VS神谷。part1
正面、上には青みがかった満月が、通常の三杯ほどの大きさで巨大に浮かび、森の中にぽっかりと空いた枯れた草地を、かがり火の明かりが不要なほど明々と照らしている。
草地は、野球のグラウンドより一回り狭いかというくらいで、動き回るには充分の広さという感じである。しかし、その中央あたりには、荒々しい石柱を積み上げて作られた、ストーンヘンジを真似たような形の、五つの石のゲートが円形に並べられている。
どうやら『デモンズ・ストーム』の運営を手伝っている少年もしくは少女が除雪をしておいてくれたらしい。この空き地だけは雪が綺麗に積もっておらず、森に少し入ったあたりに小高く雪の山ができている。
雲一つなく冴え渡っている星空からは、ちらちらと細かい雪が舞い落ちてきていて、そのため芝は濡れているが、どうやら思ったほど足場の心配はしなくてもよさそうだ。
安堵しつつ、悟の身長の二倍近くはある石のゲートのほうへ歩いて行くと、それらが作るサークルの中央に立てられている太い石柱の陰から、黒い上下の服に黒いコートを重ねた黒ずくめの少年――神谷がすっと姿を現した。
「逃げずによく来たな、先輩」
「うちのダーリンがお前から逃げるわけなんかないだろ! お前こそ、ホントはビビってんじゃないの!?」
「部外者はすっ込んでろ」
一言で火恋を斬り捨て、神谷はこちらを鋭く睨む。
「ここに来たってことは、少しでもオレに勝つ見込みはあるってことだよな。それなら今度こそ、アンタの実力を見せてもらうぜ。でないと、これを見ている連中も、そしてオレ自身も、アンタに勝った気にはなれねえからな」
「…………」
実力……とは、なんなのだろうか。自分でもよく解らない。しかし、自分はそれを出さなくてはならない。出せるのか? ではない、出さなくてはいけないのだ。
否定できない不安、自分自身への不信感……それが不覚にも顔に表れてしまったのか、神谷は嘆息して頭を掻き、それから「おい」と森のほうを向いて誰かを呼んだ。
すると、そのほうからハンディカメラを持った少年が一人、こちらへ走ってきた。青いキャップ帽を目深に被ったその少年は、首にかけていた黒い玉のようなものがついたネックレスを外し、それをこちらに見せる。
「神谷は知ってると思うけど、えーと……『女神』のお兄さんは、これを見るのは初めてだよね。
これ、『笛蝉』って言って……死んでるように見えるけど、勢いよく上に投げたら、『ピーッ』って笛みたいな鳴き声を出しながら、光って飛んでいくんだ」
「セミ……?」
目を凝らしてみると、確かに紐でグルグル巻きにされているそれは虫だった。セミというよりは、ピンポン球より一回り小さい真っ黒なテントウ虫という感じである。
「戦いの時間が来たら、俺はこれを上に投げる。二人は、それを合図にして試合開始。試合の終わりはいつもどおり、どっちかが降参するか、もしくは気絶するまで。いいね?」
悟と神谷は無言で頷く。すると、少年はトレーナーの袖を捲って腕時計を見下ろし、
「あと五分くらいしたら始まるから、二人はこの空き地の中で、ちょうど正反対になる場所で待機してて」
と告げ、悟と神谷はそれに従って、互いにそのまま後ろへと引き返した。
「うー、さむっ。ここ、火の精霊の力も使えないし……うち、やっぱここ嫌い。あ、でも、こうやってラブラブにくっついて温まれるのは悪くないね。ね、ダーリン?」
木の根元に二人うずくまっていると、火恋がまるで猫か何かのようにグイグイと脇の間へと潜り込んでくる。
悟は火恋を押し退けることもせず、自分の膝をじっと静かに見下ろしながら言う。
「……火恋」
「うん、何?」
「もし俺が神谷に負けたら、俺に構わず、すぐに現実に戻って梅を止めてくれ。警察を呼んでもいい。とにかく、梅が暗間を襲おうとするのをやめさせてほしい」
「な、何さ、ダーリン……戦いの前から、負けた時の話なんてしないでよ」
「…………」
自分でも、なぜ自分がこう言ったのかはよく解らなかった。しかし、これは言っておくべきことである気がしたのだった。
何かを気取ったように、火恋が不安げにこちらの顔を覗き込む。
「もしかして、ダーリン……姉ちゃんに恋できなかったの?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「じゃあ、やっぱ姉ちゃんより、うちが好きで堪らないっていうこと?」
「火恋のことはもちろん好きだ。でも、その『好き』は、そういうのとは少し違うんだ」
「え? じゃあ、それってつまり……うちでも姉ちゃんでもなくて、他の人のことが好きっていうこと……?」
火恋は驚いたように目を見張り、さらに顔を寄せてこちらを覗き込んでくる。
「誰? ダーリンは、誰のことが一番、好きなの?」
「…………」
「うちの知らない人? 中学の同級生? それならどうして、その人にちゃんと告白しなかったの?」
「いや、悪いが……これ以上は何も言えない」
