エピローグ。
セレスタの別荘のリビングで、悟、桜、火恋、セレスタの四人が、それぞれの手にコップを持ちながら一つのローテーブルを囲んで座っている。
「こほん……」
と小さく咳払いをして、その場でただ一人立っている梅が、ジュースが入ったコップを持つ右手を軽く掲げながら皆を見回す。
「みんな、今日までご苦労様。特に、『女神』である桜、『騎士』の役割を無事に果たし、その『役職』を次代へ受け渡した悟、そして様々な面で私たち皆をサポートしてくれたセレスタ……皆のおかげで、こうして無事に――」
「ちょ、ちょっと、姉ちゃん! うちは!? なんでうちだけ飛ばすのさ!」
「こうして無事にやるべきことをやり終えることができたわ。その喜びと感謝の気持ちを分かち合うため、今日は存分に楽しみなさい。――乾杯!」
「「乾杯!」」
「ちょっと、おい! バカ姉!」
という声と共に、皆が持っているコップの触れ合う音が鳴る。セレスタはコップのビールを一気にグビグビと飲み干して、
「くーっ! 一仕事終えた後のビールはやっぱり最高だゼ! ほら、桜、どうしたの? ジュースもお菓子もピザもたくさんあるよ! ほら、『桜ソーダ』だって買ってきたゼ!」
と、テーブルに敷き詰められるように置かれたそれらの中から缶を一つ掴み、桜の前に置く。しかし、桜は両手で持ったコップを見下ろすようにしながら俯いて、
「でも……」
と、その顔に暗く影を作りながら小さな声で言う。
「でも、明日、セレ姉……いなくなっちゃうんよ。ちゃんと『真国』を平和にできたことは嬉しいけど、セレ姉とお別れしなきゃいけないのはイヤなん……」
「おい、桜……今日はお祝いの日なんだから楽しくやろうって決めただろ? それに、別にもう二度とセレスタさんに会えないっていうわけじゃない。またいつか会えるって」
「うん……」
と桜は悟の言葉に頷き、しかし悲しげに続ける。
「だけど、桜……全然、セレ姉にお返しできてないんよ。これまでいっぱい、セレ姉にはお世話になったのに……」
「お世話になったって……子供が何言ってるのさ。ボクは全然『お世話をした』なんて思ってないし、それに……むしろみんなに頭を下げたいのはこっちのほうだゼ」
と、セレスタは手に持っていた空のコップをテーブルに置き、唐突に皆に頭を下げる。
「みんな、ごめんね。ボクが大人として、クラマさんのぶんもみんなに謝ります」
「きゅ、急にどうしたのさ、セレ姉? なんでセレ姉が事務長の――じゃなくて、元事務長のぶんまで謝んなきゃいけないの? 悪いのは全部アイツじゃん、セレ姉はなんにも悪くないよ」
火恋が慌てたように言うと、セレスタは目を伏せたまま頭を上げ、
「そうかもしれないけど、でも、今回のことのせいで、マイ・ハニーも、桜も、桜のお兄さんも、それにマイ・リトルハニーも……ここにいないたくさんの子供たちも、みんなスゴく辛い思いした。
ボクもクラマさんと同じで、ずっとみんなを騙してきてたわけだし……ホントに悪かったと思ってます。ごめんね、みんな。自分の都合しか考えない大人ばっかりで、ホントにごめん」
「セレスタ……」
「でもさ、やれるだけのことはやれたんだから、悔いはないゼ。みんなとはかけがえのない仲間でいられたって、ボクは自分に胸を張って言える。だから、お別れも悲しくなんてないゼ。『仲間はどれだけ離れていても繋がってる』って、アニメでも言ってたしね!」
ニカッと白い歯を見せながら言って、セレスタは点けられていたパソコンを操作し始める。と、スピーカーから大音量で誰もが知っているアニメの主題歌音楽が流れ出す。
「さあ、桜! 一緒に歌おう! 火恋も歌おうぜ!」
マイクをぽいと投げ渡され、桜と火恋はわたわたと立ち上がり、声を揃えて歌い出す。セレスタにつられたように、その顔には明るい笑みが戻る。
悟はその姿を眺めながら一緒に笑い、あるいは自らもマイクを握って騒いだ。少しでも油断をすると隙間風のように心に忍び入ってくる別れの寂しさを懸命に払いのけるように笑い、歌った。
やがて悟はトイレへ行くため、広いリビングを――壁を覆い尽くすように置かれてあったコンピューターも既に運び去られたリビングを出る。
小用を済ませ、情感たっぷりな火恋のラブソングが聞こえてくるリビングへと足を向けかけてしかし――ふと静けさが恋しくなって、そっと踵を返して玄関から外へ出る。
三月とは言え、まだまだ辺りには雪が残っている。夜の空気は張り詰めたように冷たく、澄み切った夜空には白い満月が眩いほど冴え返っている。周囲にあるのは雪の積もった田んぼだけで街灯さえほとんどないが、月の光のおかげで、あたりは薄青く浮き立って見えるほどに明るい。
何を考えるでもなく、白い息を吐きながら、ちらちらと星の瞬く夜空を見上げていると、不意に玄関の扉が開けられる音がして、
「お疲れ様、悟」
と、梅が背後から悟の左腕を抱く。白いニットワンピース越しに梅の体温を感じつつ、悟は微笑む梅をちらと一瞥し、
「悪かったな、音痴で。俺はホントは歌いたくなかったんだ。なのに、火恋が――」
「そんなことではなくて、『騎士』の役割を果たしてくれたことについて言っているのよ。ありがとう、悟。『堕天した女神』として、『真国』を守ってくれたこと……改めてお礼を言っておくわ」
「ああ……いや、別に俺一人の力で何ができたわけでもないんだし、お礼なんていらないんだけど……まあ、これで一安心はしたよ。俺もセレスタさんと同じで、やれることはやったしな。何も悔いはない」
