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魔女の沼。part1

 あたりを包むのは、真の闇と言ってよいほどの暗闇である。


「おい、大丈夫か、火恋」

「うん、大丈夫だよ、ダーリン。ふふっ、ダーリンは相変わらず優しいね」 

「お、おい、バカ! あぶっ……!」

 

 急に火恋に抱きつかれて悟はバランスを崩し、急な斜面に斜めになって生えている木の幹をかろうじて掴んで、ほっと息をつく。

 

 夜の山、夜の森である。

 

 周囲にはもちろんひと気は一切なく、動物一匹いる気配もない。葉も枯れ落ちた晩秋の森は、葉擦れの音もない文字どおりの静寂に満たされ、乾いた落ち葉を踏みしめる二人の足音と呼吸の音が不気味なほど大きく周囲に響く。

 

 なぜ悟は火恋と共に夜の森を歩いているのか。それはもちろん、絶対に暗間には悟られずに『真国』へと入るためである。そのために普通の経路からではなく、『こどもたちの国』を取り囲んでいる小高い山の中を突っ切るようにして、そこへと侵入を試みているのだった。


「ダーリン、キスしようよ、キス」

「は、はぁ? な、なんだいきなり」

「キスしようよ、キス。うち、一回、キスしてみたいんだよ。ちょっとだけでいいから……ね? ほんのちょっとだけでいいから、キスさせてよ、キス……!」

「や、やめろバカ、ちゃんと歩け」

 

 まるで盛った獣のようにくっついてくる火恋の顔を押し退け、視界の右手から街の明かりが消えることがないように、つまり方角を見失わないようにだけは気をつけながら歩いていると、ふと遠くに、ぽつんと闇の中に浮かぶ白い外灯が見えた。どうやら開けた所へ出たらしい。

 

 すると、耳に装着しているインカムにセレスタの声が届く。


『いいよ、桜のお兄さん。そのまま真っ直ぐ行けば、『真国』への入り口があるゼ』

 

 どうやら自分たちは無事に『こどもたちの国』に到着したらしい。

 

 GPSを使って、リアルタイムで居場所を押さえてくれているセレスタの指示に従いそのまま進むと、やがて確かに『真国』への入り口に行き当たった。まるで人魂のようにぽつんと闇の中に浮かぶ薄青い光が、手招きするように悟をそこへと導いてくれる。

 

 目と耳で周囲の様子をじっと伺いながらそこへと近づき、誰にも見られている様子がないのを確認してから、小猿のように腰にくっついてくる火恋を引きずって『真国』へと入る。

 

 と、その瞬間から、世界は明るい昼間へと戻る。昼なお暗き鬱蒼とした森の中でも、当然、明かり一つない夜の森に比べれば天と地ほどに明るく感じた。


『GPSの反応が消えたけど……聞こえる、火恋、お兄さん?』

「聞こえるよ、セレ姉」

 

 と、黒のワンピースにピンクのベストという服装になった火恋が返すと、


『あんたもちゃんと聞こえてるなら、あんな恥ずかしいことは言わないで頂戴。全く……姉として恥ずかしいにも程があるわ』

「それはこっちのセリフじゃん! うちだって姉ちゃんみたいにアホな姉ちゃんは恥ずかしいよ!」

『ハイハイ、姉妹ゲンカは後にして』

 

 と、セレスタが火恋と天月の会話を断ちきり、


『二人とも、ついさっき、今日のストームの開催場所と参戦者が解ったゼ。場所は『魔女の沼』で、戦うのは『巽祐太朗(たつみ ゆうたろう)』と『小鳩ひかり』だよ』

「「え?」」


 悟と火恋の声が重なり、火恋の顔が急激に青ざめる。


「セ、セレ姉、今なんて言ったの……? 小鳩、ひかり……?」

『うん、そうだゼ? どうかした? あ、そういえば……小鳩ちゃんって、マイリトル・ハニーとよく一緒に……』

 

 マズいことを言ってしまった。そう気づいたように、セレスタの声が張り詰める。しかし、天月は冷然と言う。


『セレスタ、今その画面に映っているものを、そのまま悟の携帯に送りなさい。――火恋、悟、信じられないのなら、自分たちの目でそれを確かめなさい。今そこで立ち止まっている暇などないのだから』

 

 という天月の声が聞こえて数秒後、悟の携帯電話がポケットで震動した。

 

 先程、アドレスを交換しておいたセレスタから届いたメール、それに添付されていた画像を見る。すると、確かにそのキャプチャ画像には、真っ白な画面の中に一対のプロフィール欄が表示されており、その一方には確かに『小鳩ひかり』の名が記されている。


『名前 小鳩ひかり。性別 女。年齢 十歳。役職 (しのび)。戦う理由 心臓病を患う幼い弟の治療費用を得るため。』


『反吐が出るくらいに悪趣味なエンターテイメントでしょう?』

 

