2、未来
卒業前試験のための勉強と称して、兄たちとの昼食の後で部屋にこもったベアトリスは、扉の前に誰もいないことを確認して部屋を出た。
飾りのないシンプルな紺色のワンピースで髪を一つに結び、できるだけ地味にしたつもりだ。
王族の居住エリアには騎士や女官がうろうろしているので、女官の制服でないベアトリスは目立つ。
廊下からこっそり庭に出て、草木に身を隠しながら広い庭園を移動し、庭師用の出入り口から外に出た。昔王宮に出入りしていたギルバートから教えてもらった抜け道だ。
待ち合わせ場所である時計台に着くと、すでにギルバートが待っていた。
彼もいつもとは違う。貴族服に似たかたちの服だが、テカテカしているのになぜかぺらぺらの生地で、しかもそれを着崩している。
ベアトリスが声をかけると、ギルバートはベアトリスの格好を上から下まで眺めてにやりと笑った。
「いいね、とてもお姫様に見えない。地味すぎる」
「それ、褒めてる?そういうギルも、素行の悪い成金の息子に見える」
「そうだよ、今日の俺は家に引きこもっている女学生を連れ出して悪いことを教える、遊び人の学生という設定」
妙に具体的な役作りに、眉を寄せてギルバートを眺めた。なんて胡散臭いのだろう。
「その設定を聞くとますます格好悪く見えるわ」
「狙い通りに見えてなにより。さあ行こう」
街の外れの野外講堂にそのサーカス団は来ていた。全国を回っており、期間限定で公演を行うのだ。
二人が講堂に着くと、立て看板が出ていてなにやらたくさんの人がその前で看板を囲んでいる。
「あー、残念。公演中止だって」
背伸びして看板を見たギルバートが残念そうに頭を押さえた。ベアトリスでは背が足りなくて見えないが、どうやら演者の急な怪我で公演中止になってしまったようだ。
「まあ、残念だわ」
「仕方ない。まあ、サーカス団は定期的に来るから次の機会に。どこに行く?」
予定していた事がなくなり、二人は街に戻ってぶらぶらと大通りを散歩した。
それからいつものお気に入りの飴玉を売っている菓子店に入った。ギルバートには店の外で待っててもらい、ベアトリス一人で入る。
ベアトリスはいつもの青色の飴を選び、それから会計で自分で金を払って品物を受け取った。
店を出たベアトリスはほっと息をついた。自分で買い物をする機会は貴重だ。というか、ギルバートとこっそり出かけるときにしか買い物をする事がない。
「買えた?」
「バカにしないで、買えるわよ。もう何回も買い物をしているもの」
「前回は試食にうろたえて半泣きだったくせに」
前に別の店で買い物をした時に店員が店内試食をさせてくれたのだが、それに対して金を払うべきなのかが分からず困惑したのだ。
店の外で待っていたギルバートに聞こうにも、もし金を払わねばならないなら、店を出ると窃盗になってしまう。結局店の窓越しに外で待つギルバートに身振り手振り、半泣きで助けを求めたのだった。
「あれは…、非常に貴重な経験をさせて頂き、誠にありがたく…」
「なに言ってるの」
行儀が悪いことは分かっていたが、ベアトリスは外で袋を開き、青い飴玉を一つ口に含んだ。すーっとした味が鼻に抜ける。
しばらく舐めながら歩いていると隣のギルバートがこちらを見ていたので、飴が欲しいのかと思ってベアトリスは包みを見せた。
「ギルもひとついる?」
「いや、いい。ありがと。ビーはなんでその飴が好きなの?いつもそれだ」
「味も好きだけど…、なんだかギルの瞳の色に似ているし、綺麗」
するとベアトリスの言葉を聞いたギルバートはぎょっとして身を反らした。
「えっ、それはつまり、俺の眼球を……」
顔色を変えたギルバートがおかしな想像をしているようだったので、ベアトリスは悪戯心を起こし、にやりと笑った。
「そうそう、見てて」
それからわざと口の中の飴を見せつけてやってから、小さくなったそれをそのままガリガリと噛み砕いた。
