9、9年後 (1)
ベアトリスとアリーは執務室で向かい合い、アリーの報告書を読んでいた。
「効果はありました。ただ、教育機会と学力の向上だけではなく、やはり各家庭の養育環境にも手を差し伸べないと、より犯罪を抑制するためには難しいかもしれません」
「そうね、分かるわ」
3年前にアリーが予算を得て始めた学力向上と児童犯罪との関係性の研究は、成果が見えて一旦落ち着いたところだ。生活に余裕がない子どもは窃盗などの犯罪に手を染めることが多いが、教育機会を得ることで犯罪ではなく仕事を得るようになるという点では一定の効果が得られた。
ただし、それだけで子どもが犯罪をやめるわけではなく、より犯罪を減らすには各児童の家庭環境まで踏み込む必要があることが示唆された。
「結局、生活できるだけの余裕があれば犯罪率は減るということなんですよね。皆、生活のために罪を犯す」
「ええ」
この3年の間で、ベアトリスはアリーと仕事仲間という間柄だけでなく、友人になっていた。
アリーは仕事に大変情熱を傾けており、研究をしながら引き続き大学で教鞭を取っている。貴族夫人としては非常に珍しいことだ。
仕事が忙しくて社交界にはほとんど顔を出していないようで、義姉から伝え聞くアリーの評判は芳しくない。
だが、それを全然気にしていない様子のアリーをベアトリスはとても羨ましく感じる。自分なら他の貴族夫人の目が気になってしまうはずだ。
「アリー、少し休憩しましょう。珍しいお茶をもらったから、いかが?」
「いただきます」
ベアトリスは女官に指示して茶を入れさせた。ファーガスが土産にくれたものだ。彼は相変わらずふらふらとやってきては秘密の恋人の惚気話をしていく。
彼は周辺国を回りながらも情報収集し、それを自分の主である隣国の国王に報告することで信頼を得ているようだった。
ただ、ベアトリスもファーガスから情報を得たり、彼の情報を利用することもあるのでお互い様だ。
湯気の立つカップを優雅に持ち上げて香りを確かめたアリーは、少し長めの前髪を指先で除けた。アリーは少し髪が伸びたと思ったらすぐにまた短く切ってしまう。
いまも前髪が邪魔そうだから近いうちに切ってしまうのだろう。
「先日の式典での陛下のドレス、とても綺麗でした」
「ありがとう。あなたも素敵だったわ」
王位交代を1年後に行うという宣言を発布し、それに伴い式典を行った。アリーが褒めてくれたのはその時に着ていた淡いクリーム色のドレスのことだろう。主役は17歳のカインで、彼はシルバーの礼服を着ることになっていたため、それより目立たないようにしたのだ。
式典会場ではギルバートとアリーからも挨拶を受けた。夜会などで二人に会うことはほとんどないが、先日は大きな行事だったので出席することにしたようだった。アリーは真っ赤なドレスがその短い髪と細身の体に良く合っていた。
「こんなことを私が伺うのは良くないと分かっているのですが、退位後はどうなさるのですか?」
「それをちょうど明日、王太子と打ち合わせすることになっているの。いっそファーガスのところに行こうかとも思っているのだけれど」
「まあそんな」
「大丈夫よ、仕事のことはきちんと引き継ぎをする準備を進めているし」
それからしばらくはアリーの仕事の話と雑談を交わした。
話を終え、アリーを見送ろうとすると、入れ替わりでギルバートが部屋に入ってくる。二人は目配せをしてすれ違い、アリーは部屋を出た。
執務室にはギルバートとベアトリスが残った。
いまのような無言のやり取りをするのを見ると羨ましく思うことはあるが、もう心が痛んだり、焦れたりすることはない。
ギルバートとアリーのそれぞれと話す機会は多いのに、プライベートの話を聞くことはほとんどなく、仕事の話ばかりだ。しかし先ほどのように二人が一緒にいるのを見かけると、信頼関係で結ばれている様子が分かる。それがつまり愛し合う夫婦ということなんだろうな、とベアトリスは自分が一生経験できないであろうことを想像する。
ギルバートはカインのところから伝言を受けてきたようで、メモを持っていた。
「陛下、カイン殿下が明日の昼食会の時間を少し早めてほしいと」
「構わないわ、よろしく」
ギルバートとアリーの間には子はいない。そのことも社交界ではアリーを貶める理由の一つだ。仕事ばかりして子を持たず、家を蔑ろにしていると。
