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『女神』のために。part1

「へえ、あの時から何も変わっていないのね」

 

 と、天月は学習机の引き出しを開けながら言う。


「おい、勝手に開けるな」

 

 こもった空気を入れ換えるために窓を開けながら悟は言うが、天月は聞く耳も持たずにベッド脇に屈み込み、


「解る……私には解るわ。ここはズボン!」


 ベッドの下の引き出しを開く。


「だから勝手に開けるな」

「ここは上着!」

「勝手に開けるなって言ってんだろ!」

「畳み方が乱れている」

「おい、勝手に畳み直す――いや、まあそれはいいけど……って、いや、やっぱりよくない! 人の物に勝手に触るな!」

 

 別に何かが隠してあるわけではないのだが、人の話を聞かず次々と引き出しを開けられるのは気分がよくない。しかし、天月はこちらを一瞥さえしないまま、ローブをふわりと揺らし、床に杖をついて歩きながらクローゼットの前に立ち、


「このあたりから、我が吉星であるスピカと同じ輝きを感じる……!」

 

 と、勢いよくその扉を開く。


「おい、天月、話を聞け。何か飲み物でも持ってくるから、落ち着いて座って――」

「あら? このアルバムには見憶えが……」

「勝手に触るな。っていうか、頼む、天月。頼むから、ひとまず座ってくれ」

 

 悟がその手首を掴むと、天月は子供っぽく頬を膨らませてこちらを見上げ、渋々とアルバムを押し入れ下段の本棚に戻す。が、上段に吊されている制服のシャツや、積み上げられている冬用布団を見て、


「悟、ここの荷物をどこかに下ろしておきなさい」

「なぜだ」

「ここが私の座る場所だからよ。昔からそうだったじゃない」

「だから、昔のことは憶えてないって言ってるだろ……」

 

 コイツは昔からこんなにワガママで、こんなワガママな奴に自分は恋をしていたというのだろうか。


 ――まあ今と同じで、コイツの顔のよさに釣られたんだろうな、昔の俺……。

 

 全く愚かな男だ。過去の自分に呆れながら、悟は甲斐甲斐しい『女神』の侍従となって、その腰を落ち着ける場所を用意させていただく。


「ご苦労」

 

 と、天月は空いた押し入れによじ登ろうと足を上げてしかし、


「ダッ!」

 

 その右脛を棚に強打して、声にならない声を上げてその場にうずくまる。その醜態を見て、悟が思わずプッと噴き出すと、天月は涙目で、なぜか微笑する。


「そ、そうよ。もっと笑顔になりなさい。この私が『堕天した女神』のギャグで笑わせて、あなたをリラックスさせてあげようとしているのだから」

「嘘つくな。今のは普通に脛打っただけ――」

「ともかく」

 

 と、天月は右足を微かに震わせながら立ち上がり、緑の平原を前にしたように澄んだ笑みを浮かべながら部屋を見回す。


「懐かしい景色ね。まるで四年前に戻ったようだわ。緑色のカーテンも、ゴミ箱に張られた変な生き物のシールも、何もかもが昔のまま……」

「お前、本当にここに来たことあったんだな。うちの母さん、お前のこと見て喜んでたし」

「だから、そう言っていたでしょう」

 

 と、天月は先程置いたアルバムを再び手に取って開く。すると、その一ページ目の右上に、悟と天月が二人で写っている写真があるのだった。夏らしい服装で、この部屋の窓枠に二人並んでもたれかかっている写真である。


「こんな写真、あったのか……。アルバムなんて見ないから、全然知らなかった……」

「これでやっと信じてもらえたかしら? 私はあなたの『女神』で、つまりこの部屋の真の主と言っても過言ではないの」

「その割に、さっき父さんと母さんに挨拶をした時はやけに腰が低かったな」

「マヌケな下僕であるあなたにいいことを教えてあげるわ。この世には許されるワガママと許されないワガママがあるの。あなたのご両親にワガママを言うことは後者。巡り巡って将来の私に損を与える可能性があるから、それを回避しただけのことよ」

 

 何を言っているんだ、コイツは。悟は背筋に寒いものを感じながら絶句するが、天月は相変わらずその目をキラキラと輝かせて、


「それより、早速、特訓を始めましょう。さあ、今この瞬間から、私はあなたの恋人よ。恋人なのだから手だって繋がせてあげるし、足だって舐めさせてあげるし、プロレス技だってかけてあげる。好きなだけ、この私に甘えるがいいわ」

「いや、なんか色々おかしいだろ。っていうか、プロレス技ってなんだよ? 恋人はプロレス技なんてかけ合わないだろ」

「けれど、セレスタはそう言っていたわ。大人はベッドでよくプロレスをするんだって」

「セレスタさんが……?」


 何かおかしいような気もするが、実際に大人であるセレスタが言うのだから本当なのかもしれない。大人全員ではないにしろ、一部の大人は恋人同士でそういう遊びをしているのかもしれない。未知の世界に思いを馳せ、悟がそう思い直していると、


「じゃあ、それが気になるなら、それからやってみましょうか」

「ちょ、ちょっと待てよ」

 