「そうね。あれからもう三ヶ月……『真国』には元どおりの平和が訪れているし、意識が戻らない暗間のほうも、セレスタのお父さんたちが監視を続けてくれている……。私たちのやるべきことはもう終わったのよね」
「ああ、俺たちの出番はこれで終了だ。『真国』は子供たちのためにある世界なんだしな、脇役の俺たちはさっさと退場しないと」
そうね、と梅はくすりと笑い、
「だけど、一つ不安があるとしたら……あなたが『騎士』の役職を渡した『カクやん』という少年だったかしら? その子は本当に大丈夫なの? その子……今まで『クーロン』で火恋と遊んでいたような子なのよね?」
「大丈夫だって。カクやんは素直で責任感の強い、いい子だ。『長槍使い』としても優秀だったしな、信頼できる子だよ」
「そう……あなたがそこまで言うのなら、本当にそうなのでしょうね」
と、梅は身に染みる寒さから逃げるように悟の腕を抱く力を強める。その梅の頭には、もう金のカチューシャは載っていないし、その手には華美な十字架の杖も握られていない。
お願いだから女神ファッションはやめてほしい。
そう何度も頭を下げてようやくそれはやめてくれたのだが……やはりというか、その内面まで変えるつもりはないらしかった。しかし、これを『恋は盲目』というのだろうか、悟はむしろ自らを強く貫くそんな梅が魅力的に感じられるようになっていた。
「さっき、セレスタはお別れも悲しくないと言っていたけれど……やはり、もう毎日顔を合わせることもないのだと思うと、悲しいし、寂しいわね」
「ん? ああ……」
自分がセレスタさんとよく会っていたのはほんの少しの時間だったが、梅はそうではない。自分の知らないところで、二人は様々な葛藤を分かち合い、互いの力を合わせて苦難を乗り越えてきていたに違いない。まさしく『仲間』だったに違いない。
絆が深ければ深いほど、別れの悲しみも深いだろう。自分より何倍もの悲しみをいま胸に抱えている梅に軽々しくかける言葉などあるはずもなく。悟は黙って梅の横に立ち続ける。すると、
「ねえ、悟」
と、梅が口を開く。迷子の少女のように心細そうな瞳でこちらを見上げ、
「あなたは……いなくなったりしないわよね?」
「え? 俺が……?」
悟は一瞬、梅の言葉の意味を理解できずにキョトンとして、それから、ああ、と気づいて微笑む。
「大丈夫だ。確信はできないけど……もうお前のことを忘れることなんてないはずだ、たぶん」
「本当に……?」
「本当だ。何せ、お前も俺の恩人なんだからな」
「私が、恩人?」
「ああ。お前のおかげで、俺はきっとこれからも生きていける。お前は俺に、その……お前への想いだけじゃなくて、前向きな強い気持ちも、また持たせてくれたんだから」
「前向きな……強い気持ち?」
「ああ。子供の時には普通に持ってたはずの……でも、いつの間にかなくしてしまってた、今を全力で生きる気持ち……っていうのかな」
言いながら目を向けると、梅は静かに微笑し頷く。その優しい瞳に微笑を返し、
「きっとお前がいれば、俺はずっとそれを持ち続けていられると思う。だから、お前にはこれからもずっと――ず、ずっと……」
「ずっと……何かしら?」
調子に乗って、自分は何かとても恥ずかしいことを言おうとしている気がする。そう感じて悟が言葉を切ると、梅がまるで冷やすかような笑みを浮かべる。
「い、いや……」
カッと耳が熱くなる。よほど自分は今、真っ赤な顔をしているのだろうと思うと、余計に恥ずかしくなって、さらに耳が熱くなる。
そのスパイラルから脱け出せなくなって狼狽していると、ふふっ、と梅は微笑み、耳打ちをするように顔を近づけてきて――そのまま悟の頬に口づけをした。
え? と呆然とする悟に、梅は耳まで顔を朱くしながら、それでもどうにかという様子で女神然と優雅に微笑む。
「困らせてごめんなさい。でも……ありがとう。そうね、私たちはきっと大丈夫。というか、もしあなたがまた忘れるようなことがあっても、私が絶対に思い出させてあげるから安心しなさい。少し手荒なことになってしまうかもしれないけれど……ね?」
「あ、ああ……忘れないように、気をつけるよ」
何しろ、忘れてしまったら、今度こそ本当に殺されてしまうかもしれない。半分冗談、半分本気に悟はそう苦笑して、自分の命を守るためにも梅の左手を右手に握り、そのまま自らのパーカーのポケットに突っ込む。
ガラスのように冷えた、華奢な手だった。もう二度と放したくない、ずっと握り締めて守っていたい。
悟はその思いを込めて、梅の手を自らの手で深く包み込んだ。が、直後、
「お兄、どこ行ったん! セレ姉! お兄が桜置いて先に帰ったん!」
「おい、バカ姉! ダーリンつれてどこ行った!」
家の中から、自分たちを捜す妹たちの声が聞こえてくる。
ムードを壊されたと思ったのだろうか。その声にムッとしたように梅は眉を顰めるが、その表情を見て思わず悟が噴き出すと、梅も照れたように表情を崩し、『しょうがない』というように肩をすくめる。
お互い大変だな。そう梅と苦笑を交わしながら、けれど、必死に自分たちを呼ぶ二人のもとへ、悟は満更でもない気分で引き返す。
きっと、梅も自分と同じ気分であるに違いない。可愛い妹に呼ばれれば、そこへ行かずにはいられない。それが、『兄・姉』という『役職者』の宿命なのだから。