「ひえっ、やめてえ」
ガリガリという飴の音から痛い想像をしたらしいギルバートは、女の子のような悲鳴を上げて自分の目を手で押さえた。
ベアトリスはそれを見てけらけらと笑った。
♢
立ち並ぶ店を眺めながら歩いていたが、ふと周りを見ると、休日なので非常に人通りが多く、ベアトリスたち以外にも若い男女が多いことに気付いた。
中には寄り添って腕を組んでいる人たちもおり、ベアトリスにはとても羨ましく感じる。
「ねえ、ギル。他の人たちと同じように腕を組んでみてもいい?」
「別にいいけど…、夜会で散々エスコートしてるんだから変わらなくない?」
「全然違うわよ」
嬉しくなって彼の腕に軽く手を回すと、自分が周りの風景に溶け込んだ気がする。とても普通だ。
「結婚したらどんな生活になるのかしら。ガルシア公爵夫人は普段なにをしていらっしゃるの?」
「え、母?うーん、家の仕事したり、お客さん招いたり、招かれたり…、あっ、そうだ!」
ギルバートが急に大きな声を出して足を止めたので、ベアトリスは思わずつんのめった。組んだ腕に力を入れる。
「なに、急に」
「なんかうち、急に犬を飼い始めちゃったんだよ。ビー、犬は平気?」
「平気だけど」
「ああ、そう、良かった。昔、ビーは動物が好きだったから大丈夫だろうって父が言うんだけど、いまはどうだか分からないじゃないか。平気なら良かった」
婚約発表もまだなのに、もうベアトリスが家に来ることを想定して動いていることを知り、ベアトリスは面映い気持ちになった。正直に、嬉しい。
「どんな犬なの?」
「いまは小さいけど、すごく大きくなるんだってさ。でも全然俺に懐かない。完全に俺を舐めているもんで腹立つ」
「子犬に対して大人げないわね」
「ビーも嫌われればいいさ」
悔しそうに言い捨てたギルバートが面白くなって、ベアトリスはふふふと頬を緩める。
子犬から吠えられて腰が引ける彼の姿を想像した。可愛いじゃないか。
「まだまだ先の話だわ」
「全然先じゃない。もううちの家族はビーの部屋の準備を始めてる」
「まあ」
歓迎されているようで素直にありがたいとベアトリスは感じた。母は人気のあった王妃ではない。そしてその娘である自分も、兄王の家族の付属品として見られていることは把握している。
それでも望まれて、受け入れてもらえるのだから幸せだ。
「…なにかこれまでと変わるかしら」
「なにが?」
「私たちの関係性」
うーん、と天を仰いだギルバートは少し考えて口を開いた。
「変わるんじゃない?毎日会うし、そしたら毎日ボードゲームできる」
「そこなの?」
「それに、家族になるんだから子どももできるかも。どんな髪の色の子が生まれるだろう」
そうか、家族。広い王宮で微妙にあぶれたひとりという状態は終わりだ。自分だけの家族ができるのだ。
ベアトリスは平凡な茶色い髪に茶色い瞳。ギルバートは黒髪に暗めの青い瞳をしている。どんな色を持つ子どもになるだろう?彼の青い瞳を継いで欲しいと思うが、自分の茶色と混ざると難しいだろうか。
「ああ、楽しみだわ」
「そうだね」
ベアトリスはまだ見ぬ未来を想像した。
彼の美しい瞳が好き。それに声も好き。ギルバートの声は穏やかな波のようだ。落ち着く。なにより人柄が好き。彼の全てが好き。
嫌なことや辛いことがあっても、毎日ギルバートが隣にいるなら幸せだ。
「でも子どもができなかったらどうしよう」
「大丈夫、大丈夫。そんなこと気にしなくて。なんとかなる。ビー、いろいろ考えすぎると禿げるよ」
ベアトリスは思わず、ぱっと自分の頭を押さえた。
二人はまた時計台の前で別れ、ベアトリスは来た道を戻って自室に帰った。誰にも見つからなかったはずだ。おそらく。
デートを思い出してしばらくはふわふわとした気分のベアトリスだったが、それは長くは続かなかった。
兄王が急逝したのだ。