16、女王陛下は醜聞を避けたい
―――ん?
自分の発した言葉をうまく理解できない。
つい先ほど、ギルバートに対して「嫌い」だと言った。しかし、いま、目の前の男には「彼を愛している」と言葉が出たような気がする。
一連のやり取りを頭の中で繰り返したベアトリスは、自分がとんでもない言葉を大声で発し、かつ、いまこの瞬間、衆人の注目を集めていることに気が付いた。
ぐるりと周りを見ると、その場にいる皆がぽかんと呆け、その視線は自分に集まっている。
視界の端ではギルバートが真っ赤な顔で立ち尽くしているのが分かった。
大変なことをしてしまった。
頭の中が真っ白になり混乱したベアトリスは、今度こそその場から逃げ出した。
「陛下!」
誰かに声をかけられたが、構わず人混みをかき分ける。皆が走り去るベアトリスを目で追う。騎士が慌てて付いてくるのが分かったので進路を変えて撒いた。
行く先も決めぬままとにかく走り、ベアトリスは王宮の庭園の隅に辿り着いたところでようやく足を止めた。
騎士や女官も付いて来られていない。
木の葉がざあざあと風になびく音と、自分の荒い呼吸だけが響いている。体力がないのに全力で走ってきたので心臓が割れそうだ。
それだけではない。先ほどの自分の行動も自分自身理解できずに胸がじくじくと痛む。ベアトリスは作業用のベンチにへたり込み、前かがみになって腕で顔を覆った。
「は……」
どうしてあんなこと言ってしまったんだろう。
ギルバートを侮辱されたのに腹が立ったのは事実だ。それは良い。だって彼は仕事は申し分ないのだから。
しかし恋人関係を示唆されてすぐさま否定すべきだった。あれでは関係を認めたように聞こえる。
そしてなぜ自分の口から思いもよらぬ言葉が出てしまったのか……――。
「ううう」
「…ビー、大丈夫?」
すぐ近くで、くしゃりと葉を踏む音がした。
顔を上げなくても誰だか分かった。このように呼ぶ人は1人しかいない。
ベアトリスが恐る恐る顔を上げると、青い瞳と目が合った。椅子に座ったベアトリスの目の前で片膝をついてしゃがんでいる。
ギルバートの片手は空で止まったままだ。慰めようとしてくれて逡巡したのだろう。
――もう、触れてくれてもいいのに。
ベアトリスは目の奥が熱くなって視界が滲んできた。
「…大丈夫じゃない」
「…うん」
「私は女王として醜聞を避けたいのに」
「うん」
「でも私の中身が、もう抗えないと言っている」
そうだ。
逃げられないのは明白だった。ずっと昔から支えてきてくれたギルバートを人生から追い出すなど、不可能だ。
さっき、思わず叫んでしまった言葉は、留めていた心の中の本心が勢い良く出てしまったのだ。
一度は諦めたが、でも今は手の届くところにいる。
そしてその手を伸ばすことができる。
「ギル、嫌いだなんて言ってごめんなさい、本当は」
「ま、待って待って」
ギルバートは少し慌てた様子でベアトリスを制止した。
思わず瞬きをした拍子に目からぽろりと粒がこぼれる。
「俺の方こそごめん、ビーの性格を知っているんだからもっと良い方法はあったはずなのに、困らせて本当にごめん」
「ううん」
「ビーの気持ちを知ることができてとても嬉しい」
「うん」
ベアトリスが涙声で返事をすると、ギルバートはきょろきょろと周りを見回した。
「9年前と同じ場所だから、プロポーズをやり直させてもらえる?」
「……いま、誰も周りにいないけどいいの?」
9年前はプロポーズにも、それを断るのにも目撃者が必要だった。茶番だけれど、事実を作るために。
でも今は誰も周りにいない。木々が風に吹かれてざわざわと音を立てるだけだ。
「あのさ、普通、こういうときは周りに誰もいないものなの」
呆れたように苦笑したギルバートはベアトリスの両手を取り、深呼吸した。
やはり違和感はない。彼の手は温かくて、自分にしっとりと馴染む。安心する。
取られた手から顔を上げると、また青い瞳と視線が絡まった。
「――結婚してください」
ベアトリスは微笑んで大きく頷くと、ギルバートの首に両手を回して抱きついた。すぐに背中に大きな手が回される。
もう周りからどう思われようと、どうでもいい。
幸せだ。
誰もいない庭で祝福するように風が強く吹いて、二人の髪をなびかせた。
♢
「いやあ、本当に素晴らしい告白だった。エンターテイメントショーのようだったね」
降嫁先を決めたので、また家族会議と称してベアトリスは皆と昼食を共にしていた。
カインと義姉だけでなく、なぜかファーガスも同席している。ベアトリス以外の3人はあの夜会でのベアトリスの告白を思い出して顔を見合わせにやにやしていた。
あの後、ベアトリスが会場を逃げ出してから、ギルバートは呆気にとられたロッソと周りの人々に対し「まだ恋人関係ではない、いま女王を口説いているところなので邪魔しないでくれ」と告げ、すぐにベアトリスを追ったという。
「まあ、早々にこうなると分かっていましたけどね。無事に丸く収まって良かったです」
「…いつまでにやにやしているのよ…」
3人のからかい声を避けるように、ベアトリスは顔を下げて頭を抱えた。
止めなければ永遠にからかわれそうだ。
「そうだわ、あなたの方はどうなの」