別に当人たちが良ければそれで良いのではと思うが、固定観念はなかなか変えられないのだろう。
ベアトリスだって周りの人の目を気にしてばかりなのだから。
♢
17歳になったカインはあと1年で学校を卒業するが、学業の合間にも精力的に公務を行っている。予定通り、ベアトリスは10年で女王を交代することになったのだ。
カインは亡き兄に似て整った顔をした美男子で、即位を前に縁談がひっきりなしにやってくる。それを宰相のガルシア公爵がさばき、何人かの候補の令嬢と顔合わせを進めている最中だ。
今日は昼食会と称し、ベアトリスの退位後の処遇を検討する家族会議を行うのである。ただ、昼食会には義姉はもちろん、ガルシア公爵も同席している。
「陛下、先に退位後のご希望を聞いておきますが、いかがですか」
まだ水も注がれていないのにカインが早速口を開いた。その若さでせっかちなのはなんとかした方が良いと思うが、彼のその性格は事務官からの評価は良い。仕事が早いのだ。
ベアトリスは水が注がれるのを待ち、唇を濡らしてから口を開いた。
「…皆様のご意見に従います」
「本音は?」
「隠居したい」
「だめです」
「なら聞かないでくれる?」
ムッとしてカインを見ると、10も年下の青年は目を細めてくすくすと笑っている。その表情は驚くほど亡き兄に似ていた。
「僕が即位した後、仕事はなんとかなるでしょうから、お気になさらないで結構です。ただ、隠居はだめです」
「じゃ、なに?」
「誰かと結婚してください」
「ああ…」
絶対そうくると思ってベアトリスは天を仰いだ。数年前に想像した通りだ。女王になる前の立場に戻り、王家の駒の一つになるのだ。
どうせ大して若くない元女王の行き先など、金だけ持っていて趣味の悪い男の後添えになるくらいのものだろう。しかしその男には愛人がいるのだ。自分は形だけの後妻となり、男と愛人から嫌がらせを受ける――そんなことなら結婚しない方がはるかにましではないだろうか?
ベアトリスが悲観していると、カインは違う違う、と否定した。
「僕も色々な方とお会いして思ったのですが、人生を共にするパートナーがいるというのは心強いものです。陛下はまだお若いのに、これから先ずっと一人というのは寂しいですよ、きっと」
「余計なお世話です。そもそも、私を受け入れようと思うような家はもうありません」
または先ほどの想像の通りになるか、だ。
カインはベアトリスの不安を知ってか知らずか、にやりと笑うと、ようやく手元の水に手を伸ばす。
「それは探してみないとわかりませんよ、陛下。とにかくお見合いです。ガルシア公爵、よろしくお願いします」
「かしこまりました。ただ、私の方は殿下のご縁談の方で手一杯なので、陛下の方は筆頭補佐が対応を」
「ええー…」
筆頭補佐とは、すなわちギルバートだ。
最悪だ。したくもない見合いをよりにもよってギルバートに世話されるなんて。
しかし誰かと結婚しなければならないというのは確かだ。
「誰とも気が合わなければ隠居しますからね」
「分かりましたよ」
義姉は黙って聞いていたが、最後に神妙にベアトリスを見つめた。
「陛下はずっと私たち家族のために気を遣ってくださっていたことを知っています。でももう子どもたちも大きくなりました。私たちのことは気にせず、ご自分の幸せを探してください」
「はあ…」
そう言われたところで、いまさらという感じもする。それに「私たち家族」と言われると、やはり自分は兄家族の一員ではなかったことを思い知り、ベアトリスはなんとも言えない気持ちだった。
微妙な思いで執務室で仕事をしていると、早速ガルシア公爵から話を聞いたのか、ギルバートが話しかけてきた。
「陛下、降嫁先の検討を宰相から指示されました」
「ああ…、そう。よろしく」
「候補先をリスト化するにあたり、どういったお相手が良いか、ご希望があれば考慮しますが」
ベアトリスは発言の主を上目でじろりと睨みつけた。
そりゃあ希望のタイプは…、と考えたが、余計なことは言わない方が良い。
「…誰でもいいわ、任せる」
「それでは候補者が集まったらお知らせします」
ベアトリスはギルバートに分からないように大きくため息をついた。
どんな候補者が集まるだろう。ベアトリスと同年代はそもそも残っていないし、昼間の想像のようにどこかの後妻に入るのが妥当なところだろう。
できれば問題のある男ではないことを祈るだけだ。