17、10年後とそれから
「ココ、ただいま」
ベアトリスは整えられた芝生の上にしゃがみこみ、全身が灰色の毛に覆われた大きな犬の首を撫でた。ココと呼ばれた犬ははふさふさのしっぽをゆっくりと優雅に振る。
「ええー、俺に対しての態度と全然違う」
ギルバートが文句を言うとそれが分かったのか、ココは馬鹿にするようにフスンと鼻を鳴らした。
10年前にガルシア公爵家に迎え入れられた当時は子犬だったココは、公爵家の皆の予想を超えて大きくなった。中年と言える歳だが、まだまだ元気だ。
あの当時、子犬になめられているとぼやいていたギルバートだがそれは10年経っても変わらず、ココにとっての家庭内順位は低いようだ。
カインの即位および結婚に伴う華やかな儀式の陰でひっそりとギルバートと結婚したベアトリスだったが、すぐにガルシア公爵家に入るというわけにはいかなかった。
順調に仕事の引継ぎを済ませたつもりだったが、思いのほかカイン以外の甥姪への公務の引継ぎが難航したのと、あちこちから引き留められたせいで、完全に王族としての仕事を離れるのに退位から半年近くかかったのだ。
さらに退位と同時に学校へ編入し、少しでも空いた時間があれば授業を受けに通っていた。
そのため半年間は夫となったギルバートとは別居のまま王宮に住み、仕事しながら学校へ通うという、さながら勤労学生のような生活をしていた。
仕事が片付き、ガルシア公爵家へ引っ越してきてからようやく学業に集中できた。一度は学んだことのある内容だったが、10年も前なのでやはり試験で点を取るにはきちんと学び直す必要があったのだ。
そして編入して1年で卒業前試験をクリアしたベアトリスは、念願だった卒業が決まったところだ。
この1年、仕事と学校で忙しかったため、結婚したにも関わらず社交界へは顔を出さなかった。ガルシア公爵家の嫁はどいつもこいつも、と思われているかもしれないが、そういった噂も耳に入らないような状況だったのはある意味ラッキーだったかもしれない。
ただ、義姉から漏れ聞いた話では皆、カインが口説き落として妃にした国王夫妻の恋物語や、カインたちの弟妹の婚姻話の方が旬らしく、学生なんてやっている元女王は大して話題に上らないようだ。
ココに挨拶をして屋敷に入ったベアトリスは、卒業パーティのためのドレスを試着していた。
「ギル、どう思う?」
「いいと思うよ」
「本当に?」
10年前に仕立てたドレスはさすがにそのまま着ることは体型的にも流行的にも困難であったが、しかしベアトリスはどうしてもそれを着たかった。そのため、いまの年齢でも着られるように直したのだ。
正直なところ、30歳近い自分が着るには派手かもしれないと思う。だが、着たい。
「あと、卒業パーティは本当にギルがエスコートしてくれるの?」
「うん」
「他の学生たちは皆、一回り下の子どもたちばかりだけど…、場違いじゃない?恥ずかしくないかしら?」
ベアトリスのいつもの不安そうな声を聞いたギルバートは、ふふ、と顔を綻ばせた。
「一緒に授業を受けていたんでしょう、恥ずかしかったの?」
「いいえ、楽しかったわ」
「じゃあ、いいじゃん」
周りよりかなりの年上でしかも元女王ということで気負っていたベアトリスだったが、学生たちの方はあまり気にしていなかったようだ。課題を相談し合い、勉強を教え合って、元女王は普通の学生生活を送ることが出来た。
「そうね、学校は楽しかったわ。もっと勉強したい」
「するといいよ。アリーのいる大学なら近いよ」
アリーは少し前に隣国への留学を終え、ひっそり帰国していた。そしてもともと所属していた大学に戻り、研究員として熱心に働いている。久々に会った彼女は相変わらず男の子のように髪を短くしていた。
確かにアリーのいる大学は屋敷から近く、そこに通うのも楽しいかもしれない。ただ、ベアトリスには他にも希望があった。
「そうねえ…、まあ、もう少し先に考えるわ」
「なんで?」
「子どもが欲しいもの」
結婚して1年間忙しかったが、ベアトリスはずっと子どもを欲しいと思っていた。10年前、将来どんな色の髪や瞳をした子どもが生まれるのかを見てみたいと望んでいた。今だって年齢的に不可能なわけではない。
普通の望みを口にしたベアトリスだったが、予想外にギルバートは耳を赤くして俯いた。10年前は「どんな子どもが生まれるか楽しみだね」と朗らかに言っていたのに。
「なぜ照れるのよ」
「えっ、いやそうだね、ごめん。普通のことだ」
ギルバートは動揺を隠すようにごほんと咳ばらいをして立ち上がり、青いドレスのベアトリスの手を取る。見上げると、ドレスと同じ色の瞳と目が合った。
「でもさ、ビーは俺のことを全然構ってくれないよね。10年も激務をこなして、ようやく結婚できたと思ってもまだ仕事と勉強。それでこの後、子どもが出来たらそっちにかかりきりになるんでしょう」
