戦いへ。
友達の家で集まって勉強をする。
そう母に言って早めの夕食を済ませて、午後五時半、西の空だけにほんの微かな明るさを残した空の下、悟は自分のママチャリに乗って家を出発した。
「じゃあ、桜、ちょっと出かけてくるな」
そんなにもニュースが面白いのか、『真国』へも行かず、居間でずっとテレビに齧りついている桜の背中にそう声をかけたが、やはり返事はない。
これだけ桜が怒るということなのだから、よほど寂しい思いをしたのだろう。しかし、それはしょうがないことなのだ。『真国』のためにも、桜自信のためにも、桜はまだ当分、今の桜のままでいてくれなくては困るのだ。桜はまだ、傷を負うにはあまりにも幼すぎるのだから。
――全てを話すのは、まだ当分先になる。その時まで……許してくれ、桜。
このまま一生、桜に嫌われたらどうしよう。そんな不安を吹き飛ばすように、悟は寒風を切って自転車のペダルを漕いだ。
「ちょっと。この私の前を素通りするなんて何様のつもりかしら?」
突然、背後から声がして、悟はブレーキをかけて後ろを振り向く。すると、今しがたとおり過ぎた、アパート前にポツンと置かれている自販機の上に、足を組んで座っている梅と目が合う。
「お前、そんな所で何してるんだ。怒られるぞ」
「戦いへ行くのね」
相変わらず人の話を聞かず、梅はローブとスカートをひらめかせて自販機の上から飛び降りる。その拍子に落とした十字架の杖を慌てた様子で拾い、
「それなら、あなたにこれを授けておくわ」
と、まるで遠足に向かう小学生のように、たすき掛けに肩に引っ掛けていた水筒をこちらへ差し出す。
「これは、私がこの手で自ら精製をしてきた聖水よ。赤い牛の血液をもとにして作られたこれを飲めば、まるで猛る牛のごとく無尽蔵の力が出せるはず。戦いの前にでも飲んでおきなさい」
「あ、ああ、どうも」
と、悟はそれを受け取り、まさか本当に血が入っているんじゃないだろうなと不安になって蓋を開け、ニオイを嗅いでみる。が、中身はどうやらただの栄養ドリンクだった。
「ところで、どうしてお前、今日、学校休んだんだ?」
「私が自販機の上にいた理由? それは、あそこが星占いに適した場所だからよ」
「いや、どうして学校を――」
「愚民のあなたにとって、星々の輝きは全て無意味なものかもしれないけれど、私にとってはあらゆる書物よりも意味のあるものなの。星々の言葉は、それすなわちこの世界の未来を教えてくれるものなのだから」
「……ああ、そう。じゃあ、せいぜい星占いを頑張ってくれ」
「熱があるのよ」
「熱?」
再びペダルを踏み込んだ直後に言われて、悟は驚いて振り返る。見ると、確かに街灯の光の下に進み出てきた梅の顔は妙に熱っぽい。
「風邪引いたのか。なら、こんな所にいちゃダメだろ。早く帰って寝てろよ」
「別に風邪になど罹っていないわ。わ……私が罹っているのは風邪じゃなくて、その……恋の病、だから」
「こ――お、お前、よくそんな恥ずかしいこと言えるな……」
「なぜ? 私はあなたを愛している。これは何も恥ずかしいことではないし、これを貫くことこそが私の使命だと思っているわ。そしてその想いが、昨日からはさらに確かなものとなっている。この私が、思わず冷静ではいられなくなるほどに……」
梅は自分の足元と悟の目とを忙しなく交互に見ながらいい、それから危うく悟が自転車ごと倒れてしまうような勢いで背中に抱きついてくる。
「う、梅……?」
「さあ、いつまでもお喋りをしている暇はないわ。行きましょう」
自転車の荷台に横座りをして、悟の身体にしっかりと右腕を回しながら梅は言う。
「私もあなたと共に行くわ。『真国』へは入れないけれど、せめてその傍までは……」
「そ、そうか」
こんな時に、何かキザなセリフを返せるのがいい男なのだろうか。しかし、憶えている限りでは人生で一度も女の子とデートをしたこともない悟にそのようなことができるはずもない。
