11、急転
二人はたっぷり10秒見つめ合って、ギルバートが先に目を逸らした。
「…座っても?」
「あっ、ええ」
向かいの椅子にギルバートはゆっくり座ると、長く息をついて眉間を指で揉んだ。
「…9年、長かった…」
ギルバートは感慨深そうに呟き、顔を上げてベアトリスを見る。
衝撃が強すぎてベアトリスはまだ頭が働かない。
「ビー、驚きすぎ。口が開いてる」
「なっ!!」
慌てて手で口を押さえたが、それを見たギルバートがふふ、と頬を緩めた。
しかもいま、もう誰からも呼ばれなくなった愛称で呼ばれたことに気付き、さらに困惑する。
彼はなにを言っているのだろう。冗談にしては質が悪い。
「……一体どういうつもりなの、ギルバート。立場を弁えてちょうだい」
「陛下、いまこの時間は見合い相手と婚姻の話をする場であるはず。そして私たちは女王と事務官である前に幼なじみです。幼なじみに求婚するのに遠慮が必要ですか?」
「そうではなくて…」
なにから言えば良いのか分からない。目の前の人物が、この9年間で上書きされた自分の知っているギルバートとは別人に思える。
ベアトリスの困惑が伝わったか、ギルバートは湯気の立つカップを口に運び、体勢を正して椅子に腰掛けた。
「なにを聞きたい?アリーのことなら別れたけど?」
「はっ!?」
「女王のサインが必要だから、離縁書類がそろそろ上がってくると思うよ」
ベアトリスは思わず椅子から腰を浮かし、しかし何事もないように落ち着いた様子のギルバートを見て、もう一度腰を下ろした。
「アリーと別れたですって?」
「そう。でも、もともとそのつもりで結婚していた」
「えっ!?」
「アリーは仕事と家のために結婚したくて、俺も結婚しろとせっつかれていたから。家からも、女王からも」
確かに、数年前に結婚しろと言ったことは覚えている。ファーガスとの仲を疑われて、声を荒らげてしまったときのことだ。
そしてギルバートとアリーの婚姻書類にサインもした。
だからといって、別れただなんて。
「…そんな…、アリーとは偽の結婚だったということ?」
「そうだね。ビーの退位が決まるまでの期間限定。元々、ビーの退位を待っていようとしたけど家から勝手に結婚相手を決められそうだったから、アリーと契約した」
「信じられない。アリーとは友だちなのよ」
「絶対君たち、仲良くなると思った。嘘だと思うなら本人に聞いてごらん」
「公爵もご存知なの?」
「もちろん。呆れ返っているけどね」
もしこの話が本当なら呆れ返って当然だ。勘当されたって仕方ないくらいだ。
「……信じられないわ」
「信じてもらえるように、9年前にさせてもらえなかったプロポーズをやり直させてもらえる?」
「だめよ」
ギルバートはくっくっと笑うと、懐からなにかを出してベアトリスの目の前に出した。
「お土産」
おずおずと手を出して受け取ると、昔よくもらっていた青い飴玉だった。久しぶりのお気に入りの飴玉に少し嬉しくなってしまうが、浮き立つ心を押し留める。
「ビー、9年前のことを覚えている?俺がプロポーズしようとしたら一方的に帰っちゃったの。王宮の庭で。あの後、一人で残されて、女官や騎士からの視線が痛いのなんのって」
「……そ、それは、あの時はああするしかなかった」
「そうだね。でも今は違う。考えて」
ベアトリスは手元の飴玉の包みに目を落としていたが、ギルバートはこちらを見つめているのが分かった。非常に居心地が悪い。
ギルバートがこの場に候補者の一人として来たということは、求婚してくるつもりというのは本当なのだろう。アリーやガルシア公爵に事実を確認する必要はある。
しかしいまさらギルバートと結婚を、と考えたところで現実感はない。とうに諦めたのだし、それに妻と離婚して女王を迎えるだなんて、彼は周りからなにを言われるか分からない。
「……いまさら無理よ。確かにあなたのことは嫌いではなかったけど、過去のことだわ。悪いけれど」
お終い、と言いかけて席を立とうとしたところで、身を乗り出したギルバートから強く手首を掴まれた。
驚いてびくりと肩が震える。手首を掴んだ彼の手が熱い。
「じゃあもう一度好きになってもらう。ビー、もう9年も待ったんだ。今度は諦めないからそのつもりで」
どきりとして視線を上げると、飴玉と同じ色のギルバートの視線と絡み合う。
ベアトリスは急に体温が上がった気がして、すぐに目を逸らし、掴まれた手首を振りほどいた。
「ギル、分かってる?あなた9年前、私に振られたのよ」
「9年も前の話だ」
「この話は終わり。仕事に戻るわ」
