。軽い罪であれば一週間以内には判決が出る。
どんな裁判にも、裁判長のほかに4人の裁判官がおり、4人の総意を裁判長が判決として下す。これが、この国の裁判であった。裁判官として20年以上務めた男は、晴れて裁判長に昇格し、その初めての裁判を迎えていた。
被告人と呼ばれた男は、法廷の台の上に立つ。彼はヘビースモーカーであり、仕事中、2箱目に突入してしまったのだ。煙草をくわえながら、新しい煙草の包装を破るところを警察に見られてしまったのが失敗だった。「1箱まで」というのは、煙草の本数には関係なく、もし新しく煙草の箱を開けるときがあれば、それはその日最初の1本を吸うときである、という意味だ。
何にせよ不貞腐れた様子の男は、反抗的な態度を見せつつ、檀上へと上がった。
「主文、被告人に罰金を命ずる」
彼は、裁判官たちに聞こえない程度の舌打ちをし、判決を受け入れて壇上から降りる。裁判長である男はその姿を見ながら、心の中でため息を吐いた。
今の判決は裁判官4人の総意を代弁したものに過ぎない。あくまで彼は裁判長としてを全うしただけだった。しかし、そもそもこの法律に疑問を感じていた彼は、いつか今日のような日が来ることを危惧していたのだった。
自分の意思に反する判決を出してしまった男は、もう法廷から立ち去った、被告人と呼ばれた男に対し、心の中で「すまん、これも仕事なんだ」と謝罪するものの、その想いが伝わることは無かった。
男は悩んでいた。自分の意にそぐわない行為をすることを、これからも続けなければならないのかと。最近、またおかしな法律が増えてきた。いや、増えたものもあるが、時代にそぐわない物もあった。法とは、その時代に応じて変化し続けるものではないか。大げさに言えば、昔の王国なんかは、王の批判をすれば即「死刑」なんて国もあったぐらいだ。それを今の時代に適用してしまえば、大問題となる。
いずれにせよ、この国の法律は彼にとって可笑しなものだらけだった。
男が裁判長に昇格してから1年、多くの法律が追加されていた。そのどれもが彼の判決を悩ませた。「車は多くとも一家に一台」、「音楽を聴きながら外をあるいてはいけない」、「恋人を二人以上作ってはいけない」、どれも人々の自由を尊重しないものだった。
昔の彼にとって憧れだった裁判長という職業は、今や辛いものとなっていた。裁判官になる前から、この国を良くしようという想いだけでここまで来た。しかし、自分が信じる正義とはかけ離れた行為を行っている。それは、国が決めたものに従っているだけ、いつの間にか国家の飼い犬になっていた。彼は、野良犬でいれた頃を懐かしく思い、
「あのころは良かった。ただ、信念に沿ってやってこれた。あの頃の私が、今の私を見たらなんていうのだろう......」
と、つぶやくのだった。
男はその日、裁判官の総意を無視した。他の4人の裁判官は、彼が出した判決に驚いた。「書店での立ち読みを禁ずる」という法律に対し、真っ向から否定するような判決文を述べたのだ。
いよいよ我慢できなくなったのだ。この国の司法の異常さに対し、ついに反抗したのだ。それは、国家に対する挑戦であった。
「何か変わらないか、この判決で国は目を覚まさないか」
彼は祈るような思いで、その判決を出したのだ。
しかし、国はそれを良しとはしなかった。
このことが問題になり、彼はすぐに裁判長の座を下ろされた。他の裁判官からは白い目で見られ、陰であらぬ噂を立てられた。当然、噂をしたものは「確証のない噂を立てることを禁ずる」という法に抵触したために、裁判にかけられることになるのだが。
彼は、自分の信念を貫いたまでだ。それが、誰に非難されようとも良かったはずだ。しかし、彼は地位を失った。そこまでして何も得られなかったのか。
男が無気力に黄昏ていると、別の裁判長をしているという女が現れた。彼女もまた、今の法律に疑問を感じ、悩んでいたのだ。彼女は、彼が落ち込んでいるという噂を聞き、会いに来たのだという。
「はじめまして。お噂は耳にしております。あなたの行動は素晴らしかった」
「いや、そんなことは......」
「誰が何と言おうと、この行動は無駄にはなりません」
「しかし、裁判長から失脚してしまった。また、裁判官に戻るのだ」
「でもあなたの行動は、間違っていなかった。私も今の法律の異常さにはウンザリしている。しかし、貴方みたいに行動に移せなかった」
彼女は、彼女自身が判決を出し、不幸にしてしまった人のことを思い返す。
「私は地位さえ確保されているものの、このまま意にそぐわない判決を出すことは苦痛でしかない。だからといって、家族がいる身である私は、裁判長を下されるわけにはいかない。一生、私はこの苦悩の中で生きていかなければならないんですね」
その時、彼は気づいた。自分は幸せ者なのかもしれないと。
勇気を出してあの判決を出した後は、確かに彼の人生で最大の挫折を味わった。しかし、あのまま続けていて本当に満足できたであろうか。いや、本当は分かっていた。自分の行動の正しさに。しかし、裁判長の座を下ろされ、あらぬ噂まで立てられた彼の心には、ぽっかりと穴が開いていたようなのだ。
しかし今、彼は彼女の話を聞き、自分の行動の結果を感じ取ることができた。このように一人でも共鳴してくれる者がいただけ、良かったのではないか。
彼の心の穴は既に塞がっていた。満足いく結果とは、自分の意志で行動したものにのみ訪れるのだ。国家の忠犬からの脱却、もう彼は自身の明るい未来を想像していた。
彼女に礼を言うと、男はその場を後にした。足取りも軽くなり、心は澄んだ湖のように穏やかだった。今までは国民の悲鳴のように聞こえていた都会の喧騒すら、今を一生懸命に生きる者たちが奏でるクラシックのように、彼の耳には響いていた。
これは勇気を出して、自分の道を決めたものにしか味わえない幸福だった。
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