悟は口を噤み、自らの気持ちの扉を固く閉ざす。しかしどういうわけか、かえってそうすればするほど、否定したい感情が抑えきれずに湧き起こってくるのだった。
――桜……。
お兄、お兄と昔から自分の後をついてくる桜。桜と名のつくお菓子やジュースに目がない桜。祖母の喋り方を真似ているうちに、いつの間にかそれが身に染み込んでしまった桜。頭がよくて素直で、その上まるで妖精のように可愛い桜。
自分の頭の中は、いつも桜でいっぱいだ。桜のためなら、なんでもできる。人を殺すということまで、できてしまうかもしれない。自分は桜なしには生きていけない。それほど、自分は桜を愛している。
しかし、梅が好きだという、この感情もまた事実だ。この気持ちに偽りはなく、これを否定するつもりもない。しかし、やはり自分は梅よりも……。
青帽子の少年が、森の中から数歩、青い月光の降る草地へと入ってきて、その首からネックレスを外す。
「……行ってくる」
悟はズボンについた雪を払いながら立ち上がる。
するとすぐに、夜空に青白い輝きが打ち上がり、『ピーッ』という甲高い笛の音のような音が静寂に響き渡った。戦いの開始が告げられたのだ。
「と、とにかく、頑張って、ダーリン!」
バタついた火恋の声援を背中に、悟は歯を食いしばり、空き地の中央へ駆け出す。石のゲートが形作るサークルの中央には太い石柱が大木のように突っ立っているから、それが陰になって向こう側は見えない。しかし、足音で解る。神谷もまたこちらへと向かって全力疾走している。
柱の右から来るか、左から来るか。神谷よりも遅れていることを足音で察知すると、悟はゲートのすぐ下で足を止めて神谷を迎え撃つ。
が、それと同時、不意に神谷の足音が途絶えた。上か。悟は柱の上を見るが、そこにはただ清澄な星空が広がっているだけである。
「っ!」
なぜこれを受け止められたのか、自分でも解らない。しかしなぜか『来る』と瞬時に解って、悟は左前方へと飛び退いた。
「ふん。流石はいい勘だ。だが、次はどうだ?」
神谷がやってきた右背後を見るが、そこには既にその姿がない。と、再び勘が囁き、悟は右へと飛び退く。
「お前、憶えてるのか?」
その声のしたほうを見ると、今度はそこに『黒剣』を肩に担いでこちらを睨んでいる神谷がいる。
何をだ? 神谷にそう問い返しかけて、悟はその言葉を呑み込み、言った。
「憶えては……いない。でも、どういうわけか……解る。この石のゲートは、内側から通り抜けると、瞬間移動できる仕組みになってるんだよな?」
「なんだ。知ってるんなら手加減する必要もない。本気で行かせてもらうぜ」
言うと、神谷は中央にある柱の陰へと身を隠した。
知っているわけではないが、解る。この五つの石のゲートは綺麗な五芒星の形に置かれていて、それを内側からくぐると、決まったゲートへとテレポートができる仕組みになっている。
五芒星の頂点を『1』として、時計回りに、『2』、『3』、『4』、『5』と番号を振ったなら、『1』をくぐれば『4』へ、『4』をくぐれば『2』へ、『2』をくぐれば『5』へ、『5』をくぐれば『3』へ、『3』をくぐれば『1』へ、ちょうど五芒星を描くような順序にテレポートをすることができるのだ。
悟は、再び右背後から襲い来た神谷の一撃を躱し、そのまま石のゲートの枠外へと走る。
何も、このようなトリッキーな場所で神谷と対峙する必要など全くない。トリッキーな場所だからこそ正面からぶつからずに済むという面もあるが、神谷のように戦い慣れた人間に、そのような安易な理屈は通用しない。
「逃げてんじゃねぇよ!」
後ろから袈裟斬りに斬りかかってきた神谷の一撃を、悟は前方に飛び退いて躱す。もう一度、さらにもう一度、悟は地面を転がるようにしながら神谷の攻撃を躱し続ける。
が、逃げてばかりはいられない。悟はもう一度、神谷の攻撃を躱して飛び退いた後、それまでとは逆の方向、つまり神谷の膝へと向かって跳びかかった。
転ばせるためではない、肩をぶつけて膝を壊してやる。それくらいの覚悟を決めた攻撃だったのだが、それは全くの空振りに終わった。全て読まれていたのか、飛びかかったそこに神谷の姿はなく、悟は勢い余って腹から地面へ倒れた。と、
「ぐっ……!」
背中に衝撃を感じ、悟は思わず一瞬、自分は刺されたのかと思った。だが、そうではなかった。こちらの背中をその足で踏みつけていた神谷は、燃えるような目つきでこちらを見下ろし、
「テメエ、いい加減にしろよ! これじゃ、前と何も変わらねえじゃねえか! いや、それどころか、前よりもクソみたいに弱くなってるじゃねえか! なんだよ、今のド素人みたいな仕掛けは!」
「……確かに」
苦笑しつつ、けれど悟は絶望的な感覚を味わっていた。やはりダメだった。自分は神谷には敵わない。梅との『訓練』も、感じ始めていた梅への恋心も、全て自分には無意味だった。
――やっぱり俺は、桜が好きなんだ。桜のためにしか戦えないんだ。
その言葉が、寄せては返す波のように、ただ繰り返し頭の中に鳴り響いていた。