「そ、そうかしら」
両手を取られて優しく撫でられ、ベアトリスは固まった。
ギルバートに手を触れられると動けなくなってしまう。完全にあのサーカスのときの影響だ。しかもそれを彼は分かってやっている。
「そうそう、少しは俺のことも構ってよ」
ギルバートの手が離れ、青いドレスの背中に回って抱きしめられたので、ベアトリスは力を抜いてギルバートの胸に頭をもたれた。
そっと耳を押しあてると、自分と同じ、少し速くなっている心臓の鼓動が聞こえた。
♢
数年後、母になったベアトリスは陽の当たる部屋で小さな寝台に眠っている赤ん坊を眺めていた。赤ん坊の上には可愛らしい星や月が施されたチャームがふよふよと揺れている。ファーガスが贈ってくれたものだ。
数週間前に生まれたばかりの彼は、すやすやとよく寝ているように見える。が、あまりにも静かなのできちんと呼吸しているのかが不安になる。
ベアトリスはそっと、赤ん坊の顔に耳を近付けてみた。大丈夫だ、呼吸している。
その時、パタパタと足音がして、バタンと勢いよく扉が開いた。
起きてしまったかと思って赤ん坊を見たが、一瞬びくりとしただけでまた寝た。なぜ彼は賑やかな場所でも寝られるのだろう。
「お母さま!今度のお誕生日会、この赤い服着ていい!?リリーとお揃いにしたいの!」
ベアトリスが扉を振り向くと、4歳の娘が息を切らして立っていた。鮮やかな赤いドレスを抱えている。
誕生日会とは、国王であるカインの誕生日会だ。国王夫妻には娘がおり、ベアトリスの娘と同い年だ。
昔のベアトリスだったら、淑女として従姉妹と同じ色のドレスはやめておいたら、と言ったかもしれない。でも、お揃い。そういう見方もあるのか。
「いいわよ、汚さないようにしまっておいてね」
「ありがと!」
またパタパタと足音が遠ざかる途中で、きゃあという楽しそうな悲鳴が聞こえた。娘が廊下を走っていてギルバートに捕まったのだろう。大きな腕に抱えられて、部屋に入ってきた。
「こらこら、廊下を走っちゃだめ。今ので起きちゃったんじゃないの?」
「大丈夫、寝てるわ」
「なぜこんなにうるさくて寝られるんだ」
夫と娘の大きな瞳が小さな寝台に眠る赤ん坊を覗き込む。息子は先ほどと変わらずすやすやと眠っていた。
自分たちの子どもがどんな色の髪や瞳になるのかをベアトリスは楽しみにしていた。
娘は生まれたばかりの頃は深い青い瞳でギルバートにそっくりだった。しかし成長するにつれ、少しずつ青い色はくすんでいき、今後は茶色くなっていきそうだ。
子どもの瞳の色が成長とともに変化することは珍しいことではない。それに始めはギルバートの色で、そこからだんだん自分の色に近付いていくことは遺伝の神秘を感じて、ベアトリスは嬉しく思った。息子も今のところ青い瞳だが、これから変化していくだろう。
「ビー、これ、論文の査読結果が来ていたよ」
「本当?どうだったかしら」
ギルバートが書類を差し出したので、行儀が悪いと思いながらもベアトリスは気が急いてその場で封筒をびりびりと破いた。
「ああ…」
「どうだった?」
「うーん、直せば大丈夫みたいだけど…、ちょっと大変かも」
ベアトリスは息子を出産する2ヶ月前まで、大学に通って論文をまとめていた。専攻は違うが、アリーが勤めている大学だ。
そして出産までには、となんとか論文を提出したのだが、あちこち修正やら再検討やらが入って返ってきた。再提出には時間がかかりそうだ。
「まあ、いいわ。もう少し落ち着いたら手を付ける」
「そうだね、そうするといい」
ベアトリスは時間を縫って社交界にも顔を出すことはあるが、もう周りの目を気にすることはない。
様々なことを言われたり、噂が耳に入ることはあるけれども、それを気にするほど暇ではないし、もう身動きの取れない状況でもない。
優しい腕で娘を抱え、穏やかな瞳で息子を見つめるギルバートを眺めていると、視線に気付いたのかギルバートが顔を上げた。
「どうしたの?」
「……昔の自分に教えてあげたいなあと思って」
「なにを?」
「内緒」
そう、衣装部屋に閉じこもった自分に教えてあげたい。
清く、正しくあろうとした10年は無駄ではなかった。長くかかるけれど頑張って働いて、そして大切な人の手を取れば、目も眩むような幸せが待っているわよ、と。
「でも、人生一度きりだから、これからは、いえ、これからも自分のやりたいことを自由にやるわ」
ベアトリスが高らかに宣言した瞬間、赤ん坊がふぎゃあと声を上げたので、3人は慌ててしーっと顔を見合わせた。
《 おしまい 》
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