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12、手

 ベアトリスに呼び出されたアリーは悪戯がばれたような顔で応接室に現れた。少し前に会った時に邪魔そうにしていた前髪を、やはり短く切ってしまっている。


「アリー、呼び出された理由はわかっていると思うけれど…」

「申し訳ありません、陛下」

「この間会った時は何も言っていなかったじゃない」

「口止めされていたので」


 全然悪びれていない様子でアリーはそう言うと、ベアトリスに書類を一枚差し出した。


「なに?」

「予算をつけて頂いた研究も一段落したので、留学します。ですので当分お目にかかることはないかと」

「なんですって?」


 アリーが差し出してきた書類は、隣国の大学での研究要綱だった。児童教育を専門とした研究室がアリーを研究員として受け入れる旨が記載されている。


「もともとそういった約束でギルバート様に結婚して頂いたのです。お互いの利益のためです」

「そんな…、あなたはそれでいいの?離縁書類にはまだサインしていないわ」

「これを望んでいたのです」


 アリーはとにかく研究ができればそれで良いのだと言った。

 実家では思うように学ぶことができず、金銭面も苦しく嫁ぐことを強要されていたこと、しかしギルバートに会って互いの要望が一致したので形だけ結婚したとベアトリスに話した。


「離縁も承知の上でした。そしてその後には留学のため国を出ることも」

「…でもそれでは…、あなたはあることないこと言われてしまう。ご実家もどう思うか…」


 するとアリーはけらけらと笑い、自分の髪の毛を指差す。


「私がそんなこと気にすると思いますか?こんな頭してるんですよ?何を言われようと気にしません。それに国を出てしまえば関係ありませんし」

「でも…」

「実家は大丈夫です。ただ一方的に別れて差し上げたわけでもないんですよ。実家の資金繰りを助けて頂きましたし、留学費用も出して頂いています。慰謝料代わりに」


 アリーは強い。

 なぜ周りを気にせず自分の道を進めるのだろう。アリーだけではない。ギルバートや、もっと言えばガルシア公爵もだ。

 他からどのように評価されようと、気にしない強さがベアトリスにとっては眩しい。


 まだ不安そうに眉を下げるベアトリスを見て、アリーは宥めるように言葉を探した。


「…私は誰も好きにならないのです。勉強、研究がしたい、それだけです。でもギルバート様は違います。ずっと陛下のことを想っていらっしゃいましたよ」


 ベアトリスはアリーから目を逸らして机の引き出しに入れた離縁書類を思い出す。

 アリーは決めたことを覆すことはないだろう。離縁書類をアリーに突き返そうと思っていたけど、無理なようだ。


「…ギルバートのことはともかく…、あなたは私の大切な友人です」

「ありがとうございます。恐れ多くも、私も同じ気持ちでおります」

「離縁の件は了承しました。今後、何か困ったことが起きたらすぐに言ってちょうだい、必ず」


 微笑んだ頷いたアリーはさっぱりした表情で肩から力を抜いた。

 ベアトリスもそれを見て、なんだか力が抜けた。ふーっと息をついて椅子にもたれる。


「…なんだか、予想外の出来事ばかりでくたびれたわ…」

「これからですよ、陛下。ギルバート様は本気で陛下を手に入れようとしていらっしゃいますからね」


 さらに椅子に体を沈み込ませ、遠い目をしたベアトリスに、アリーはくすくすと笑った。


 そしてその日、ベアトリスは机にしまっていたギルバートとアリーの離縁書類にサインをした。



 ♢



 離縁書類にサインしたら一仕事終えた気になっていたベアトリスだが、ある日急に執務室に入ってきたギルバートに声をかけられた。


「ビー、サーカスに行かない?」


 軽い声色にぎょっとして顔を上げる。

 ギルバートはこの9年間ずっと難しい顔をしてピリピリとした雰囲気をまとっていたが、あの見合いの後から明らかに変化していた。いまもリラックスしたような、のんびりとした表情をしている。

