#29 実家
高い天井に、無数の時刻表示版。券売機に土産物や、そしてその合間を歩き回る無数の人々。まるで違う世界に舞い込んだ2人は、この人の多さと天井の高さに驚愕しながら、僕とレティシアの後をついて歩く。
そして、再び建物を出た先に、地下街の入り口が出てくる。その入り口の横に立つ「タイコウドオリ」と書かれた看板の向こうに、ちょうどオオサカ、ハカタ経由、カゴシマ行きのバスが降りてくるところだった。
何人かの、軍服姿の人が見える。もしかしたらあの中の一人が、タナベ中尉かもしれない。そう思いながら、僕はそのバス停の手前にある地下街の入り口に向かって歩く。
地上と比べてその場所は、少し人の密度は少ない。ターミナルビルに比べ、かなり低い天井。そしてそこには多くの飲食店が並ぶ。
ファーストフード、そば、うどん、喫茶……味噌カツの店もあるが、そこは今回の目当てではない。僕が目指していた店は、この地下街の端にあった。
大きな丸目と三つ編みの奇妙なキャラクターが出迎えるその店は、白いスープ、丸いチャーシュー肉、そして先端がフォーク状なスプーンが特徴のラーメンチェーン店。ナゴヤといえば、この店を思いつくという人がいるほどの店。
一応、ここのラーメンは豚骨スープとされているが、本場の豚骨スープを持つハカタ人、例えばタナベ中尉辺りなら、これを豚骨スープとは認めないだろう。そういう、微妙なスープを持つラーメンだ。
ここは無人店で、駆逐艦内の食堂と同様にロボットアームが調理する店。まあ、今どきのファーストフードやこの手のチェーン店は皆、そういう店ばかりだ。
「さ、どれか選んでくれ」
「あ、あの、選ぶと言っても、どれがどういうものなのですか?」
「そうだなぁ……じゃあお前は、この普通のラーメンからいってみるか」
「はぁ……」
そういえばダニエラは、ラーメンは初めてだったか。駆逐艦の食堂にもあるメニューだが、僕はあまり食べないし、レティシアもラーメンはあまり食べない。砲撃長のヨウ大尉が食べるくらいだろうか。
ただし、ナゴヤ育ちの僕もレティシアも、この店のラーメンはなぜか時々、食べたくなる。この辺りに住む者にとってのソウルフードだからな。
「んで、俺はいつもの肉入りラーメンだ。カテリーナ、お前は特製ラーメンがお似合いだな」
「とくせい……ラーメン……?」
「食ってみりゃ、分かる」
注文を終えると、呼び出し機が出てくるので、それを受け取る。と同時に、奥のロボットアームが調理を始める。僕らは狭いテーブル席に腰掛ける。しばらくすると、呼び出し機が鳴り出す。カウンターには、注文した品が4人分、置かれている。
それをレティシアは、いっぺんに運ぶ。4つのトレイを片手で持ち上げるその姿に、周りにいる数人のお客が、驚いた様子でこちらをみる。まあ、こんなところで怪力魔女の能力を発揮しなくても……と思うのだが、便利だから仕方がない。運ばれてきたそのラーメンを、覗き込むダニエラとカテリーナ。
「あの……これはどうやって食べるのです?」
「箸を使ってもいいし、このスプーンで食べてもいいぜ。ほら、こんな感じだ」
レティシアは、器用に箸を使って食べてみせる。が、ダニエラはまだ、箸に慣れているとは言い難い。ましてや、ラーメンは初めてだ。
「……つまりこれは、スープパスタ、のようなものでしょうか?」
ぶつぶつと呟きながら、あのフォークスプーンを使ってそれをすくい取り始める。そしてそれを一口、口に含む。
「んっ!」
ダニエラのこの声は、この食の前にダニエラ自身が堕ちたことを示している。レティシアは一瞬、ニヤッと微笑む。
「な……なんです、この不思議な味は……塩辛くもあり、それでいて……ああ、私には、うまく言い表せませんわ」
さっぱりとした豚骨スープに、もっちりとした麺。薄いながらも歯ごたえあるチャーシュー肉。決して高級食材とは言えないが、クセになる味。それがこの店のラーメン。ダニエラが3口目を口にする頃には、すっかりそれに取り込まれている。
一方のカテリーナだが、こいつはすでにラーメンは経験済みだ。そりゃそうだな、上官である砲撃長のヨウ大尉が大のラーメン好きだ。勧められるまま、それを食べたことがすでに何度もある。しかもこいつは、箸の使い方をすでに心得ている。故に何の抵抗もなくそれを食べているが、カテリーナが頼んだ特製ラーメンには、中央に半熟卵が落とされている。これが彼女にとっては、未知の味だった。それをスプーンで器用にすくい取ると、一気に口に流し込む。頬を押さえてもぐもぐとしているのを見ると、よほど気に入ったようだ。