ベアトリスが今度こそ席を立ち上がり扉に向かうと、ギルバートから背中に声をかけられた。
「陛下、お待ちください、釣書は?」
「いるわけないでしょう!」
バタンと扉を閉める直前、釣書であろう書類を持ったギルバートがくすくす笑う姿が目に入ったが、見ないふりをして、ベアトリスは足早に執務室に戻った。
釣書なんているわけない。そんな書類に書いてある以上のことを彼について知っているのだから。
応接室を出たベアトリスは、すぐにギルバートの父であるガルシア公爵を捕まえた。ガルシア公爵は慌てたベアトリスの様子を見て内容を察したらしく、話す前から眉を下げている。
「ガルシア公爵、あなたのご子息は頭がおかしくなっているわよ」
「仰りたいことは分かりますが、陛下、頑固な息子でして」
「頑固で済むの!?公爵家としては問題ないと考えているわけ?」
「まあ、手続上は問題ありません。息子夫婦は離縁していますので検討をお願いします。いずれにしても私は陛下のご判断を支持いたしますよ」
そういうとガルシア公爵は会釈してその場を去ってしまい、ベアトリスは呆然としてその場に立ち尽くした。
ギルバートは父である宰相も丸め込んでいるなんて。ガルシア公爵家は全く周りからの目を気にしない人たちの集まりなのだろうか。
考えてみれば、ガルシア公爵夫妻は珍しいことに恋愛結婚だと聞いたことがある。そのため、息子の行動に寛容なのだろうか?信じられない。
ベアトリスがふらふらと執務室に戻ると、机には面談した見合い相手9人分の書類が置かれていた。一番上は先ほど会ったギルバートのものだ。
ベアトリスは9人分の書類を雑にまとめると、机の隅に追いやった。
♢
「陛下、お見合いはどうでしたか?良い出会いがありましたか?」
昼食の席で興味津々の顔でそう尋ねたカインは、ベアトリスが眉間に皺を寄せたのを見てにやにやし始めた。もしかして彼は全て知っているのかもしれないと思ったベアトリスだが、素知らぬ顔で魚を口に運ぶ。
「…なかなか難しいものだわ。あなたはどうやって相手のことを知ろうとしているの?」
「僕は、食べたいものが僕と相手でその場に一つしかない場合、どうするかを質問しています」
「え?」
「大抵の令嬢は僕に譲ってくれるって言うんですよ。それか、半分ずつしましょうって。でも僕は取り合いたいんです。そういった、遠慮のない関係性になりたいので」
それは難しいだろうとベアトリスは思った。見合いの席で王太子に対して食べ物を取り合いましょうなんて言えないし、そんな令嬢を探すのは容易ではないのではないだろうか。
「それで、望む答えをくれる令嬢は?」
「まだいません」
「でしょうね」
「でも、ガルシア宰相補佐ならそのように答えてくれるかもしれませんよ」
カインは身を乗り出して声を落とし、そう言ってにやりと笑った。
やはり知っていたのか。
ベアトリスは苦い顔でカインを睨むと、ひとつ息をつく。幸い、この場に義姉はいない。
「なら、あなたがギルバートと結婚したら」
けらけらと笑ったカインは首を横に振り、水の入ったグラスに手を伸ばす。
「僕は彼を応援していますよ。あんなに一途な男がほかにいますか?仮の結婚で周りを黙らせ、陛下の退位を待っていたなんて」
「…そこまで話を聞いたの?」
「ええ、ただ、その経緯を知っているのは僕と宰相だけですよ。陛下との関係を唄にして吟遊詩人にでも唄わせたら、すごい流行になりそうだ。戯曲でもいいかも」
「絶対にいや」
そんなの、最もベアトリスが恐れることだ。せっかく9年前にギルバートのためを思って対応したことを、彼は自らそれを水泡に帰すようなことをしている。カインにまで話をつけているなんて。
「とにかくガルシア宰相補佐でなくても構いませんから、結婚相手のことは真剣に考えてくださいね」
「分かりました。あなたもその質問のハードルは少し下げて検討した方が良いと思うわ」
カインは、はーい、と言うと手元の魚にナイフを入れた。
カインと食事をして精神的に疲れたベアトリスは執務室に帰り、書類確認の仕事を再開した。
すると離縁書類が目に入ったので、まさか、と身構える。
めくると、恐れていた通り、ギルバートとアリーのものだった。日付は少し前だ。アリーは離縁後、実家の家名に戻ると記載されている。
「ああ…」
離縁書類も婚姻書類と同様に、ベアトリスが異議を唱えることはない。サインするだけだ。
しかしまだアリーの気持ちを直接確認できていない。それまではこの書類は保留しておこうと、ベアトリスはその離縁書類を引き出しの中に滑り込ませた。