悟は慌てて前を向いて水筒をカゴに入れ、ペダルを勢いよく踏んだ。宵の冷たい空気が、火照った頬に心地よかった。
すっかり夜の帳が降りきった頃に『こどもたちの国』に着くと、事務所の脇に自転車を停めて、悟は梅と共に事務所へと足を踏み入れた。
事務所の天井の明かりは全て消されていたが、そこの最も奥にあるデスクの前だけは、ぼんやりと白い明かりに包まれている。
その机でパソコンのディスプレイを見つめていた暗間が、つとこちらへ目を向けてから何も言わずに立ち上がり、暗がりの中をこちらへ歩いてくる。
梅が悟の手を強く握りつつ、暗間に不敵な笑みを向ける。
「また会ったわね、悪魔」
「今日はまだ『仕事』が残っているんだ。だから、どうかこの前のようなことはしないでもらいたい」
「それはつまり、『仕事』の後ならば構わないということかしら?」
「そういうわけではないが……」
と、暗間が硬い表情をしながら悟と梅の前で立ち止まったのと同時、
「あ、姉ちゃん」
扉を押して、火恋が外から入ってくる。
「やっと来たの? 遅いよ、うち、ずっと待ってたんだから」
うむ、と暗間は暗がりの中にある壁掛け時計を見やりつつ頷き、
「もうそろそろいい頃合いだ。士条くん、君にはこれから『デモンズ・ストーム』に参加してもらうため、『真国』へ行ってもらう。その準備はいいね?」
「……はい」
「案内役は火恋ちゃんに頼んでいる。何せ、私も『真国』の中へは入れないからね」
「はい。――で、ストームの開催場所は決まったんですか?」
「ああ。開催場所は、『ケルトの森』だ。その場所は、火恋ちゃんなら知っているはずだ」
「『ケルトの森』……? ああ、あの寒いトコ? うん、解るよ。大丈夫」
と、火恋は悟るの隣に立って頷く。暗間も小さく頷き、
「ところで、ファイトマネーについてだが……君には現金でいいだろうか。やはり振り込みとなると親御さんとの相談も必要になるし、なんなら私が五年ほど預かっても……」
「いえ、ファイトマネーなんて、僕はいりません。僕は、そういうことをするストームを潰すために戦うんですから」
「……そうか。ああ、解った。君がそれでよいのなら、そうさせていただくよ」
と、暗間はそれ以上のことは言わずに悟たちを事務所から送り出した。
「ダーリン、ホントに大丈夫なの? この前は、その……神谷に勝てる様子もなかったのに……」
まるで海底を照らすように弱々しい外灯の下を辿りながら、暗い園内を三人並んで歩き出すと、火恋が不安げに悟の手を握ってくる。
「さ、さあ……どうだろうな。正直、解らない。でも、もしかしたら……っていう可能性は、あるかもしれないと思ってる」
「悟……」
悟がちらと梅を横目に見ると、今の言葉の意味するところを察したのだろう。梅がハッとしたようにこちらを見上げる。
『お前への想いで、俺は戦う』
その想いを確かめるように、悟が梅の目を見つめ返すと、火恋が悟の腕を強く胸にかき抱きながら梅を睨んだ。
「な、何? どゆこと? 昨日、姉ちゃん、ダーリンの家に泊まらないで帰ってきたからよかったと思ってたのに……」
「よかったとは、どういうことかしら? 私と悟の愛こそが、今の私たちに残された最後の希望なのよ」
「う……わ、解ってるよ。まあ、うちは大人の女だからさ、ダーリンはちゃんと自分の所に戻ってきてくれるって信じてるもん。グチグチ言ったりなんてしないよ。仕事を邪魔する女が一番嫌われるって、うちはもう知ってるんだから」
と、火恋がどこから仕入れてきたか解らない知識を披露しているうちに、『真国』への入り口がある林の手前に着いた。すると、梅はそこでピタリと足を止め、
「私がついていっていいのはここまで。火恋、後は全て、あなたに任せるわ。頼んだわよ」
「え? う、うん……どうしたの、姉ちゃん。うちにそんなこと言うなんて……」
という火恋の問いに、梅はただくすりと笑みを返す。
「……あっ」