 それが昔のギルバートを思い出して、ベアトリスはなんだか焦る。


「仕事中です、そのように呼ぶのはやめて」

「もう俺は終わったよ」


 ギルバートが指し示す時計に目をやると、確かに終業時刻は過ぎている。ギルバートは帰宅できる状態で執務室に寄ったようだ。


「私はまだ仕事中なの!」

「はいはい」


 ベアトリスが書類に目を戻してもギルバートは部屋から出て行こうとしない。終わるまで待つつもりらしい。

 話をしないと帰らないようだったので急いで書類を読んでサインし、顔を上げてギルバートに話を促す。


「それで、なに?」

「サーカスに行こう、9年前行けなかった」


 9年前のサーカスのことは覚えている。卒業前最後にギルバートと抜け出してサーカスを見に行ったのに、公演中止だったのだ。まさか、また城を抜け出して行こうというつもりなのか?無理だ。

 ベアトリスが眉を寄せたのを見て、ギルバートは説明を追加した。


「新しくできた劇場にサーカスが来るんだよ。9年前とは違うサーカス団だけど」

「分かっていると思うけど、あの時とは違ってこっそり城を抜け出すことはできないわ。というかできたとしても行かないけど」

「もちろん、お忍びは無理だ。そうではなくて、新しい劇場の視察」


 9年前に行った野外講堂の隣に、最近劇場が出来た。国も補助金を出して建設したそれは、劇団や楽団が公演を行っている。しかしまだベアトリスは視察できていなかった。


「見に行きたくない?サーカス」

「まあ、視察なら」

「了解、ではそのように調整します、陛下」


 ベアトリスが了承すると、最後だけ事務官のような口調に戻って、ギルバートは部屋を出て行った。


 ベアトリスは完全に劇場の視察の体でいた。

 だが、想像していたような状況ではなかった。



 視察当日、ベアトリスは通常の視察と同様に騎士を伴い、城で用意された馬車に乗り込もうとしたところでぎょっとした。

 馬車には先にギルバートが乗っており、ベアトリスが乗り込むのに手を差し出されたのだ。


「どうぞ、陛下」


 ギルバートやほかの事務官が同行することはあるが、同じ馬車に乗ることはほとんどない。しかし周りに騎士がいる中で、ギルバートの手を跳ねのけるのもなんだかおかしいような気もして、ベアトリスはその手を取った。

 馬車の扉が閉まったところでギルバートに詰め寄る。


「なぜ一緒に乗っているの!」

「同行ですが」

「今日は、視察でしょう?」

「そうですよ、陛下。行き先が劇場ですから、エスコート役が一応必要かと思いまして」


 何食わぬ顔で言い切るギルバートに、ベアトリスは押し黙る。別に、普段はどこへ行くにしてもエスコート役の相手はつけていないのだ。女王の相手として噂になるのを避けるためだ。


 まあいい、劇場では貴賓席に案内されるだろうから1人だろう、と考えていたベアトリスの予想は外れた。案内されたのは確かに貴賓席で、それは周囲から独立した箱席だった。

 劇場内の観客の拍手で迎えられたベアトリスが真っ赤なベルベットのソファに腰掛けたところ、すぐ隣にギルバートが座ってきたのだ。


「ちょっと!なぜあなたも座るの」

「え、まあまあ」


 小声で二人で押し問答を始めたところで開始の鐘が鳴り、そのまま動けなくなってしまった。

 劇場内が暗くなり、ステージに明かりが灯る。そちらに目をやると、ぎゅっと左手を握られた。

 ギルバートだった。


 びくりと肩を震わせたベアトリスは手を引っ込めようとしたが、逆に強く握りこまれる。ギルバートはしぃっ、と口元に指を立て、前を向いた。


「周りからは見えないよ」


 ベアトリスが反論しようとすると、ステージから音楽が流れて公演が始まってしまった。


 始めに子どもたちが出てきて曲芸を披露し、それから鮮やかな柄の服を着た大人たちも出てきて技を次々と見せる。技が決まるたびに観客からは大きな拍手が起こり、演者たちは入れ代わり立ち代わり様々な演技を披露した。

