特訓。
何から何まで頭に来て、何も悪くない火恋とさえ口を利く気になれない。
『こどもたちの国』を後にして、ひと気のない夜の住宅街をズンズン歩いていると、ふと前方の暗闇の中から車のドアを開け閉めする音が聞こえてきて、街灯の光の下に天月とセレスタが姿を現す。
「遅かったじゃない。それに、どうしてインカムの電源を切ったのよ」
天月はこちらまで駆け寄ってくると、怒ったようにそう言った。しかし、事情をどう説明すればいいのか、まだ頭の整理がつかずに悟が沈黙すると、
「ダーリンが、神谷と戦うことになっちゃった……」
火恋が、叱られることに怯えたような声でそう言ったのだった。
自分たちは『デモンズ・ストーム』をこの目で見たが、そのあまりの酷さに耐えられず、ひかりを助けに入ったこと。神谷に事務所へと連れて行かれたこと。暗間がその抱える事情を打ち明け、自分の罪を認めたこと。
『デモンズ・ストーム』を潰したいのなら、悟がそれを潰せばいいと言われ、神谷と戦うことになったこと。しかし、悟はこれまで二度も神谷に手も足も出ず敗れていること……。
車の中で、火恋は全てを天月とセレスタに語って聞かせた。
エンジンが切られ、ルーフをかけられた車の中は、真冬の夜中のようにしんと静まり帰っている。皆の表情は一様に張り詰め、視線は下を向きながら動かない。
だが、やがて、
「悟」
助手席に座っている天月が、斜め後ろの悟を睨むように見る。
「この先、何か考えがあるのなら、その作戦を聞かせてもらいたいのだけど」
「……悪い。作戦なんて何ひとつない。でも、『桜を斬る』と言われて、退き下がることはできなかったんだ。連中の脅迫のために、桜を『真国』へ行かせないなんてこともしたくなかったし……」
「全く……何から何まで馬鹿なことをしてくれたものね。よりにもよって、一番可能性のない方向から敵に挑むことになるなんて」
これ以外にどのような選択肢があったのかは解らないが、確かにあまりにも無謀な道を選んでしまったことは間違いない。何も言い返せず肩を窄める悟から目を逸らし、天月は心底、呆れたような溜息をついて、
「でもまあ、これはこれでアリかしらね、セレスタ」
「そうだね。ボクたちが企んでた作戦よりずっと合法的で、しかも即効的ではあると思うゼ。お兄さんが事務長も神谷もシメてくれれば、それで何もかも解決なんだから」
「いや、でも、ダーリンが危なすぎるんじゃ……」
オロオロと皆を見回す火恋を、天月は厳しく睨みつける。
「既に賽は投げられたのよ。今更そんなことを言っていられる場合ではないわ。こうなったら、早速特訓を始めなければ」
「と、特訓? 特訓ってなんだ」
「今、あなたはなんの『役職』も持っていないのだから、できることは一つしかないわ。それは、『真国』への適性を高めることよ」
適性――。その言葉を聞いて、ふと悟は思い出す。
「それは、現実に負けない強い意志を持つこと……か?」
問うと、天月は微笑しながら小さく頷く。やはりか、と悟は続ける。
「今日の夕方、神谷と戦った時に言われたんだ。『自分は正しい、そう信じて現実を吹き飛ばすような強い意志がない。だから弱いんだ』って。しかも、こうも言ってた。『自分で自分の意志を否定している。だから弱い』って……」
しかし、そう言われたってどうしようもない。自分はもう中学生で、本当の子供ではない。『真国』にいる子供たちよりはずっと、現実をちゃんとわきまえてしまっている。現実の重さを知ってしまっている。
それに、もし神谷の言う『否定している意志』が、自分の桜に対する異常な愛情のことを言っているのだとしたら……どうすればいいのだ。桜に愛の告白をしろと言うのか? でも、それで自分が強くなって神谷に勝ったとして、一体誰が幸せになるんだ?
「あなたが、あなたの胸の裡で何を否定しているのかは知らないけれど……」
と、天月。
「そんなことは関係ないわ。なぜなら、別に意志はたった一つしか存在できないものではないのだから。例えあることには迷いを持っていたとしても、他のことに関して現実を吹き飛ばすような意志を持っていれば、なんの問題もないでしょう?」
「なるほど、それは確かに……。でも、その『特訓』って一体……?」
一筋の光を感じつつ天月の横顔を見つめると、天月は勝ち気な笑みを浮かべ、
「現実に負けない強固な意志を確立させるための特訓……そんなもの、一つしかないに決まっているでしょう? あなたにはこれから、恋をしてもらうわ」
「……は? 恋?」
「ええ。あなたは以前、私への燃えるような恋によって、その力を揺るぎないものとしていたわ。だから今回も、それと同じことをすればいいだけのこと。そうでしょう?」
やけに自信に溢れた笑みを天月は向けてくるが、悟は唖然として何も返せない。と、火恋が顎に手を当てて微笑む。
「ふっ、なるほどね……。じゃあ、ダーリンの彼女である、うちの出番ってわけ。でも、『恋の特訓』って……それって、大丈夫なの? 特訓って言うからには、超えろいことしなきゃいけないんじゃ……」
「ゴブリンは関係ないから安心しなさい」
「だから、うちはゴブリンなんかじゃない! っていうか、今回はマジで姉ちゃんは関係ないし! ダーリンの彼女はうちなんだから、これはうちの仕事でしょ!」
「ヘイヘイ、落ち着いてよ、マイリトル・ハニー。どうしてそんなにゴブリンがイヤなのさ。ボクはゴブリン大好きだゼ、ゴブリン可愛いじゃん」
「い、いや、セレ姉、そういう話じゃなくて……」
「これは遊びじゃないのよ」
と、天月は不意に姉らしい、大人な眼差しを火恋へ向け、
「暗間が一体いつを戦いの日に選ぶかはまだ解らないけれど、きっとそれはそう遠い日ではないわ。つまり、もう私たちに残された時間はないの。あなたにもそれは解るでしょう?
