堕天した女神、再び。
公園の外灯が微かにその全身を照らしてはいるが、その顔まではよく見えない。しかしそれでも、その人物が誰なのかはすぐに解った。闇に浮かび上がるような白いローブ、左手に持った十字架の杖。こんなにも解りやすいシルエットを見て、解らないほうがおかしいというものだ。
「そんな所で何してる、天月」
「そう。私は『堕天した女神』……天月ブリタニカ」
「いや、天月、そういうのはもういいんだ。それより、ちょうどよかった。お前に訊きたいことが――」
「『堕天した女神』は、天を追われたその時から悠久の月日が流れた今でも、ただ一心に自らの信念を貫き続けている……」
「いや、だから――」
「たとえ天と意志を分かとうとも、か弱き胸の灯火をかき抱きながら、一人荒野を歩み続けている……。それがこの私、天月ブリタニカ」
「おい。話を聞け。お前は一体――」
「私こそ、あなたに話がある」
舞台俳優のように仰々しく夜空に両手を広げていた天月が、ふとこちらへ顔を向ける。
「見たわよ。あなた、暗間と会っているだけでなく、『真国』に行き来をしているでしょう?」
「……ああ、それを知っているということは、やはりお前は――」
「『真国』へ行っているということは、ひょっとしてあなたは、昔のことを全て思い出したのかしら?」
どうやらこちらの問いに答えるつもりは毛頭ないらしい。諦めて、天月の問いに答える。
「いや、思い出してはいない。俺はただ、桜の力で一時的にあそこに入らせてもらってるだけだ」
「そう……。やはり『女神』の力でも、昔の記憶までは与えられないのね……」
と、何やら考え込むように呟いた天月に、悟はようやく尋ねる。
「まさか、お前の言ってる『女神』っていうのは、『真国』の『女神』のことか?『墜ちた女神』っていうのは、つまり『真国を出た女神』っていうことか?」
「ええ、そのとおりよ」
「でも、まだ『真国』について憶えてるってことは、お前こそ今でも『真国』に出入りしてるのか?」
「いいえ、私は『女神』の性質として『真国』の記憶を失ってはいないだけ。もうそこへは入れない。なぜなら、その資格を失ってしまったから……」
天月はその目を遠く西の空へと向け、それからこちらを見下ろす。
「悟。あなたに是非聞いてもらいたい話があるわ。そして、この私に力を貸してもらいたいの。いいえ、違うわね。黙って力を貸しなさい。『堕天した女神』の下僕であるあなたに拒否権などないわ」
「げ、下僕? 誰が……」
「とにかく、少しだけつき合いなさい」
と、天月は勇ましくトイレの屋上から飛び降りる――ような姿勢を取ったが、急に怖くなったのか、屋根にぶら下がるようにしながらそっと地面に降り、高いヒールでサクサクと土を踏みしめながらこちらへ歩み寄ってくる。
「俺もできるならお前と色々話をしたいんだけど、でも、悪い。今は無理なんだった。今は桜がそこで待ってるから……」
「いいから来なさい」
と、天月はむんずと悟の手を掴みながら、桜たちの待っているほうとは真逆にある公園の出口へと一直線に歩いて行く。と、
「あっ、ちょっと!」
火恋の声が、静かな公園に響き渡った。すると、「チッ」と天月が小さく舌打ちをして立ち止まり、不快感を滲ませた溜息をつきながら振り返る。
火恋は子供を叱る母親のような憤怒の形相でズンズンと歩いてきて、空いていた悟の右手を掴む。あくまで天月を睨みつけながら、
「この人はうちのダーリンだよ。勝手にどこに行こうとしてんのさ」
「ガキには関係ないわ。消えなさい」
と、天月は子供にも容赦なく冷徹な眼差しを突きつける。しかし、火恋は辛抱強く天月を睨み返し、
「消えるのはそっちだろ! 人の彼氏、どこに連れて行こうとしてんのさ、この泥棒猫!」
「彼氏……? どういうことかしら、悟?」
と、天月は驚きに見張ったような目をこちらへ向ける。
どういうことも何もない。火恋が勝手に一人で言っているだけだ。そう言いたかったのだが、唐突に始まった女二人の修羅場を前にして呆然としていたせいか、咄嗟に言葉が出てこなかった。すると、