一杯のラーメン鉢に収められたそれを平らげるのに、さほど時間はかからない。が、この店の魅力はこれに止まらない。それを今、レティシアが買いに行っている。
「おう、持ってきたぜ!」
そういいながらレティシアがカテリーナとダニエラの前においたのは、透明な容器に入れられた真っ黒な液状の何かの上に、真っ白なクリームが載せられた、誰がどう見てもスイーツなもの。カテリーナもダニエラも、上に乗っているのが何かはわかるものの、下の真っ黒な物体はまるで検討がつかない。
ダニエラは手渡された長いスプーンを手に、恐る恐るその黒い部分をすくい取り、それを口に運ぶ。
「んっ!?」
またもや、このスイーツを前に陥落するダニエラ。
「こ、これは、なんて甘い……」
などと言いながら、クリームとともにそれをすくい取り、再びその味の虜となる。
そう、クリームぜんざいだ。クリームだけ、ぜんざいだけだと甘過ぎて飽きやすい味となるところを、この両者を組み合わせることで、ちょうど良い釣り合いを実現する、チープな外観ながらも絶妙なスイーツだ。
一方のカテリーナは……ああ、やはりな。パフェ好きのこいつが、これに堕ちないはずはない。頬を押さえながら、ニヤニヤとクリームぜんざいをすくい取っては口に運んでいる。
「ええーっ!? 今の食事が一人で、たったの6ユニバーサルドルですって!?」
「そうだぜ、安いだろう」
「戦艦ノースカロライナやショッピングモールでも、パフェ一杯分のお値段ですよ! それで、食事とスイーツを同時に味わえるなんて……どうなっているんですか、ここは!?」
最後には、その価格に驚いている。確かにここは安い。だからこそ、ソウルフードとしての地位を500年以上も維持し続けている。
「味噌カツだけじゃねえんだよ、ナゴヤってところはな」
自慢げに語るレティシアだが、お前、育ちはナゴヤだが、生まれはヨコハマだろう。しかもお前の母親は元々、別の星の出身。何を鼻高々に語っているんだか。
「さてと、次は宿泊場所だな……」
「おう、どの辺に泊まるんだ?」
「そうだなぁ……宿泊費は、軍からもらえる。となれば、フシミかサカエ周辺がいいな」
「できりゃあ、オオスに近い方がいいよな。カズキんちから近えし」
「と、なると……」
その店を後にすると、僕はアプリでホテルを調べ始める。すっかり夜になってしまった。どこか、空いているところはないか。
そして見つけたホテルは、サカエにあった。ここなら、僕の実家にも近いし、しかも繁華な場所だ。周囲には有名店も多い。よし、ここにしよう。僕らは地上に出て、タクシー乗り場に停車している無人タクシーに乗り込み、そのホテルへと向かう。
地上200メートルのそのホテルに入ると、僕とレティシア、そしてダニエラとカテリーナとで別れて部屋に入る。長旅の上、圧倒的な人混みにもまれて疲れたのか、ダニエラとカテリーナはふらふらと部屋に入っていく。それを見届けて、僕らもホテルの部屋に入る。
そこは、高さ140メートルの場所にある一室。地上を見ると、星空のように散らばった夜景が見下ろせる。
「ああ、やっと帰ってきたって感じだな」
レティシアが、しみじみと言う。
「そうだな。だけどあっちの生活になじみ始めたからか、ちょっと違和感があるな」
「そうか? でもここは、いつも通りのナゴヤの……ふわぁぁっ……」
ああ、レティシアよ。なんだかんだと疲れているようだな。僕と話しながら、パジャマの着替えもそこそこにゴソゴソと布団に入り、すぐに寝入ってしまう。
すぅすぅと寝息を立てて眠るレティシア。手先にはまだ、火傷の上から貼り薬が貼られたままだ。完治にはもう2、3日はかかると医師も言っていた。
そんなレティシアの横で、僕も眠る。そしてすぐに僕も、寝入ってしまう。
「おい! 起きろ!」
気がつくと、レティシアが叫んでいる。日はすっかり昇り、レティシアは着替えを済ませ、ベッドの脇で突っ立っている。
「……なんだ、もう朝か……ええと、時間は……」
