VS魔王。part3
走るわけでも跳ぶわけでもなく、まるで幽霊のように音もなくつきまとってくる暗間の打撃は、まだ明らかに本気を出していない。しかし、こちらが明らかに目的地を持って進んでいることに気づいたのか、急激に速度を速めて悟を追い抜き、前方真正面でこちらを待ち構える。
「ならば、これでどうかね!?」
と、暗間は黒金の杖を振るって衝撃波をこちらへ放ってくる。悟は右手を前へと掲げ、そこに一本の長剣――と言うよりは、異形をした自らの肉体の一部である『黒剣』を生じさせる。
それを見て、暗間がにわかに歓びの色を表情に広がるが、悟は再び手を下ろした。その手には、既に何も握られていない。『黒剣』を出す際に生じる魔力で、暗間の発した衝撃波をいなしただけである。
「この腰抜けが……!」
暗間の額に青筋が浮かび、その言葉も次第に荒くなり始める。が、悟はやや方向を変えて、迂回しつつ『目的地』へと向かう。
やがて空が白み始め、気温も急激に上がり始める。木々に葉が生い茂り始め、その葉の上に青い空が見え、苔むした地面に白い木漏れ日が落ち始める。『目的地』は近い。
やがて森を抜けて緑の平野へ出ると、暗間の攻撃が激しさを増す。
まるで土の中を黒い龍が泳いでいるがごとく、背後から前方へと突き抜けるように草が捲れ上がり、その下から暗間によって『殺された』黒い土が溢れ出して緑を覆っていく。カメラマンたちがついてきている様子はないのだが、どうやらもう手加減なしにこちらを始末しようとしているらしい。
平野を渡りきって再び森の中へ――『真国』の出入り口がある森の中へと入ると、悟は地面をえぐり取る暗間の攻撃を躱すため、人の足ほどもある太い枝の上を走って行く。しかし、
「いつまで逃げるつもりだ!」
不意に背後から襟首を掴まれ、地面へと投げ下ろされる。腐葉土の上を受け身を取りながら回転し、前方にある小さな崖の下へと跳ぶ。しかし、崖に飛び出した直後に背中を杖で打たれ、下を流れていた薄暗い小川の中へ顔と胸からまともに落下する。
「お前には失望したぞ! 考えていたのは、結局、この外へ逃げることだけか! それでも伝説の『騎士』なのか!?」
両手で胸ぐらを掴み上げられる。暗間は歯が砕けそうなほどに歯を食いしばりながら、血走った目で覆い被さるように悟を見下ろしてくる。だが、
――これでいい。
と、悟は内心で笑う。
全ては計画どおりだ。この、決意を固めねばならない時が来るのが正直、怖かった。しかし、いざそれが来てみると、うだうだとものを考えている余裕などなかった。
このまま何もしなければ、ここで暗間に殺される。悟はその生存本能に任せ、
「あああッ!」
声を上げながら、左手で逆手に『黒剣』を握り、暗間の横腹めがけてそれを振るう。が、
「私は魔力の流れには敏感だ、そう言ったのを忘れたか!」
その一振りは暗間の杖によって弾かれる。
「忘れてねえよ」
悟は思わずニヤリと笑いながら、頭のすぐ傍、川の底に横たわっていた短剣――悟が桜に連れられて三年ぶりに『真国』を訪れた際、桜が渡してくれた剣を暗間の胴めがけて振り抜いた。
「っ!」
暗間は素早く退いたが、悟の手にはわずかな手応えがあった。素早く退いた暗間の黒いローブ、その胸あたりには一本の裂け目が走り、そこに垣間見える肌からは赤黒い血が生々しく流れ出している。
暗間の言うとおり、梅を斬ったトラウマなのだろう、どうにか一振りすることだけはできたが、やはり剣を握る手には力が入らない。それで、振り切った瞬間に剣を手放してしまった悟の胸を、暗間が微笑しながら踏みつけた。
「ヒヤリとしたが、所詮は悪あがきだ。ここまでだな、『騎士』」
「ああ、ここまでだ」
言いながら、悟は胸を押さえつけている暗間の左足首を両手で掴む。
「暗間さん、アンタは少し熱くなりすぎる人間みたいだな。久しぶりに夢が叶って嬉しいのは解るが、それで余計に冷静さを欠いているんだとしたら、アンタは所詮、小者だ。魔王なんて務まる人間じゃないんだ」
「なんだと……?」
と、暗間がその表情を険しくした瞬間だった。
「ダーリン、目瞑ってっ!」
崖の上に現れた火恋が叫び、こちらへ火球を放った。その言葉に従って目を瞑ったから解らなかったが、その火球はおそらく閃光弾のようなものだったのだろう、瞑った瞼が真っ赤に染まるほどの強い光が炸裂し、
「ぐっ……」
暗間がぐらついた。その瞬間を逃さず、悟は暗間の腰にタックルをして暗間もろとも川の中に倒れ込む。少しぐらいなら死ぬことはあるまい。悟は肘で暗間の首を押さえつけてその顔を川底へ沈めながら、ボールのように崖下へ転がってきた『王』――佐良を見る。
佐良はわたわたとこちらへ駆け寄ってきて、
「お兄さん、本当にいいんですね!?」
「ああ、構わない! やれっ!」
「な、がっ、何、をッ……!」
「じゃあ、行きますよ!」
暗間がどうにか顔を上げようとするが、悟は腕に力を込めてその頭を川底へ叩きつける。
「うっ、まだ車酔いが……セレスタさん、運転荒すぎだよ……」