ベアトリスがカインに話を振ると、カインは「それがですね」と目を輝かせて身を乗り出した。
「望む通りの答えをくれる令嬢に出会いました」
「本当に?」
「ええ。見合い相手の1人なんですけどね、例の質問をしたら、戦いますって。非常に好戦的な令嬢でした。男兄弟が多いそうなんですよ」
件の質問は「食べたいものがその場に1つしかない場合にどうするか」というものだ。カインは取り合える対等な関係になりたいと言っていた。そんな令嬢が現れるなど困難だろうと思っていたのに。
義姉はうきうきと話す息子を半ば呆れた目で眺め、諦めたように首を振った。義姉が難色を示すということは社交界的には百点満点とはいかない相手なのかもしれない。
「ただ、なぜか結婚を渋られていて…、いま追い詰めているところなんです」
カインの追い詰めるという物騒な表現にベアトリスが引いていると、義姉がそっと耳打ちしてくる。
「陛下のご評判はあまり気に病まれなくても大丈夫ですよ。いま、皆の話題はカインたちのことで持ちきりですから」
「そうですか…」
若い甥が身代わりになってくれてほんの少しほっとしたベアトリスだが、それでも自分とギルバートの関係が周りからどのように噂されているのか確認する勇気はない。
結局家族の一員のようになってしまったファーガスは、にこにこと笑ってベアトリスを称えた。
「なんにせよ、自分のことのように嬉しいよ。おめでとう、ベアトリス。お疲れ様」
「あなたのおかげよ、ありがとう」
「絶対に幸せになるんだぞ。でないと相手の男を私がとってしまうから」
ファーガスの茶化した言葉にベアトリスは笑ったが、カインと義姉はぎょっとして顔を見合わせた。
♢
ギルバートの視線が盤上を動く。彼の次の手がすぐに分かる。昔と同じだ。
二人はテラスでボードゲームをしていた。
降嫁が決まり、時間が空いた時には本当にたまにだが、ギルバートと二人の時間を過ごすことができるようになった。
「そうだ、ギルは、私とあなたで食べたいものがその場に1つしかない場合、どうする?」
「なにそれ、なぞなぞ?」
ベアトリスの急な質問に疑問の表情を浮かべたギルバートだが、うーん、と少し考えて口を開いた。
「そもそもさ、ビーと俺で取り合いになるようなもの、ないよね。好きな食べ物がかぶってない」
「う、うーん、まあそうね…、例えばの話なんだけど」
「あげるあげる。ビーがいればいいから、それより優先すべきものなんてない」
ギルバートから不意打ちで胸がきゅんとするようなことを言われて、ベアトリスは身悶えた。
同じ質問をした他の男性から同様の答えが返ってきたこともあるのにその時には感じなかった気持ちで、我ながら現金なものだ。
ギルバートは盤上から視線を上げず、ベアトリスのそんな心の機微に気付かないまま話を変えた。
「ビーはさ、退位したらなにかやりたいことないの?」
「なにかって?公爵家の仕事をするようになるでしょう?」
「そういうのではなくて…、もっと、個人的にやりたいこととか、行きたいところ」
なんだろう、なにかあるだろうかと考える。
ギルバートと結婚できるだけで僥倖なのだが、ほかに女王になるために諦めたことを思い出す。
「――あ、」
「なに?」
「学校を卒業したかったわ、もう無理だけど」
急に即位が決まってしまい、あとは卒業前試験だけだったのにそれを受けることが出来ず退学してしまった。
それに試験は問題なく受かるだろうと見込んでいたので卒業パーティのためのドレスも贈ってもらったが、結局着られず仕舞いで一度も袖を通さぬまま保管している。
「無理なんてことはないんじゃない?」
「ええ?無理よ。学んだことを全て忘れたし、それに学生は一回りも年下だわ」
ギルバートは少し考えこむ顔をしたが、うん、と頷いた。
「大丈夫だよ、女王が学校を卒業できなかったことは皆知っている。また勉強したいと思うことは悪いことではないし、何歳になっても学校に通えるという見本になることは良いことだ」
「途中で編入なんてできるのかしら」
「無理なら制度を変えてしまえば。女王なんだから」
あっけらかんと話すギルバートにベアトリスは目を丸くしたが、学校を卒業できる可能性を考えると、正直なところわくわくした。
昔の自分だったら絶対無理と思っていたところだが、今は違う。
アリーだって大学で研究しながら教えてもいた。学校に通い直すことくらい大したことではないように思えてくる。
「そうね、調べてみる」
「うん、ほかには?」
「そうねえ…」
ほかにやりたいことなどあっただろうかとギルバートをぼんやりと見つめる。
すると視線に気付いたギルバートが盤上から顔を上げてベアトリスに目を向けた。ギルバートの青い瞳に光が入って、ベアトリスは綺麗だなと思った。
「…ああ、そうだわ、いつもの飴玉を自分で買いに行きたい」
ぽつりと呟くと、ギルバートは「げっ」と声を漏らして固まった。
「いま、俺の瞳を見て思い出したでしょう。恐っ」
「よく分かってるじゃない」
ベアトリスがずいぶん昔にギルバートの瞳と称して飴玉を噛み砕いたことを思い出したのだろう。
痛そうに目をぎゅっとつむったギルバートを見て、ベアトリスはくすくすと笑った。