時計を見ると、8時半だった。今日は特に、何か予定があるわけではない。別にこのまましばらく寝ていても構わないのだが……レティシアのやつ、久しぶりの故郷で、興奮してるな。
「おい、カズキの家に行くぞ!」
「は!?」
「お前の家、すぐ近くじゃねえか」
「いや、そうだが……」
「お前のおっかさんにも会いてえし、ほれ、さっさと着替えて行くぞ!」
なぜか朝からテンションが高いこの魔女に、僕は叩き起こされる。大急ぎで軍服に着替えて、部屋を出る。
一つ下の階に、ダニエラとカテリーナの宿泊する部屋がある。部屋のベルを押すと、ダニエラがでてきた。
「あら、レティシアさんに、ヤブミ様。おはようございます。こんな早くに、どうされたのですか?」
「おう、カズキのうちに行こうと思ってな」
「まあ、ヤブミ様のお屋敷に?」
「屋敷じゃねえけどな。こいつの家は、この近くのオオスってところにある、高層アパートの一室だ」
「そうなのですか?で、そのオオスとは、どのようなところなのです?」
「まあ、なんだ。行きゃあ分かるぜ」
説明がめんどくさくなると、行けば分かる、見れば分かるというのがレティシアの常套手段だ。
「ところで、カテリーナはどうした?」
「あ、カテリーナさんなら、ほら」
と、ダニエラが奥の部屋のベッドを指差す。そこには、ベッドから左手が落ちかかり、右手で部屋着の裾をめくりあげ、腹の辺りをボリボリと掻きながら、だらしなく寝るカテリーナの姿があった。もう少し部屋着がめくり上げられれば、あの小さな胸の辺りが見えてしまいそうな……
「お、おい、カテリーナのやつ、ベッドから落ちかかってるぞ。ほっといても大丈夫なのか?」
「ああ、大丈夫ですよ。いつもあんな感じで、落ちそうで落ちず、めくれそうでめくれませんから」
なんて微妙な寝相なんだ。そういえば、カテリーナが寝ているところを見たのは初めてだったな。あいつ、こういう寝方をするんだ。じゃあダニエラは一体……いや、そこを追求するのはやめよう。
で、そんなカテリーナを起こし、エレベーターで降りて、ホテルの外に出る。
ホテルを出ると、目の前はオオツ通りがあって、少し向こうには高さ800メートルの塔が見える。あの目立つ奇妙な塔を見て、ダニエラの好奇心が刺激されないはずがない。早速、僕にあれのことを尋ねてきた。
「ところでヤブミ様、あの高い塔は一体、なんなのですか?」
「あれは、恒星間通信用アンテナが備えられた、電波塔の一種だ」
「デンパ塔?」
「つまりだ、あれを使って、地球1010とも通信することもできるんだ」
「へぇ〜、そうなんですね。で、あの塔は、なんという名前なのですか?」
「……テレビ塔……」
「テレビ塔? ということは、あの辺りは『テレビ』という地名なのです?」
「いや、全然違う。いろいろと事情があって、そういう名前が付いている」
元々ここにあった、500年ほど前に作られた塔の名前をそのまま引き継いだ結果、そう呼ばれているというだけに過ぎないのだが、今は別にテレビのための塔ではない。だが、その歴史を語り出すとややこしいので、敢えてそれ以上は言及しない。
さて、ここから実家に向かうにはいろいろな方法があるが、まだ朝食を済ませてはいないし、このまま歩いて、あの店で食べてから行こう。そう思った僕は、このオオツ通りを南に進み始める。
ここは、ナゴヤでも繁華な場所の一つだ。高さが20〜100メートルほどの高さの建物が立ち並び、その間を車がひっきりなしに通る。上空には小型のバスが飛び交い、地上には大勢の人が歩き、車と地上バスが走る。
かつてのナゴヤと言えば、運転マナーが悪いことで有名だったらしい。が、今や自動運転車しか走っていない。そんな文化は、なくなってしまった。だがここには、そんな時代から引き継がれる文化のいくつかがまだ、残されている。まさに今、向かうのは、その旧世紀から続く文化の名残が色濃く残る店だ。
晩秋の、少し冷たい風が吹くこのナゴヤの街を、軍服姿の僕と、中世風ワンピースのレティシア、青いカクテルドレスのダニエラに、とんがり帽子のカテリーナが歩く。
……おい、ちょっと待て。なんだ、このコスプレ集団は。よく考えたらこの格好は、人目を引き過ぎじゃないか。皆、こっちを見ているぞ。その前にダニエラよ、薄い上着を羽織ってはいるが、その格好は寒くないのか?