「あ、ウメちゃんなん」
という桜の声が聞こえ、天月の表情が暗がりでも解るほど警戒を露わにする。険しい表情で桜を見つめる天月を、火恋は尚も火の出るような目で睨みつけながら、
「おい、いいからさっさとダーリンの手を放せよ! いつまで馴れ馴れしく触ってんのさ!」
「黙りなさい。私が私の下僕に触れて何がいけないと言うの? あなたには何も関係ないわ。ゴブリンは黙って木の実でも食べていればいいのよ」
「だ、誰がゴブリンだって!? うちは――」
「ちょ、ちょっと待て!」
と、悟はどうにか二人の間に分け入り、
「とにかく落ち着け。もう何がなんだか解らん。まず天月、お前に訊く。お前は一体俺をどこに連れて行こうとしてるんだ? そんなことも教えてもらえないまま、ついていくことなんてできないぞ」
「どこへ? それはもちろん決まっているわ。『真実へ』行くのよ」
「…………」
言葉もないとはこのことである。悟が思わず声を失うと、同じく唖然としていた火恋が苦々しそうに笑った。
「あ、あはは、ごめんね、ダーリン。うちのバカ姉が頭おかしいこと言って……」
「え? バカ姉……? 嘘だろ。それって、つまり……」
悟はまたも言葉を失いながら、よく見れば確かに気の強そうな目元が似ている二人を見比べる。見比べていると、退屈そうに木の枝で地面に絵を描いていた桜が言う。
「お兄、そんなことも忘れてるん? ウメちゃんと火恋ちゃんは姉妹なんよ」
「姉妹ですって?」
と、天月が眉間に深くシワを刻む。
「桜、いくらあなたでもそのような妄言を口にすることは許さないわ。こんなのが、この『堕天した女神』の妹であるはずがないでしょう? これはただの野生のゴブリンよ」
「だから、誰がゴブリンだって!?」
火恋はそう猿のように顔を真っ赤にするが、天月はあくまで涼しい顔で悟の手を引く。
「さあ、悟。そんなガキは放っておいて行くわよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ、姉ちゃん!」
と、火恋が半ば涙目になりながら言う。
「マジでどこに行こうとしてんのさ! 二人でどっかに行くなら、うちも一緒に行く! 行くの行くの行くのっ!」
「へえ、本当に?」
「……え?」
突然、冷淡な口調で問いかけられて、火恋は目を丸くして天月を見上げる。天月はそのあどけない眼差しを冷たく見下ろし、
「本当にあなたも来るの? 来たら、あなたは近いうちに『真国』へ入ることができなくなってしまうかもしれない。それでも本当に構わないなら、ついて来るがいいわ」
「『真国』へ入ることができなくなるって……ど、どういうことさ?」
「そのままのことよ。――さあ、時間がないの。来るの? 来ないの? さっさと決めなさい」
「う……」
妹であるがゆえに、天月が本気で自分に尋ねているということが解ったのだろうか。火恋は躊躇うように言葉を呑む。が、ちらと悟を見上げると、それから目を鋭くし、
「う、うちは愛に生きる大人の女だから……それでも、いいよ。ダーリンと一緒なら、どこにでも行く。それが彼女の――」
悟は慌てて火恋の口を封じる。
――さっき言ったことをもう忘れたのか。
桜が誤解するようなことは絶対に言うな。火恋を睨みつけると、天月が呆れたように嘆息した。
「しょうがないわね。まあ、覚悟があるのなら止めはしないわ」
「じゃあ、桜も……」
と、桜が嬉しそうに笑いながら立ち上がったが、天月はそんな桜を厳しく見下ろした。
「桜。あなたはダメよ。あなたはどんな理由があろうと、絶対に来るべきではないわ」
「な、なんで? なんで桜だけダメなん?」
「決まっているでしょう。桜、あなたが『真国』の『女神』だからよ」
天月が足を向けていたほうにある公園の出口前に、一台の車が低いエンジン音を鳴らしながら停まった。秋の夜にも拘わらず天井を開け放した、黒いオープンカーである。その運転席に乗っている金髪の女性――セレスタが、短くクラクションを鳴らす。
