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8、6年後

「陛下、来週1週間、休みを頂きます」


 執務室で急にギルバートから声をかけられ、ベアトリスは書類から顔を上げた。

 ギルバートはいつもと変わらぬ表情でベアトリスが書類を読み終わるのを待っている。


「珍しいわね、旅行?」

「ええ…、そんなところです」


 ギルバートが宰相補佐として仕事を共にするようになってから、ここまでの長い休みを彼がとったことはない。

 旅行だなんて羨ましい。ベアトリスは公務で遠出をすることはあっても、自由に外に出ることはできない。学生の頃はたまにお忍びで街に出たこともあったが、とてもではないけれど今は不可能だ。


「はい、楽しんでいらっしゃいね」


 ベアトリスが読んでいた書類にサインをしてギルバートに返すと、一瞬間を置いてギルバートはそれを受け取った。


「…はい」


 土産でも頼もうかと思ったが、それは権力のある立場からの圧力になるかも、と思ってやめた。

 街を通るなら、好きな飴玉を買ってきて欲しいとも思ったが。



 ♢



 その次の休日、ベアトリスは普段よりも早く目覚めた。いつもは仕事の日よりも1時間は遅く起きるのに、今朝はおかしな夢を見て目が覚めてしまった。


 ギルバートが旅行に行くのを羨ましいと思ったためだろうか。彼と共に青い飴玉を街に買いに行く夢を見たのだ。

 夢の中でベアトリスは特に変装もせず、騎士もつけていない。ギルバートと二人きりで普通の町娘の格好をして、広い通りをぶらぶらと歩く。

 色とりどりの菓子が並ぶショーケースでなにが良いか選ぶのだ。

 そうだ、卒業する前にギルバートと街にこっそり出かけたときと同じだった。あの時彼は、チンピラみたいなおかしな服を着ていた。



 久々に幸せな夢を見たベアトリスは、寝台の上でうーんと伸びをして、寝室と続いている執務室に入った。

 休日だが、せっかく早めに起きたのでサインの必要な書類だけ片付けておこうと思ったのだ。


 未決書類を一枚ずつめくり、読み、サインをしていくと、婚姻申請書類の束にあたった。

 貴族の婚姻は女王の許可が必要で、半月に一度、まとめてベアトリスのところに上がってくる。否決することはない。了承のサインだけだ。


 少し前までは学生時代の友人の名前がちらほら記載されている事があった。ああ、あの子は結婚したんだなと微笑ましく思ってサインしたものだ。

 最近はもう知り合いの名前を見ることは少ない。24歳になって、概ね皆結婚したのだろう。


 ベアトリスは婚姻申請書類にサインをしていったが、ある一枚をめくったところで手が止まった。

 見慣れた名があったのだ。


 ギルバートだった。


「えっ…」


 一瞬息が止まり、もう一度よく見る。

 間違いない。

 ギルバート・ガルシアだ。


 ベアトリスは書類を手にしたまま動けなくなった。

 1週間休むと言っていたのはこのためだったのか。


 ギルバートもガルシア公爵も、なぜ教えてくれなかったのだろう。ベアトリスがショックを受けると思われたのだろうか。元婚約者候補だから?


 相手の欄に目をやると、アリー・セネット伯爵令嬢と記載されている。セネット伯爵は知っているが、アリー嬢は知らない。会った事があっただろうか。


 いや、とベアトリスは首を振った。

 相手が誰であろうと、ギルバートが結婚したということは事実だ。それに早く結婚しろと言ったのは自分だ。そう命じたのだから、ギルバートはそれに従っただけだ。


 震える手でサインを記そうとしたら、書類の上にぽたりと涙が落ちてしまった。


「あっ」


 そのとき初めてベアトリスは自分が泣いていることに気付いた。

 慌てて袖で書類に落ちた涙を抑える。涙の部分だけ、紙がよれてしまう。


 自分で結婚しろと言ったくせに、実際のことを全然想像できていなかった。こんなに喪失感を覚えるなんて。ばかだ。


 そのまま涙が止められなくなり、席を立って窓際に移動する。外を見ると演習場で騎士たちが訓練をしている様子が見えた。向こうからも見えてしまったらまずいと、ベアトリスは窓際を離れて部屋の反対側に移動し、壁に手をついた。


