7、5年後
ファーガスが結婚したくない理由はしばらくしてから分かった。二人が定期的に会うようになって一年ほどが経ってから、ファーガスが告げたのだ。
「私には秘密の恋人がいて、それで結婚したくない」
二人はテラスでボードゲームをしていた。昔、ギルバートとよく遊んでいたやつだ。パチリと駒の音が響く。
秘密の恋人と聞いて、ベアトリスは盤上から視線を上げた。今日もファーガスの髪はふわふわだ。
「…既婚者?」
「いや、彼は独身」
その一言で意味がわかった。確かに、ファーガスの国でもまだ正式に結婚が認められない相手だ。
ベアトリスはファーガスが見た目に反して女性関係の噂がない理由を理解した。
「引いた?」
「いいえ。想い合う相手がいるなんて羨ましいわ」
「ベアトリスは?婚約者がいたと聞いたが」
ファーガスと交流を持つようになってから、彼は常識的で理知的な人間であることを実感していた。国を裏切ってベアトリスと仲の良いふりをしているのだから全面的に信頼はできないけれども、隣国の状況を知る上で重要な人物だ。
一方でベアトリスは国の諜報機関に隣国の様子をきちんと探らせてもいる。その話はファーガスが話す内容と一致していた。
ファーガスと一年接してきて、ある程度信頼している。そのため、ベアトリスはほんの少しだけ心の中を吐露した。
「婚約者ではなかったわ。結婚したかったけど」
「すれば良かったのに。まだ好きなのか?」
「どうかしら」
どうかしらなどとうそぶいてみたが、そんなものではない。毎日顔を見るのだ。嫌でも意識してしまうし、彼は自分の聖域だ。嫌いになんてなれない。
ファーガスはそれでベアトリスの心の中を理解してしまったようで、手元の駒を弄びながらにやにやしてベアトリスを見つめた。
「なんて可哀想な女王陛下」
「やめてよ」
ふざけて笑い合うと、少し気が軽くなった。自分の恋心を他人に漏らしたのはこれが初めてだ。
その日、ファーガスが帰ってから執務室で仕事をしていると、ギルバートが書類を持って入ってきた。
ギルバートはこの一年でさらに仕事を任され、宰相補佐の中では筆頭になっている。順調な仕事ぶりだ。
受け取って書類を読み始めると、普段ならすぐに下がるギルバートがその場を離れず、立ったままこちらを見下ろしている。
「…なに?」
顔を上げると、難しい顔をしたギルバートと目が合った。なにか言いたいことを我慢しているような顔だ。
「ギルバート、なにか言いたいことが?」
「陛下、ファーガス王子と結婚を?」
硬い声とその言葉にどきりとした。
ギルバートが自分の結婚を気にしている。
まさか、ギルバートが嫉妬しているように聞こえてしまう。
「…結婚はしないわ」
「ですが、皆、そのように思っています。もしファーガス王子と結婚なさるのならそれなりに準備が必要ですし、長めに婚約期間を設けた方が」
全然違った。
一瞬浮ついてしまったベアトリスの心が急速に萎み、冷え込んでいく。
ギルバートに他の男との結婚の段取りをされるなんて死ぬほど嫌だ。冗談じゃない。
「違う」
「隣国の王子ですから式も華やかなものになるでしょうし、外交上、調整も…」
「結婚しないって言ってるでしょう!!」
はっと気付いて、ベアトリスは口を押さえた。思わずかっとなって大きな声を出してしまった。
目の前でギルバートが驚いた表情で固まった。青い瞳が揺れている。
ベアトリスは呼吸を整えてゆっくり口を開いた。
「…何回言えばわかるの、ギルバート。私は結婚しない。もう言わせないで。私のことより、自分のことを考えなさい。もう23よ。早く相手を見つけて結婚しなさい」
ゆっくり、しかし一息で言い切ると、ベアトリスはギルバートの顔を見ず、仕事に戻った。ギルバートはしばし立ち尽くしていたものの、「失礼しました」と一言残してその場を去った。
扉が閉まった音を聞いてから、ペンを放り投げて机に突っ伏す。
声を荒らげてしまった。ギルバートに。
そもそも、即位が決まった5年前に自分から手酷い言葉を投げつけておいて、いまさら期待してしまうなんて、なんて身勝手なんだろうとベアトリスは自嘲した。
彼を嫌いになりたい。早く彼が結婚してしまえば良いのだ。そうすればきっと諦められるのに。
♢
ギルバートの様子は表面上は元に戻った。それからはファーガスが訪ねてきたところで特に口を出すこともない。
時折、義姉からはファーガスとの関係性を問われたが、ベアトリスは曖昧に返事をした。義姉が聞いてきたということは、社交界でそれなりに話題になってしまっているということだ。
でも、もうそれでも構わない。ファーガスの言っていたように隠れ蓑にさせてもらおう。
ベアトリスが即位して5年が経ち、王太子であるカインも大分しっかりしてきたため、一部の公務に同行するようになった。
ベアトリスとは違い、カインは幼い頃から将来を見越して教育されている。そのため視察や慰問など、市民と直接会う機会のある公務を担うことで認知度を上げ、スムーズに王位を交代できるようにしたいという狙いだった。
宰相のガルシア公爵もカインの能力を評価している。
「亡くなった陛下に似て理知的でいらっしゃいますよ。予定通り即位されて大丈夫のように思います」
「私が即位した18で交代するとして…、あと5年ね」
先のことは考えないようにしているが、それでも女王でなくなったらどうしようかというのは想像してしまう。
あと5年で退位するとしてもベアトリスはまだ28、カインが20になるまで待つとしても30だ。その頃にはカインの弟妹も育ち、後継問題に神経質になる必要はなくなるだろう。カインとその弟妹が王家を繁栄させていくのだ。
そうすると、今度はベアトリスの役割は始めの状態に戻る可能性があると考えていた。すなわち、国内での繋がりを強めるため、または他国との関係強化のため、どこかに降嫁するのだ。
女王でいる間は結婚せず、子を持たないと宣言したことは間違いなかったと考えている。現にもう面倒な縁談は来ないし、もし結婚すれば子を望まれ、子を産めば後継問題が生じる可能性があった。
しかし、女王でなくなったら話は別だ。自分は王家の駒の一つに戻る。
ただ、もう若くはない元女王という面倒な肩書の自分を受け入れる家があるとも考えづらかった。いっそファーガスと嘘の婚姻を結んでしまおうか。
「陛下、先のことはあまりお考えにならない方がよろしいですよ。退位したからといっていきなり仕事を抜けられるとは思えませんし」
「えっ」
「カイン殿下もお若いですし、退位なさっても当分はまだ頼られるでしょうから」
「ええー…」
ガルシア公爵は息子とよく似た表情で微笑むと、仕事の話を始めた。
ベアトリスは頭の隅でほんの少しだけ考える。
もし、ギルバートが5年後も独身だったら。
今度こそ結婚できるだろうか、と。
ただ、それは考えてはいけないことだと分かっている。ギルバートは宰相の家の嫡男だ。弟妹はいるが、後継は必須だろう。若くない自分と婚姻を結ぶことはできない。
――それでも、もしかしたら。
ベアトリスが頭をぶんぶんと振ってよくない想像を追い出すと、ガルシア公爵が不思議そうな顔でベアトリスを見つめた。