さすがにここでは、この3人の名前は知られてはいないから、ただの痛い集団としか認知されていないだろうな。ここナゴヤでも、コスプレの祭りが行われているから、その時期に来ればまだ目立たないのだが、今は少し時期が違う。
で、この痛い集団を引き連れて、通りを歩く。地下鉄のヤバ町駅を過ぎて、上に走る高架道路の下を潜って、道を渡った先にある小さな店を目指す。
「ここだ。朝食にしてはくどいが、今の時間なら、ここがちょうどいいだろう」
時刻は午前10時を過ぎたところ。昼食と兼用してもいいくらいの時刻。そこで僕は、この店を選んだ。
「ここは……もしかして、味噌カツの店ですか?」
さすがはダニエラだ。よく分かったな。二本足で立つ力士風のメタボな豚の看板が目印の、老舗中の老舗、500年以上の歴史を持つ味噌カツの店だ。
あのとんかつ屋の店主も一時、この店で働いていた。そして独立し、今は遠く7000光年先で店を構えるまでになったが、原点はここだ。
味噌カツと聞いて、カテリーナが気にならないわけがない。目を爛々と輝かせて、豚の看板を見つめる。
「じゃあ、入るか」
そう言って僕は、中に入る。狭い店内だが、昼食時ではないため、まだ空いている。テーブル席に座り、僕は4人分の味噌カツを注文する。
頼んだのは「わらじとんかつ」の定食。わらじのような大判のとんかつが2枚、全面にかけられたダレ、下地のキャベツ、これにご飯と味噌汁、そして漬物が付く。
よく見ると、半分に味噌ダレが、もう半分にはソースがかけられている。2種類の味が分かれたこの定食を、7000光年彼方からやってきた2人は、恐る恐る口に入れる。
ダニエラもカテリーナも、反応は同じだ。頬を撫でながら、その濃厚なまでの本場の味を堪能する。いつもならコメントをするダニエラでさえ、この定食を前に言葉が出ない。
「どうだ、これがナゴヤ本場の味だ。あの店の店主にゃ悪いが、本場の味には敵わねえな」
レティシアも久々の味で有頂天になっている。いや、こいつはいつもそうだったな。火傷の貼り薬がまだ痛々しいその手でカツを食べるその魔女は、いつになく得意げな顔だ。
重過ぎる朝食を終えて、外に出る。ここからさらに南に歩くと、カミマエズというところに着く。そこにある高層アパートの11階に、僕の実家がある。
レティシアは「オオス」だと言うが、正確には僕の実家はオオスではない。が、オオス商店街までは歩いて3、4分のところだし、外から見ればほぼオオスだ。
ここまで来たら、歩いた方が早いな。地下鉄で一駅ほどの距離だが、僕はこのまま歩くことにする。
少し歩くと、ダニエラが何かを見つける。
「あら?」
ここに来ればそうなるだろうと思っていたが、案の定、ダニエラのやつ、あれが気になったか。
「ヤブミ様、何ですか、この古臭い看板は?」
古代文明な星から来たやつに、古臭いと言われるのは心外だが、古いのは確かだ。そこには「赤門」という漢文字の書かれた看板が、道を跨いで立っている。
今ではあまり使われなくなった漢文字で書かれたこの看板、それはまさにオオスの入り口を示す場所でもある。そしてその奥の通りには、いくつもの店が並ぶ。
ここまで歩いて見たナゴヤの街とは少し違う毛色の店々に、ダニエラの「神の目」が疼くのだろうか?興味津々な瞳で、僕を見つめて言う。
「私、何やらあそこが気になります!」
やはりな、間違いなく、ここに興味を持つと思った。が、今日の用事はそこにはない。
「明日、ここに来るから、今日はやめておこう。それよりも、この先に行くぞ。」
「ええ〜っ! なんだか面白そうな匂いが、ぷんぷんとしますのにぃ!」
ダニエラが、ここまで駄々をこねるのも珍しい……わけでもないな。だが、ダニエラのその感性の鋭さはある意味、正しい。
だが、ここには大きく2種類のものがあることを、ダニエラはまだ知らない。それも含めて、明日の楽しみとしておこう。
とはいえ、この通り沿いにも気になる店は多い。ファーストフード、ステーキ、和食、そして和菓子……そういえば、食べ物店ばかりだな。特にスイーツの香りがする店に、カテリーナはビンビンと反応しているのが分かる。
そして、とうとう耐えられなくなる。
「ここっ!」
バンショウ寺通りに差し掛かったところで、とある店を指差し僕の袖を引っ張るカテリーナ。こいつ、やはりここをスルーすることはできなかったか。僕はその店を見る。
そこは、菓子店。甘栗や栗饅頭、そして甘栗ソフトなるものが売られているお店。見た目が木の実で、しかも甘い香りがするから、カテリーナでもそこが何か美味しいものを売っている店だとすぐに分かったようだ。
だがカテリーナよ、お前さっき、カツを2枚、平らげたばかりじゃないか。もう食えるのか?