「ヘイ! マイ・ハニー!」
天月はそれに手を軽く上げて答えると、セーラー服の上に重ねた白いローブをひらめかせてをそのほうへと歩き出す。悟は天月に手を引かれながら桜を振り返り、
「桜、お前は今日塾なんだから急いで帰りなさい。ああ、母さんには、俺は友達とどこかに遊びに行ったって言っておいてくれ」
「……うん、解ったんよ」
桜は素直に、しかし寂しげに頷いて、その場に佇んでこちらを見つめる。
一人で帰らせるのは不安だが、今は仕方がない。天月はこれから、知ってしまえば『真国』へ行けなくなるような話をしようとしているのだ。その場へ『女神』である桜を連れて行くのは、天月の言うとおり適当ではないだろう。
「モイ、桜のお兄さん」
「モ、モイ、セレスタさん」
悟は火恋と共に後部座席に並んで座る。天月が助手席のドアを閉めると、車はグンと一気に走り出す。その瞬間、まるで真冬のように冷え切った風が顔どころか全身を襲ったが、セレスタは平気な顔で天月に尋ねる。
「それで、どこで話をするかは決めたの?」
「いいえ、まだ決めていないわ」
「この前、行きたいって言ってたピザ屋は?」
「今日は定休日よ」
「そっか。なら、ボクの別荘はどう?」
「べ、別荘?」
二人の会話を聞くともなしに聞いていた悟は、驚いて思わず声を上げる。と、セレスタはバックミラーでこちらを見て、
「うん。そこのほうが色々説明もしやすいしね。ね、いいでしょ、マイ・ハニー?」
「ええ、そうね」
おそらく寒くてそれどころでないのだろう、天月は興味なさげに答える。
何を説明しやすいんだ? 天月の言う、『是非聞いてもらいたい話』とは、一体なんなのだろう? そう気になったが、どうやらこれからちゃんと説明してくれるようなので、その時まで大人しく待つことにする。すると、先程から右腕にまつわりついてきていた火恋が口を開いた。
「ねえ、セレ姉セレ姉」
「何? マイ・リトルハニー?」
「一応、セレ姉には教えておくけど、今日からうちとダーリンはつきあい始めたから、そこんとこよろしくね」
「つきあい始めた? ワオ、本当!? 凄いゼ、火恋!」
「うん。だからさ、セレ姉もうちのダーリンに手を出しちゃダメだからね」
「え? アハハ。オーケー、気をつけるゼ」
ほとんど聞き流すようにそう答えながら、セレスタは赤信号にブレーキを踏む。と、助手席に乗っていた天月が急に椅子の上に立ち上がり、座席を跨いで後部座席へやって来た。
なんだなんだと思っているうちに火恋と悟の間に分け入ってきた天月は、そのままそこに陣取るように、後部座席の上、ルーフがしまわれている上に腰かけて、モデルのようにゆったりと足を組む。
「何してるんだ、お前。そんなトコに座ったら危ないぞ」
天月の白いふくらはぎに思わず目を誘われながら悟が言うと、天月は罪人を見下ろすような冷酷な眼差しで悟を見下ろし、
「ここが私の指定席なのよ。やはり、ここでなくては落ち着かないわ」
「ウソつけ。どーせ、うちとダーリンがラブラブだから嫉妬して――」
「セレスタ、信号が青よ。さあ、のろのろと運転していないで飛ばしなさい。あなたの運転が退屈なせいで、お子様がお喋りをしてしまっているわよ」
「ホワット? ボクの運転が退屈? それは聞き捨てならないゼ!」
セレスタは急に人が変わったように声を荒げ、ギッと強くハンドルを握り締めながら急激にアクセルを踏み込んだ。
「ひっ!」
タイヤが地面の上を滑る甲高い音に混じって、天月の悲鳴に似た声が聞こえたような気がしたが、それどころではない。ちゃんとシートに座っていてさえ振り落とされそうなのだから、天月が叫ぶのも無理はないだろう。だから、自分が天月の足に思わずしがみついていることもどうか許してほしい。
そう願いつつ、寒風が目に飛び込んでくるせいもあって涙目になりつつ、悟はどうやら冷え性らしい天月の足に必死で縋り続けたのだった。




