『騎士』の役割。part1
「でだ」
と、悟は森の中にある『真国』と現実の出入り口――そんなものがあることをいまだに信じられない部分はあるが――のほうへ戻っていきながら尋ねる。
「佐良の言ってた『混乱した状況』って、なんなんだ? お前も、それが原因で俺をここに連れてきたんだろ?」
「そうよ。でも、ここまではちょっとしたテストみたいなもの」
と、桜はツタを掴みながら巨大な根から降りていきながら言い、
「まあ、時間もちょうどいい頃でしょうね。おそらくここを出たら、事務長が桜たちを待っているはず。お兄様は事務長から、今ここで起きていることの説明を聞きなさい」
「事務長って……ここの職員の人か?」
当たり前でしょう。そう言いつつ、桜は小さな岩から小さな岩へと跳びながら小川を渡って行く。桜が足を滑らせないかハラハラしながらそれに続く悟に、桜は尋ねてくる。
「ところで、さっきのあの地下階段はなんなの? どうしてお兄様は、あそこにあんなものがあるのを知っていたの? ここについての記憶は何もないと言っていたのに……」
「俺もよく解らない。でも、なぜか知ってたんだ。きっと『王』の敷地の地下には――いや、この『真国』全体の地下には、広大な地下空間が存在してる。そんな気がするんだ。……ん?」
自分でも不思議なほどの確信を持ってそう言った矢先、ふと右手のほうにある大木の影で、黒い、人影のようなものが動いたような気がした。しかし目を向けてみても、そこには動物の気配さえもない。
「どうしたの?」
「いや……なんか一瞬、人の影みたいなのが動いてたような気がしたんだけど、気のせいだった」
「……いいえ、それはきっと気のせいじゃないわ。それはきっと『影人』よ」
「『影人』?」
「まあ、ここの世界で生きている人たちよ。だけれど、別にお兄様が気にする必要はないわ。馬鹿にしたり、こちらから手を出さなければ何もしてこないから、心配しなくても大丈夫」
へぇ。と振り返ると、確かに『影人』の姿は、やはりどこにも見えなくなっている。薄暗い森の中にいるせいか妙に不気味ではあったが、この場所に詳しい桜が大丈夫というのだから大丈夫なのだろう。
そう思っているうちに、岩に穴を開けたモニュメントのような物体Xのもとへと戻ってきた。ここへ来た時と同じように、桜に続いてその穴をくぐると、
「帰ってきた……」
枯れ葉のニオイが混じった冷たい空気が全身を包む。
空は暗い藍色になっていて、あたりはもう夜の暗さに包まれている。しかし、このよく手入れのされた林の風景は、間違いなく自分が桜と一緒にやってきた『こどもたちの国』の風景である。
全ては夢だったのか? そう思って背後のモニュメントを振り返るが、その丸い穴にはまだ薄青く光る膜がゆらゆらと揺れているのだった。
「ほら、お兄、早く事務所に行くんよ」
と、白いローブに金のカチューシャの――ではなく、白いパーカーにチェックのスカートという姿の桜が、悟の手を引っ張った。
「おんぶして、お兄。そのほうが早いから」
ああ、と何が何やら理解が追いつかないまま桜を背負い、事務所の併設されているレストハウスのほうへ戻っていく。
林を抜けても、目の前にあるのはやはりなんの変哲もない景色である。
細いアスファルトの路地が目の前を横切り、少し目を上げれば宵の空を背に立つ秋の山があり、左手のほうには赤レンガ造りのレストハウスが見える。
そのあまりに平凡な景色と、背中に感じる桜の体温が、むしろ悟を不安にさせる。
自分は何を見てしまったんだ。何に足を踏み入れてしまったんだ。
疑いのない日常へと戻ってきてようやく、自分が非日常に触れてしまったことが実感として認識できてきて、漠然とした恐怖が込み上げてくる。
やがて事務所の玄関前に着く。すると、そのガラスドアの中には背広を着た一人の中年男性が立っていた。