 そのうち猛獣とその猛獣使いが出てきて輪をくぐったり大きくジャンプしたりと、とにかく内容は素晴らしい、ような気がするのだが、ベアトリスの頭には全く入ってこない。


 ギルバートに繋がれた手が気になって全然集中できないのだ。


 確かに観客はステージに夢中になっているし、ベアトリスの座る箱席の前面は囲われているので、ギルバートとの様子は周りの観客からは見えない。

 しかしそれをいいことに、ギルバートはベアトリスの手を弄び始めた。


 ギルバートはぎゅっと握りこんだ手の力を少しだけ緩めると、右手の親指でベアトリスの左手の甲を撫で、それから向きを変えて手の平も撫でた。

 細い手首も大きな手の平で包み、手首の内側の血管に指を這わせて脈を確認するように動く。


 一通り表面を撫でると満足したのか、今度はベアトリスの磨かれた爪や指を撫で、擦り、時折爪でなぞり始めた。

 指と指の間の薄い皮膚をさすられると、非常にくすぐったいようなむずむずするような気分になり、ベアトリスは自分の左手が自分のものではないような感覚に陥った。

 触れている部分は左手だけなのに、身体が熱くなり、息が上がる。

 触れている部分がしっとりと湿っている。手の平に変な汗をかいているのだ。

 頭の中がおかしくなりそうで、もう目の前で繰り広げられている煌びやかなショーなどどうでも良いような気になってきた。


 ぼんやりした頭でベアトリスは考える。

 手を振り払ってしまえば良いのだ。こそこそと隠れて良からぬことをしているギルバートの右手を、振りほどき、つねり、ひっぱたいてやれば良い。

 なのに、それが出来ない。


 結局、ギルバートの悪戯を受け入れたまま演目が終了し、演者たちがステージに並ぶ頃にはベアトリスは疲れ切ってぐったりとしていた。


 会場が明るくなり、ようやくギルバートは悪さをしていた右手を離した。熱い手が急に離れて、ベアトリスの頭は急激に戻ってくる。いたぶられた左手はなんだかじんじんした。

 観客たちも口々に公演の感想を語り始め、中にはサーカスを見た女王の反応を確かめようと、箱席を振り返る観客もいる。

 ベアトリスは体勢を整え、女王らしい笑みを浮かべた。しかしたった今見たはずの公演の内容は何一つ覚えていない。


「陛下、帰りましょう」


 隣からギルバートが事務官ぶった態度で話しかけてくる。

 

 ――こちらは上がった息を整えようと必死なのに!


 腹が立ったベアトリスは飄々とした態度のギルバートを無視した。



 ♢



 帰りの馬車の中で、ようやくベアトリスはギルバートに抗議した。馬車は石畳をがたがたと進んでいるので、外に口論が漏れても大丈夫そうだ。


「あなたがそんなにいやらしい人間だったなんて知らなかったわ、不敬よ。抗議します」

「嫌なら振りほどけば良かったのに」


 うっ、一瞬言葉に詰まったベアトリスだが、負けじと反論する。


「あの場で揉め事を起こすわけにはいかなかったわ。大体、どさくさに紛れて隣に座ってきましたが、あれだって私は…」

「というか、手を握ったくらいでそんなにうろたえてどうするの?これから結婚相手を探すというのに」


 呆れたようなギルバートの声に腹が立った。確かに既婚者だった彼にとってはなんてこともない触れ合いなのかもしれないが、こちらはこの9年、ほとんど踊ってもいないのだから、異性との触れ合いなど皆無だ。


 しかし、あれ?とベアトリスは疑問に思った。

 アリーとは仮の夫婦だったと言っていた。それなのにこんなに手慣れているのはなぜなのだ。


「…やっぱりアリーとは夫婦だったんじゃないの?それか、あなた実はすごい遊び人か」

「え?言った通り仮の夫婦だったし、別に遊び人でもない。まあ困らせて悪かったけど、好きな相手の手を少し撫でるくらいいいじゃないか。大したことしていない」


 あけすけなギルバートの言葉に、ベアトリスは顔に熱が集まったのが分かった。そういえば、好きだと言われたのは初めてではないだろうか。あの見合いのときだって言われなかったように思う。

 しかしながら、あれが大したことじゃないだなんて。こっちは呼吸が乱れて公演に集中できないくらいだったのに。


「……もう当分、口きかないから」

「えええ、ごめんって」

「…反省している?」

「してない」


 笑って答えたギルバートの腿を、ベアトリスはべちんと強く叩いた。


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