「……っ、」


 扉の外には騎士がいる。泣き声を漏らすわけにはいかない。

 時計を見るともうすぐ女官たちが部屋に来る時間だった。泣き止まねば。


 ベアトリスは喉の奥に力を入れて涙を飲み込んだ。それから袖で目を押さえる。


「…そうだわ、お祝い…、お祝いを…」


 次に会った時にどのような態度をとれば良いのだろう。なぜ教えてくれなかったの、水臭いわねと笑って問うべきか、それとも一臣下の結婚にコメントすべきでないのか。

 そのとき、自分は普通の態度が取れるかどうか。

 ギルバートが復帰するまでまだ数日ある。それまでに気持ちを立て直さなければならない。


「…大丈夫、大丈夫」


 こんなときに自分を励ます方法でさえ、当のギルバートの言葉であることに気付いて、ベアトリスはまた泣いた。



 ♢



 結局、ギルバートが1週間の休暇から復帰した時、ベアトリスは「結婚おめでとう、お幸せにね」と型通りの祝いの言葉だけ述べた。ギルバートはほんの少しだけ微笑んで、「ありがとうございます」と返した。

 その一言のやり取りだけで結婚の話題は終わってしまった。ガルシア公爵に対しても同様だ。

 平静を装うようにできていたと思うが、あまり自信はない。ベアトリスは一度落ち込んだ気分をどうにも元に戻せないでいた。


 その後、ちょうどファーガスが隣国から訪ねてきた。数ヶ月ぶりだ。

 久々に会うファーガスは数ヶ月前と変わらず、ふわふわとした金髪に眩しい笑顔で元気そうだ。


「やあやあ女王陛下、久しぶり。元気だったか?お土産を持ってきた」


 にこにこと鞄からなにかを取り出そうとするファーガスを見ていたら、ベアトリスはなんだか急に心の糸が切れ、急激に頭がぼんやりして涙がぼたぼたと出てきた。


「ちょ、ちょっ、どうした」


 突然、滂沱の涙を流し始めたベアトリスを見てファーガスが焦り、鞄から手を放して懐からハンカチを取り出す。

 唯一、自分の恋心を知っているファーガスに会ったら、なんだか我慢していたものが溢れてしまい、ベアトリスはしばらく泣き続けた。


 慌てたファーガスに慰められ、少し落ち着いてから、ベアトリスは事情を話した。


「…ふーん、それはなかなか…、見事な失恋だ」

「そうでしょう、そうなのよ」

「まさしく」


 誰にも吐露できなかった心の中をファーガスに聞いてもらい、少し気が楽になったベアトリスはお土産を急かした。

 ファーガスのお土産は精巧な彫刻の施された手鏡だった。渡されて自分を見ると、泣きはらした目が腫れて酷い顔だ。


「…ひどい不細工だわ、いま見るんじゃなかった」

「気軽に遊びに誘えるならな、失恋を慰めるために外に連れ出すんだけど、女王様だとそうもいかないのが難点だ」

「いいのよ、だいぶ気が楽になったわ。ありがとう。あなたの方はどうなの?」


 ファーガスは秘密の恋人と順調だと言った。

 ベアトリスとの交流が始まった当初、国での立場を数年間守りたいとファーガスは言った。それは自国での世代交代を待っていたためらしい。

 ファーガスはベアトリスとの婚姻画策を命じられていたが、昨年国王が代わり、もうその指令は無かったことになったようだ。新しい国王は、自国の勢力拡大にはあまり関心がないらしい。