「事務長。言われたとおり、桜のお兄、連れてきたんよ」
桜がそう言うと、『事務長』と呼ばれた、わずかに白いものが混ざった短髪を整髪料で後ろへ纏めたその男性は、優しそうに目を細めながらドアを押して外へ出てくる。
「ありがとう、桜ちゃん。お兄さんも、わざわざ来てくれてすまないね」
「はあ……」
「じゃあ、桜ちゃん。私はこれからお兄さんと話をしなきゃいけないことがあるから、桜ちゃんはレストハウスで話が終わるのを待っていてもらえないだろうか。もう誰もいないけど、特別に鍵は開けてあるから。ああ、そうだ。これでジュースでも買いなさい」
そう言って、暗間は背広のポケットから出した小銭を桜に手渡す。悟は慌てて、
「い、いえ、そんな。それくらい、俺が渡しておきますから……」
「何、構わないよ。私が桜ちゃんにお願いをして、君をここに連れてきてもらったのだから、そのお駄賃のようなものだよ」
「はあ、すみません……。じゃあ、桜、ちょっと向こうで待ってなさい」
「うん、解ったん!」
お駄賃が貰えて嬉しかったのだろう。桜は元気よく頷いて、一人レストハウスへと向かって走っていく。
それを見送りつつ、悟は暗間に招き入れられてレストハウスに併設されている事務所へと入る。
微かにタバコのニオイがするそこに他の職員の姿は全くなく、明かりもほとんどが落とされていた。壁に掛けられている時計を見ると、既に閉園時間の五時半を二十分ほど過ぎていた。
「ここに座ってもらえるかな」
窓際の一角に敷居を立てて作られた応接室へ入れられ、悟は事務長に言われるがまま茶色い革のソファに腰かける。中のスプリングが弱っているのか、驚くほどずぶずぶと尻が沈んだ。
「早速だが」
と、正面のソファに腰を下ろした事務長が、少し前屈みになって足の間で手を組みながら、疲れた目でこちらを見る。
「君は、今向こうへ行ってきたばかりなんだろう? 向こうの様子はどうだった?」
「え? 向こうの様子って……えーと、暗間さんは、あの世界のことを知ってるんですか?」
首からぶら下げている社員証、そこに書いてある『暗間栄一』という名を見つつ尋ねると、暗間は微笑みながら頷く。
「うん。まあ、一応知っているよ。何せ私は、この施設を管理している現場の人間の中では、最も上の立場の人間だからね。それで、だいぶ以前から『真国』の事情も押さえてはいるんだ。『王』や『女神』の役割を担う少年少女たちと連絡を取ることによってね」
大人も言うのだから、間違いない。やはり先程自分が見たものは夢ではない。現実なんだ。悟はゴクリと生唾を飲み、
「あ、あそこは一体なんなんですか? まるで中世の――いや、それどころか地球じゃない、どこか別の世界のような場所で……」
「『真のこどもたちの国』、通称・『真国』は、その文字どおり、子供たちによって創られた世界だよ」
「子供たちによって……?」
「そう。ここ、『こどもたちの国』に遊びに来る子供たちの自由な意志、自由な想像力、それらが結集して、いつしかあの世界が出来上がってしまったんだね。そしてある日、そこへ『原初の神』が入り込んだ」
「か、神……?」
「いや、それは私が勝手にそう名づけただけで、彼、あるいは彼女も、おそらくは普通の子供だよ。残念ながら私は会ったことがないがね。しかしともかく、その子は特別な力を持っていた。今、『真国』にある『役職』の全て、つまり能力の全ては、彼から分離して存在しているものだと言われている」
『役職』――それは、あの現実にはあり得ない能力を持った連中が持っている称号のようなものだろうか。
思い返しつつ推測しつつ、悟は自らの手の甲へ目を下ろすが、薄青い光の紋章はそこからすっかり消えている。どうやら、『真国』の本当にすぐ傍へ寄らなければ紋章は輝かないらしい。