気づけば、栗饅頭と栗ソフトを両手に抱えて、交互にそれを食べるカテリーナ。その微笑ましい顔に、痛い姿で注目を集めるが、周囲の人々は知らない。こいつが、総撃沈数1千隻近い、伝説の砲撃手だということを。
「んーっ、こえもなかなかでふねぇ!」
ダニエラも栗饅頭を食う。頼むから、喋りながら食うのはやめろ。こいつ本当に、元皇女か?
「おら、見えてきたぜ!」
古代文化人の口に栗スイーツを放り込んで、ようやく前進した結果、やっと目的地に着く。ここは地下鉄カミマエズ駅から2、3分ほど歩いたところにある高層アパート。
「まあ、まるで私の住む高層アパートと、あまり変わりがありませんね」
「そりゃあそうだ。この手の建物の作りは、だいたい同じようなものだ」
そう言いながら僕は、エレベーターに乗り込む。20階建てのこのアパートの12階に、僕の実家はある。
エレベーターを降りて、ドアの並んだ通路を歩く。そして「八月一日」という漢文字の書かれた表札のあるドアの前で止まる。
そこで僕はふと思い出し、呼び鈴を押す手を止めて、振り返ってダニエラとカテリーナに言う。
「そうだ、一つ、言い忘れていたことがある」
「なんですの?」
「この家では、靴を脱いで入るんだ。」
「ええ〜っ!? 床を、素足で歩けと!?」
「ここは、そういう文化のところだ」
ここはまだ、旧式の作法が残る建物。土足で上がられてはたまらない。そして僕は玄関のベルを押す。
「はい」
「僕だ、カズキだ」
玄関のドアが開く。中から、初老の女性が出てくる。僕の、母親だ。
「ただいま」
「なんだカズキ、おかえり。思ったより早く来たね」
「レティシアのやつが早く来たいと急かしてたからね」
「おう、おっかさん、久しぶり!」
「あらレティちゃん、相変わらず元気だねえ。ところで、カズキ」
「なんだ、母さん?」
「後ろのお嬢さん方は、どなた?まさかあんた、一夫多妻性の星で、レティちゃん以外の嫁を……」
「いやいや、違うから!」
そういえば、この2人がいたんだった。母親からのこのあらぬ誤解を、慌てて僕は否定する。危うくこの2人を側室扱いされるところだった。
「私、ダニエラと申します。ヤブミ様にはあちらで、大変お世話になって……」
「ああ、いいのよ、硬い挨拶なんて。こんな寂れたアパートの一室ですまないけど、上がってちょうだい」
玄関で靴を脱ぎ、家に上がる。こういう文化に慣れていないダニエラとカテリーナも、あくせくと靴を脱いで上がる。
「そうだ、カズキとレティちゃん、お父さんに挨拶していきなさい」
「お、そうだな」
母さんが僕とレティシアに告げる。そこで僕は右隣にある部屋へと向かう。
「あら、お父様もいらっしゃるんですか」
ダニエラが言うが、僕はこう応える。
「いや、いない」
「えっ? でも今、お母様が……」
「父親はずっと昔に、亡くなったんだ」