今真国にいる大勢の子供たち、そしてこれから『真国民』になる大勢の子供たちの運命が、これから私たちがどういう行動をするかに全てかかっているのよ」
「あ、遊びじゃないことなんて解ってるし……」
「ちょっと待ってよ」
と、セレスタが割って入る。
「二人とも、大事なことを忘れてない? 恋は一人でするものじゃない、相手の気持ちがあってこそのものなんだゼ。まず考えなきゃいけないのは、お兄さんの気持ちだよ」
大人な意見を言われ、天月姉妹は互いに黙り込む。イヤな質問が来る予感がして、同じく悟も黙り込む。するとやはり、天月がその大きな目を泳がせ、やけに落ち着きなく瞬きしながら、ボソボソと尋ねてくる。
「悟……あなた、今、誰か好きな人はいるの?」
「え? い、いや、別にいないけど……」
「照れないでよ、ダーリン。ホントはもう、うちのことが好きなんでしょ?」
「だから、ガキは黙っていなさい。まあ、照れずに正直になりなさいという点においては私も賛成だけれど」
フフフフ……。と、天月姉妹は今にも相手に殴りかかろうとしているような目で睨み合いながら微笑み合う。そして、どちらからともなく硬く握った拳を差し出し、
「どうしても退く気がないなら、いつものアレで決めることにしましょうか」
「そうだね。やっぱそれしかないよ」
「お、おい、二人とも……」
本当に殴り合いでも始める気か。二人のただならぬ雰囲気に悟は慌てるが、
「「じゃんけん!」」
ぽん! と、瞬く間に、暢気な掛け声と共に勝負は決していた。チョキを出したまま固まる火恋を前に、天月は「よし」とその拳を力強く握り締め、にこやかに悟を見る。
「まあ、こういうわけだから……そうね。じゃあ、あなた、今日はうちに泊まりに来なさい」
「はっ? と、泊まりに? なんでそうなるんだよ!」
「私たちにはもう時間がないと言ったでしょう? つまり、あなたは一日でも早く、再び私と恋に落ちなければならないの。となれば、今日から早速、同棲を始めるのが筋というものではなくて?」
「恋をするために同棲って、なんかおかしいだろそれ! 俺はハムスターじゃないんだから、一緒の檻に入れとけばいいみたいな、そんな単純な話じゃないぞ」
「安心なさい。私のような絶世の美少女と密室で二人きりになって、私に恋をしないなんて絶対にありえないのだから、そんな心配など不要よ」
「よっ! 流石、マイ・ハニー!」
と、酔っ払いのようなノリで喜ぶセレスタを横目に悟は額を押さえ、しかし確かに天月の言うとおりだとも思う。自分にとって一番大切なのは桜、その信念を固く持つ自分でさえ、事実、たまにふらっと天月の美貌にはヤられてしまうことがあるのだ。しかし、
「でも、やっぱりそれはできない。第一、お前の両親に迷惑だろ」
「両親? あんなものを気にする必要なんて全くないのだけれど……それなら、私があなたの家に泊まりに行くのはどうかしら? もちろん、あなたのご両親の許可をいただければの話だけれど」
「うちの親は、まあ、訊いてみなきゃ解らないけど……お前、本気で言ってるのか?」
「――――」
天月は何も答えない。その薄い唇をぴたりと閉じて、反り上がるほど長い睫毛を瞬かせ、黒真珠のような瞳でじっと悟を見つめ続ける。じっと、じっ……と。そして、不意にふわりと微笑んで見せる。
『これで解った?』
その目は明らかにそう言っていて、悟はもう何も言うことができなかった。
だが、それはただ『断り切れない』というのとは少し違った。
悟は今、心の底から天月を美しいと思っていた。もう恋をしてしまったのではないかと思うほど、既に胸はドキドキと早鐘を打っている。しかしそれでも、悟の中にある桜への想いまでは及ばない。天月には、桜ほど心を奪われない。
『俺は桜を愛してるから、お前のことを一番には思えないんだ』
今自分はこれを言うべきなのだろう。言えば、少なくとも今晩、天月に無駄な行動をさせずに済む。残された少ない時間を有効に使うことができる。
そう解っていても、結局、悟は何も言えなかった。言えるはずもなかった。