何やかんやで仲のいいらしい姉妹を見て、束の間の穏やかさを感じていた悟だったが、ふと思い出して声を上げる。
「悪い、天月。お前に貰った栄養ドリンク、自転車のカゴに忘れてきた」
「ああ……そういえば、そうね。私こそ、気がつかなくてごめんなさい。でも、それなら……悟、ちょっとこっちへ来なさい」
と、梅は何か考えがある様子で指でちょいちょいと悟を呼ぶ。なんだろう、何か耳打ちをしたいことでもあるのだろうか。と悟が梅に歩み寄ると、
「あなたに『堕天した女神』の祝福を……」
そう囁き、梅はその羽毛のように柔らかな唇を一瞬、悟の左頬に軽く当てた。薄い三日月のような妖しい輝きを瞳に浮かべながら微笑し、
「これであなたは、どこにいても私の力によって守られる。さあ、安心して行くがいいわ」
そう悟の背中をグイと押す。
自らの左頬をポカンと押さえながら、悟は『真国』の入り口へと歩き出す。あまりにも不意のことで、思わず言われるがままに歩き出してしまった。何も言葉を返すことができなかった。
「姉ちゃん、さっきダーリンになんて言ったの? ねえ、教えてよ」
顔が陰になって見えなかったのか、どうやら火恋は、天月が悟に何か耳打ちをしたのだと思っているらしい。しつこく尋ねてくるが、悟は何も答えることができない。
どこかふわふわとしたような足取りで林の中を歩くと、やがて闇の中にぼうっと浮かぶ青い光が見えてくる。『真国』への入り口である。
「まあ、いいよ。どうせ姉ちゃんはただの愛人だし……それに、これは全部仕事だから」
自らに言い聞かせるようにぶつぶつ呟いている火恋の後に続いて、『真国』へと入る。いくらかは見慣れた太古の森のような景色が目の前に広がり、火恋の服装がピンクのベストと黒のワンピースという、奇抜な魔女ふうのものに変わる。
えーと。と周囲を見回してから、とりあえずといった様子で『王』の住居とは逆のほうへと歩き出した火恋に、悟は尋ねる。
「ところで、火恋。『ケルトの森』って、どういう所なんだ?」
「うーん……凄く寒いトコ、かな? クーロンみたいな感じでいっつも夜の場所で、しかもいっつも冬の場所。だから、どんな精霊にも近づきにくい場所で、そこでは魔法もあんまり上手く使えないんだよ。まあ、全く使えないってこともないんだけど……」
「なるほどな。力と力をぶつけるには持ってこいの場所ってわけか」
森の中を進むうち、光が薄く灰色になっていき、気温がはっきりと下がってきた。一歩前へ進む度に、夜へ、冬へと近づいていっている気がするほど、急激に寒さと暗さが周囲を包み込み始める。
生い茂る植物が消えていき、足元には短く黄色い雑草が目立っていく。それらを踏んで歩いて行くうちに木が細く短くなり、頭上の葉は姿を消していく。
それからさらにほんの数分進むと、まばらに生える木は針葉樹だけになり、周囲が雪化粧をし始めた。悟が履いているのは普通の靴だったから、雪の上は歩きにくいことこの上ない。ほとんど氷の上を歩くように足が滑る。
すると、そんなこちらを嗤うように、ダチョウのような形をした真っ白な二匹の生き物が、ダッ、ダッ、という力強い足音を鳴らしながら、すれ違いに雪上を疾走していった。
「『カバチリ』じゃん、珍しい」
「カバチリ? 今のダチョウみたいなやつの名前か?」
「そう。『女神の使者』って呼ばれてる珍しいやつだよ」
「『女神』の……?」
と、気を引かれながら踏み込んだ足が大きく滑り、ヒヤリとする。
戦いの前にケガをするなんていう馬鹿なことをしてはいけない。がしかし、そもそもこのような場所で戦う準備なんて、何一つしていない。そんなこちらとは違って、おそらく神谷は暗間から事前にこのことを知らされ、対策を万全に整えているに違いない。
――これじゃ戦いどころじゃない。大丈夫か、俺……?
そう、まさに足元から不安でグラついていると、やがてストンと抜け落ちるように森から出た。