青い顔でぶつぶつと文句を言いながら、佐良は悟と暗間のすぐ脇に立ってこちらへと左手を向け、目を閉じる。
「ケルベル・ケルシャルマント。ケルベル・ケルシャルマント。パシクル・シパシクルの神々よ。契りを結びし『王』に力を与え、この地に平安をもたらしたまえ! 帰れ(カストワ)!」
佐良が呪文を唱え終える直前、悟と暗間の身体を、薄青く輝く小さなドームが覆った。そして、佐良が最後の一声を上げた瞬間、悟の視界は暗転した。
一瞬、自分は気絶したのかとも思ったが、そうではない。悟と暗間は、『こどもたちの国』――つまり現実へと戻ってきていた。傍には公園によくある水飲み場が一つポツンと立っていて、そこから伸びる細い排水溝の上に、悟は暗間の首を押しつけているのだった。
「ぅぐっ!?」
暗間に腹部を蹴り上げられ、悟は後ろへと吹き飛ぶ。だが、もう既に戦いは終わっている。悟は思わずニヤリと笑いながら、
「どうやら俺の勝ちみたいだな、暗間さん……」
と、自分の左手甲を暗間に見せる。そこには騎士の紋章である大きなバツ印があるが、それだけである。『真国民』の紋章である真円は綺麗に消え去っている。
それを見て、背広姿の暗間はハッとしたように自らの左手甲を見て、
「な、なんだと……!? くっ!」
愕然としたように目を見張ったが、すぐに立ち上がり、よたよたと前へつんのめるようにしながらレストハウスのほうへと走って行く。
梅の所へ向かい、再びその血を飲もうとしているのだろう。火恋から連絡を受けたセレスタが既に梅を保護しているだろうが、今の暗間は何をするか解らない。
悟もまた立ち上がってその後を追おうとしたが、足を止めてこちらを振り向いた暗間の手元で、パン! という破裂音がしたのと同時、オレンジ色の小さな閃光が闇の中で爆ぜ、顔のすぐ傍を矢のように何かが過ぎ去っていく。
今のは銃声だ。自分は銃を撃たれたのだ。暗間は既にこちらには背を向けて走り出しているが、その信じがたい事実は悟の足を石のように硬くさせた。
しかし、自分は行かねばならない。桜、梅……自分には守るべき二人の『女神』がいる。その義務感が、地面に張りついたように固まった悟の足をどうにか前へ運ばせた。
雨が降っている。
しとしとと、細く糸を引くような雨粒が落葉の上に落ちる音だけが静寂に混じり、周囲は真の闇と呼べるような暗さに包まれている。
足元もほとんど見えず、何度も気に衝突しそうになりながら林を抜け、微かに聞こえる暗間の荒い息遣いを追って悟は走る。
そうしてやがてレストハウス脇までやって来て、駐車場のほうを見ると、そこには暗がりにヘッドライトの明かりを放つ車のほうへと歩く、桜、梅、セレスタらしき三人の人影があった。
「急げっ! 暗間が行ったぞ!」
叫んだがしかし、暗間は既にその三人へと向かって一心不乱な様子で突進していた。一人では歩けない梅と、幼い子供である桜を連れているためか、セレスタは判断に戸惑ったように立ち尽くし、ほどなく暗間に突き飛ばされて吹き飛んだ。
暗間は倒れかけた梅を抱き留めると、大きな人形を抱えるようにその腰に腕を回し、自らへと抱き寄せる。
「梅を放せっ!」
悟はその前に立って叫ぶが、『真国』と同じように暗間と力の勝負を挑むことはできない。ここは現実なのだから大人と子供の力の差は歴然としていて、その上、暗間は銃を持っている。
迂闊に近寄ると、何をするか解らない。その恐怖もあって立ち竦んでいると、一人では立つこともできない様子の梅がその青白い顔を上げ、血の染み出したタオルを手首に巻いた右手をゆっくりとこちらへ向け、
「悟……私を、殺しなさい……」
消え入るような声で言った。
「私は今でも、『女神』……。『真国』のために、子供たちの未来のために……命を捧げるなら、何も、惜しくはない……。いえ、それが私の……すべきこと……」
「な、何言ってんだよ、お前! そんなことできるわけないだろ!」
隣へ駆け寄ってきた桜を抱き寄せながら悟が言うと、こちらと梅とを見ていた暗間がその口元を歪め、
「なるほどな……。よかろう」
と、スーツの胸元から何かを取り出し、それを悟の足元へと投げると、梅を放して数歩、退いた。
硬質な音を立てて転がってきたその小さな物を見下ろし、悟は危うく後ずさりしてしまいそうになる。暗間が投げてよこしたそれは、折り畳まれたナイフであった。
「マイ・ハニー!」
と、セレスタがハッとした様子で梅に駆け寄ろうとする。しかし、
「動くな!」
暗間が素早く拳銃をセレスタへ向ける。
「これは『魔王』と『騎士』の神聖なる戦いなのだ。邪魔はしないでもらおうか」
「クラマさん、あなたは……」
セレスタは青い瞳を震わせ、唖然としたように暗間を見つめる。暗間は皮肉めいた微笑を浮かべ、
「何を今さら驚いているのだね。君がここにいるということは、君が天月梅と結託して私を監視していたということだろう。いや、差し詰め、初めからストームの調査が目的でここへ来ていたのか。……だが、今はそんなことなど、どうでもよい」
暗間はこちらへゆっくりと銃口を向け直し、
「さあ、取引をしよう」




