ショートショート012 天気
じめじめとして蒸し暑い夏のある日。
一人の老人が、海辺でぶつぶつとつぶやいていた。
「まったく、なんて天気だ。じめじめしているくせに、暑いとくる。いや、それは昔からずっとそうだったが、このところはいやに気温が高いような気がする。温暖化というもののせいかもしれないが、そんなことはどうでもいい。いっそのこと、悪魔でもあらわれて、もう少し涼しくて、からっとした湿気のない天気にしてくれないものだろうか」
すると突然、老人の目の前に煙が立ち上った。煙はすぐにかき消え、中から見たこともない生き物があらわれた。真っ黒な体、端が吊り上がった目、鋭くとがった耳、長いしっぽ。どう見てもそれは、悪魔の姿だった。
そして、悪魔らしきそいつはしっぽを振り上げ、ばしんと地面にたたきつけた。
そのとたん、天気が一変した。暑さがいくぶんやわらぎ、また空気中からは湿気がきれいに消え去って、老人が願った通りの、ほどほどに涼しくてからっとした穏やかな天気になったのだった。
老人はあまりのことに、しばらくポカンとしていたが、ようやく我にかえって口を開いた。
「お、おまえは悪魔なのか」
「これは察しがよろしい方だ。酒による幻覚だなんだと、そんなことをおっしゃる人も多いんですが」
「すると、いま天気を変えたのも、おまえさんだということか」
「ええ、その通りです」
「ふむ。するとだ、おまえさんは、願いを叶えるかわりに魂をよこせと、そう言うのだろうな」
「ええ、その通りです。ご理解が早くて助かります」
「では、少し待ってくれ。どうせ、先の短い老体だ。魂はやってもかまわない。だが、残りのあと二つの願いをまだ考えていないから、考えさせてほしい」
「いえ、申し訳ありませんが、願いはあとひとつだけです」
「なに、どういうことだ。悪魔とは、願いを三つ叶えるものではないのか」
「ええ、そうです。しかしあなたは、もう願いを二つ言って、わたしはそれをもう叶えてさしあげましたので」
「よくわからないが」
「なに、簡単な話です。あなたは、わたしに出現するように願い、さらに天気を変えたいと願った。わたしはその願いに答えて姿をあらわし、天気を変えた。したがって、願いはあとひとつだけというわけです」
「まるで詐欺師の論法だな」
「ご不満でしたか」
「いや、別にかまわん。考えてみたが、わしの叶えてほしい望みも、どうやらあとひとつだけのようだからな」
「これは珍しい。普通なら、金だの地位だの名誉だの女だのと、もっといろいろな願いをおっしゃるものですが。あなたは変わった方のようだ。少し興味がわいてきました。それで、願いとはいったい何なんです」
「この天気だ。最後の願いを叶えてもらった後、わしはすぐに死ぬのだろう。だが、そのあとも、この穏やかな天気がずっと続くようにしてほしい。最近の蒸し暑さはたまらん。これではみな、ストレスがたまって、けんかや暴力ばかり起こるのではないか。そんな気がしてならない」
「なるほど、ありそうな話ですね」
「暑さと湿気が今のように落ち着いていれば、そんなことにはならないだろう。どうせ死ぬなら、何か人類の役に立って死にたいものだ」
「いいですねえ。こんなに気持ちのいい願いは、初めてですよ。人々の俗な願望には、わたしも飽き飽きしていたんです。それではその願い、叶えてさしあげましょう。あなたはすぐに死に、魂はわたしがいただきます。よろしいですね」
「ああ。それで結構だ」
悪魔はしっぽを振り上げて地面にたたきつけ、そして消えた。
老人は、薄れていく意識の中で、いいことをしたなあ、人々の喜ぶ顔が目に浮かぶようだと思いながら、安らかな眠りについた。
老人が死んでから、数年の月日が流れた。
老人の期待とは裏腹に、世界は荒れ果てていた。人類は滅亡し、地上の動物や植物は死に絶えた。海は蒸発が進み、塩分が濃くなって魚も海藻もどんどん減っていった。
しかし、そんな中にあって、ただひとつ、変わらないものがあった。
そう、それはあの夏の日の、ほどよく涼しくてからっとした、穏やかな天気。