 そのためファーガスはもうベアトリスを訪ねてくる必要はないのに、いまだに定期的に会いにやってくる。ベアトリスはいまではそれを楽しみにしていた。


「私が言うのもあれだけどね、ベアトリス。世の中には山ほど人間がいて、今後もいろんな人に会うだろう。だから、これから会う人を新たに好きになる可能性もある。悲観しない方が良い」

「そうかしら…」

「そうそう。なにもかも嫌になったら退位して私の国に来るといい」


 本当にそうしようかな、とベアトリスは思った。



 ♢



 ギルバートの結婚相手が誰なのかがずっと分からなかったが、意外なところで会うことになった。

 ギルバートの妻のアリーが、陳情願いで謁見しに来たのだ。


 初めに謁見の間に現れたアリーを見たとき、ベアトリスは驚いて呆気にとられた。

 アリーは普通のドレスこそ着ているものの、男性のように髪が短かったのだ。そんな淑女見た事がない。ただ、それは決して見苦しいものではなかった。

 背筋がピンと伸び、清潔感があり凛とした姿のアリーに、ベアトリスは目を奪われる。


「…ガルシア夫人、はじめましてかしら。ご結婚おめでとう。宰相補佐にはとてもよく働いてもらっています」

「恐れ入ります、陛下。本日はお目通りが叶い、大変嬉しく存じます」


 アリーがきりりと答えたので、気構えていたベアトリスは拍子抜けした。

 幼馴染みとしてギルバートの結婚相手を品定めしてやろうという浅ましい気持ちでいたのだが、アリーの様子に毒気を抜かれてしまったのだ。なんだか、とても印象が良い。


 陳情願いに多いのは道路の整備や河川の洪水対策などの公共工事に関するものや、各領地で決着できなかった紛争に関わる案件、それから福祉だ。

 アリーが訴えてきたのは教育に関してだった。彼女は大学で教育分野の研究をしながら、自らも学生に教えているという。


「私は幼児期の養育環境と学びが、児童犯罪にどのように影響しているかを研究しております。その中で、公的教育費の投入が多い地域ほど児童犯罪が少ないことが分かりました」

「ええ」

「ただ所得の多い地域ほど公的教育費も多いので、高所得世帯が多いから犯罪率が低いのか、それとも直接的に教育が犯罪率低下に寄与しているのかが分かりません。そこで次に、実際にある地域で集中的に学力向上に取り組み、その前後での児童犯罪率の変化を探ってみたいと考えております」

「なるほど」


 アリーはそのための予算配分を検討してほしいという陳情だった。

 確かにベアトリスにとっても興味深い話だった。

 即位して6年、ようやく独自色を出した仕事に取り組めるようになってきたベアトリスが2年ほど前から力を入れ始めたのが教育、福祉分野だからだ。

 この国では皆が教育を受けられる権利を有するものの、まだまだ生活環境により教育格差があることは否めず、ベアトリスはそれをなんとかしたいと考えていた。

 

 そのため、アリーの話は魅力的だった。ただ、実際に予算をつけるにはもう少し詳細が欲しい。


「前向きに検討するから、今回の件の詳細とこれまでのあなたの研究の報告書をまとめて上げてもらえるかしら?」

「かしこまりました。ありがとうございます」



 アリーが帰った後、ベアトリスはギルバートに声をかけた。


「あなたの奥様、とても素敵ね」


 ギルバートは一瞬きょとんと目を丸くした後、ほんの少し照れたようにそっぽを向いて「恐れ入ります」と返事した。

 ギルバートのこんな反応、意外だ。彼も好きな女性を褒められて照れたりするようなことがあるんだ、と微笑ましく思う。いいなあ、と羨ましく思う一方、今度こそギルバートのことを諦められそうだとベアトリスは思った。


 ギルバートが選んだ女性だ。素敵な人に決まっている。そして、出来ればそのことを祝福できる自分でいたい。ようやく初恋を終わらせることができるのだ。良かったと思おう。

 退位まであと4年。まだ頑張らねばならない。


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