 天月はそう笑うが、悟は苦笑をする気にもなれなかった。携帯電話をポケットへしまい、


「戦いのある場所は……『魔女の沼』だったな。急ごう、火恋」

「う、うん、そうだね。うちは場所知ってるから、ついてきてよ」

 

 と、火恋は半ば駆け足に森の中を歩き出し、


「ホントに事務長が一番の悪い人なのかどうかはまだ解らないけど……確かに、『デモンズナントカ』ってやつのために、『クーロン』を『真国』から追い出そうとしたんじゃないかっていう姉ちゃんの考えは当たってると思うよ。だって、うちはこんなの絶対に許さないから、死んでも許さないから……」

 

 こちらを振り返ることもなく、独り言のようにそう言った。

 

 火恋がどこへ向かっているのかは全く解らない。だが、迷った様子もなく黙々と歩き続ける火恋に全てを任せてついていくと、森の奥に暗い岩壁が見えた。その傍へと行くと、それは、その高さが優に百メートルはありそうな剥き出しの岩壁だった。

 

 火恋はその荒々しい薄墨色の岩壁に沿って右手へと歩き出し、すると程なく、岩壁にぽっかりと口を開けた洞窟へと差しかかる。


「ダーリン、うちの手を握ってて。迷わないように、絶対に放さないでね」

 

 火恋はそう言って、その小さな手で包み込むように悟の手を握り締め、洞窟の中へと踏み出す。ふざけてこちらの手を握っているのではないということは、緊張に張り詰めたその瞳と、汗ばんだ掌の感触ですぐに解った。

 

 洞窟の中には、先ほど歩いた夜の森よりもさらに深い闇が満ちていた。月明かりも、遠い街の明かりさえもない、このような本物の洞窟など歩いたことがない悟にとって、その暗さは思わず胸が苦しくなるほどだった。

 

 吐く息が白く染まっていそうなほどに空気は冷たく、次第に狭まる一本道の両脇には人の頭ほどの大きさがある岩がゴロゴロと転がっていて、それを蹴る度、ゴツンと硬質な音が闇に水紋を広げ、その後には世界が息を潜めたような静寂だけが残る。

 

 五分ほどだろうか、進み続けると、やがて何かが腐ったような臭いが空気に混じり出した。まさか何かの死体でも転がっているのではないだろうか。悟は思わずそう不安を感じたが、それからすぐに洞窟を抜け出た。

 

 どうやらここは夜の地域らしく、あたりはまだ暗闇に呑み込まれ続けていたが、足音が反響しなくなり、ズボンを草が擦るような音が鳴ったことで悟はそう感じた。


 空が曇っているのか、上を見ても星明かり一つ見えない。ひょっとして、ここは洞窟の中にある草原なのだろうか、そんな不思議な思いにも駆られ始めたその直後、前方右手に青い光がポッと一瞬だけ灯った。


「今のはなんだ? ここ、暗くて何も見えないぞ」

 

 まさか人魂では? 思わず怯えて、悟は火恋の手を握る手に力を込める。火恋はこちらを安心させようとするように優しい声で言う。


「大丈夫だよ、うちがついてるから。そうだ、ダーリン、ちょっと屈んで」

「屈む? お前、まさかこんな時にまた……」

「違うってば。今はキスとかそんなこと言ってる場合じゃないんだから、早く」

 

 叱られて、悟は言われたとおりに膝を屈める。と、火恋は悟の手を放し、そして左手を悟の両目にそっと当て、囁いた。


「ガーネットに宿りしエプリク・シュンクの神々よ、聖なる火の精霊たちよ。契約を結びし我の願いに応えよ。――炎眼(ルガルディ)

「え……?」

 

 火恋が何やら呪文を唱えて、その手を下ろす。一体何をしたんだ? そう訝りながら瞼をそっと開くと、そこには見たこともない景色が広がっていた。


 まるで世界全体が淡い橙色に照らされたように、ぼんやりと明るい。

 

 いつの間にか自分は、湿地の端に立っていた。

 

 膝ほどまである長さの草が見渡す限り遠くまで広がり、その合間合間には濁った水が泥のように溜まっている。その上には薄くガスがかかり、水の所々からは時折ボコッと大きな泡が浮き上がっては消えている。先程見た青い炎は、どうやらあのガスに偶然火が点いたものだったらしい。


 伸び茂っている草がぼんやりとオレンジ色の光を放ち、その光によって浮き上がらされた、まさに『魔女の沼』という景色を呆然と眺めていると、自らの目にも同じ魔法を施した火恋が、


「ちゃんと見えるようになったでしょ? さあ、こっち、ついてきて」

 

 と、洞窟のある岩壁に沿って左手へと歩き出し、十メートルほど歩いた場所に転がっていた大きな岩の影に悟と共に身を隠す。

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