 悟をベッドのほうへぐいぐいと押していき始める天月の手首を掴み、悟は思わず声を上ずらせながら言う。


「でも、こんなのやっぱりおかしいだろ。本当は恋人なんかじゃないのに、恋人みたいなことするなんて……。天月、お前は本当にこれで――」

「天月なんていう呼び方はやめて」


 と、天月はどこか不安げに真っ直ぐな瞳で、じっと悟を見上げる。


「私のことは……昔のようにブリタニカと呼んで」

「ブ、ブリタニカ……?」

「それではダメ。もっと素直に、自分を解き放ちなさい。恥は、時にはただの害悪よ。そんなものはさっさと捨ててしまいなさい。けれど……どうしても、その名前を呼ぶのが恥ずかしいなら……う、梅でも、構わないわ……」

 

 と、天月は黒髪から覗く耳まで顔を赤くしながら、


「梅という名前、私は自分で使うのも、人に呼ばれるのも好きではないのだけれど……でも、あなたがそう呼んでくれるのならば、私は……」


 哀願するように思い詰めた瞳で、じっと悟の目を見上げてくる。

 

 ――う……。

 

 その儚げな上目遣いに、悟は思わず息を呑む。

 

 天月から漂う桃のような甘い匂いが、ビリッと電撃のように全身を駆け巡る。天月の細い肩を両手で掴みたいような衝動が、胸の底からムラムラと燃え上がってくる。


 ――ダメだ。耐えろ。俺は桜が好きなのに……!


 肉体を乗っ取ろうと暴れる猛獣を、桜の笑顔を思い浮かべることでどうにか押し留める。しかし、その欲望が微かに漏れ出てしまったように、口が独りでに動いてしまった。


「う、梅……」


 我ながら情けない、上ずった声だった。それに、この先をどう続ければいいのかが解らない。何かを続けようとしていた気がしたが、頭が真っ白でそれを思い出すことができない。しかし、名前を呼んだのに黙りこくっているわけにはいかない。何か言わなければ。


「梅は、そ、その……ど、どんな音楽が好きなんだ?」

「膝枕をしてあげるわ」

「は?」

「さあ、私の太ももに頭を載せるがいいわ」

 

 と、梅は問答無用に悟の襟首を掴みながら床に正座をして、組み伏せるように悟の頭を自らの太ももの上に載せる。


「な、なんだよ急に! 痛――くはないけど、こんなやり方に恋人らしさも何もあるか!」

「つべこべ言わずに、黙って私の太ももを楽しみなさい。『堕天した女神』であるこの私がこんなことをしてあげているのだから、あなたはただこの気持ちよさに溺れるがいいのよ。それに、私は昔、あなたによくこれをしてあげていたものだったのよ」

「そ、そうなのか……?」

「ええ、そうなのよ」


 余裕なふうで頷くが、その顔は先程から赤信号のように真っ赤である。その目も忙しなく泳いで、ちらりとだけしかこちらを見ない。

 

 そうなのか。悟はモゴモゴと口の中で返しながら、まるで倒された石像みたいに横たわり続ける。耳に当たるサラサラとしたスカートの感触と、頬に当たる少しひんやりと冷たい天月の――梅の太ももの感触が気持ちよくて、まるで張りついてしまったようにそこから顔を離すことができない。


 ――俺はダメなヤツだ、本当にダメなヤツだ……!


 自己嫌悪の嵐に苛まれるが、それでも梅の太ももがあまりに気持ちよくて、どうしても起き上がれない。顔が太ももに吸い込まれていくように、首から力が抜けていく……。


「どう? 気持ちいい?」


 梅が、悟の頭をそっと優しく撫で始めた。その瞬間が限界だった。悟はもう抵抗する気力も奪われて、身体が蕩けたように全てを梅に委ねてしまった。

 

 悟は目を閉じて、溜息混じりに言った。


「……悪かったな」

「何が?」

「俺が、ちゃんと昔のことを憶えてなくて……そのせいでずっと、いや、今だってお前に迷惑をかけてる。俺がちゃんと昔のことを憶えていれば、今、こんな面倒なことにならなくて済んだはずなのに……」

「いいえ、違うわ、悟」


 と、梅はまるで赤子をあやすように悟の髪を撫でる。


「今はそんなことなど、どうでもいいの。だって私は別に、あなたに昔を思い出してもらいたくて、今こうしているわけではないのよ」


 どういうことだ? 首を捻って梅を見上げると、梅は湯上がりのように顔を火照らせながら、妙に固く強張った表情でこちらを見つめていた。悟の頭を撫でていた手を止め、


「解らない?」

「な、何が」

「私は……昔の私じゃなくて、今の私のことを、あなたに好きになってもらいたい、そう思っているということよ。それとも……昔を憶えていなければ、私のことは好きになれそうもない?」


 梅の瞳には、わずかに涙が浮かんでいた。

 

 下を向いているその目から、今にも涙が雫となってこぼれ落ちてきそうなのを見つめながら、悟は言葉を失う。そして、その涙を目にしてようやく、梅がずっと抱いてきた深い孤独を、頭ではなく心で理解したのだった。

 

 この涙を拭いてあげたい。悟は本能的にそう思って、梅の頬へと手を伸ばし――


「お兄がウメちゃんを泣かせてるんよ……」

「「っ!」」


 不意に桜の声がして、悟は梅の太ももから弾かれたような勢いで起き上がり、コンマ三秒と経たないうちに机の椅子に膝を組んで腰かける。

 

 暗い扉の隙間から、じっと冷たい目でこちらを見つめ続けている桜に尋ねる。


「さ、桜、お前……見てたのか?」

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