「常識的に考えれば、到底信じられない世界だよ」
暗間はその疲れた目に、わずかに無邪気な輝きを宿らせながら、
「でも、確かにその世界は存在しているし、そのことについて君と議論をする必要はもうないだろう。そこで……だが、君は何を見てきたんだい? 君の見た出来事を、君の口から説明してはもらえないだろうか」
「はあ……まあ、なんていうか、小学生らしき連中同士がケンカをしていました。いや、ケンカっていうか……ケンカと言うにはあまりに不思議なケンカを」
「『役職』を持った者同士の争いだね。ちなみに、『小学生らしき連中』ではなく、彼らはまさに小学生だよ。君と同じように、あの林の中の入り口から『真国』へ入った、どこにでもいる小学生たちさ」
「やっぱり、そうですよね。普通に言葉も通じてたし……。『王』が佐良広大なんていう日本人の名前なんだし……」
「君は向こうで佐良くんに会ったのかい?」
「はい。あっちに入ってすぐ、過激派……『クーロン』でしたっけ? 彼らが佐良くんを襲ってるのを見つけました」
「そうか。やはり、ついにそこまでのことに……」
と、暗間は組み合わせた手をじっと見下ろす。暗間の白髪交じりの頭に悟は尋ねる。
「一体、あの場所で何が起きているんですか? なんていうか、まるで殺し合いをするような勢いだったんですけど……」
「うん……。まあ、こうなっているのは我々大人の責任でもあるんだよ。クーロンの子たちは、我々が彼らをここから……『こどもたちの国』から追い出そうとしていることに怒っているんだからね」
「追い出す? なぜ子供をここから追い出すんですか?」
子供の遊び場から子供を追い出す? 驚くと、暗間はその眉間に深いシワを刻み、
「我々もそんなことはしたくないんだがね……『クーロン』の子たちは、『真国』の中だけではなくその外でも、ケンカや勝負事と言った過激な遊びをしたがるんだ。そのせいで、普通の来園者の方々が治安の悪さを感じ始めていて、近頃は特に来園者が減っているんだよ……」
なるほど。そういうやむをえない理由があってのことなのか。何も言えず黙るしかない悟に、暗間は続ける。
「それに、近頃はそれだけではない。『クーロン』の中でも特に過激な一部が、彼らを制しようとしている我々職員を襲撃しているんだ。それで、我々は尚いっそう締めつけを強めねばならなくなっている」
「え? 襲撃って……?」
「まさに『襲撃』さ。夜な夜な職員の――中でも一人暮らしをしている職員の家を狙って不法に忍び入り、凶器をちらつかせて、自分たちの邪魔をするなと脅すんだよ。その被害に遭って、一名は既に退職し、もう一人は今休職してしまっている」
「そ、そんなの、完全に犯罪じゃないですか。警察に相談は……」
「いや、警察は……ダメだ」
夕陽も既に完全に沈み、窓から見える空には、わずかに暗い紫色が残っているだけである。暗間は柔らかすぎるソファの背もたれにゆっくりと寄りかかりながら、その西の空へと遠く目をやり、溜息混じりに言う。
「相手が子供だからね、相談したとしても警察は取り合ってくれまい。それに我々としても、あまりことを大きくしたくはない。だから、とりあえず、『クーロン』の子たちをここから遠ざけるというくらいのことしかしようがないんだ」
「……なるほど」
それならば、子供をここから追い出すという強硬な選択もしょうがないことだ。可哀想だが、それは他人の迷惑を考えない子供たちの自業自得というものだろう。
「しかし、まだ他にできることがあると気がついたんだよ」
と、暗間は再び前のめりの姿勢になる。覗き込んでくるような目つきで悟を見て、
「それをできるのが、君だ。三年ほど前まで、『真国』において伝説な強さを誇っていた『騎士』であった君の協力があれば、まだできることがある」




