アジトにて。part1
「な、なんなんだ、ここ……?」
と、悟はキョロキョロと薄暗い室内を見回す。
今にも崩れ落ちそうな、腐った木の板が張られた天井と床。煙と埃に長い間晒されたように黒ずんだ白い石壁。夜空や向かいの建物が見えすぎるほどよく見える、かろうじて形を残している崩れ落ちた窓。
天を突くほど高い山のすぐ麓に点在していた石造りの廃屋、その一つの二階に、なぜか悟は今いるのだった。
自分はこれから、誰も助けが来そうにないここで卑猥な拷問でも受けるのだろうか? そんな不安が頭を掠めたが、黒いハチマキを外した火恋はあたかも自宅でくつろぐように、小さなランプの置かれたテーブルの向かい側で、にこにこ笑ってこちらを見ている。
火恋はテーブルの上の木製小皿に山盛りにされている、ブルーベリーのようなものを一つ、口に放り込み、
「これ、食べていいよ、ダーリン。『ミルティ』っていう果物。食べたら疲れが取れるよ」
「ダ、ダーリン……?」
目の前で二個、三個と立て続けに火恋も食べているのだから、毒の類ではないだろう。悟は勧められるがままにそれを一粒、食べてみる。すると、確かにそれはブルーベリーによく似た味のフルーツだった。甘酸っぱく、サッパリとしていて美味しい。
「ここ、いいトコでしょ。このあたりは昔から『クーロン』って呼ばれてて、いつから呼ばれてるのかは知らないけど、うちらのグループの名前はこれから来てるんだってさ」
「へぇ……。ま、まぁ、確かに非現実的な雰囲気のある場所で面白いけど、ここ、なんかおかしくないか?
まだ五時少し前なのに、このあたりに来たら急に空が真っ暗になって……」
悟も火恋も、こばちんが服を洗ってくれるというので、今は麻袋に穴を開けただけのような服を頭から被っている。それをつい忘れていて、思わずポケットへ手をやってから、テーブルの隅に置いている携帯電話で時刻を確認し、それから窓の外へと改めて目を向ける。
携帯電話に表示されている時刻は午後五時少し前。しかし、外は既に深夜のような暗さで、大きな星まで瞬いているのが見えている。
「ここはいつも夜の場所なんだよ。なんで? なんて訊かないでよ。こういう場所なんだから、こういう場所なんだよ。あ、ところで、知ってる? ここはずっと夜で、しかもこんなボロボロの街でしょ? そのせいか、この街の先には『魔王』の城があるって言われてんの」
「『魔王』? ここにはそんなのがいるのか」
まるで怖がりな友人に怪談を聞かせて弄んでいるように火恋はニヤニヤしながら、
「そんなの、いないに決まってんじゃん。ただの昔からある噂話。しかもその噂話の中でも、『魔王』はもうここからいなくなったって言われてるしね」
へぇ。としか答えられない、実のない話だった。小学生に対していちいち突っかかるのもなんなので曖昧に受けると、
「にひっ」
火恋は何やら不気味に笑い、すばしっこく悟の右隣の席へと移動してくる。悟の太ももに手を置いてぐっと身体を近づけてきて、
「何? ダーリン、もしかして怖いの?」
「いや、別に」
「ならさ、こんな噂もあるの知ってる? ここってさ、『魔王』の城に一番近い場所っていうだけじゃなくて、『影人』が住んでる場所っていうふうにも言われてんの。そのせいで、余計に誰も近寄らないんだよ。でね、その『影人』っていうのは――」
「『影人』……ああ、俺もそれはちらっとだけ見たことがある。なんていうか……黒い、人の影みたいなヤツだろ?」
「なんだ、もう見たことあったんだ」
と、火恋はつまらなそうに少し身体を離して、
「アレはね、もっと『真国』で遊んでたかったのに、遊べなくなっちゃった人たちの心が集まってできた幽霊みたいなものなんだって。だから、バカにしたりしたら怒って、うちらも『影人』にされちゃうらしいよ」
「幽霊……」
『魔王』とは違って、『影人』はこの世界に実際に存在している。この目で見たこともあるのだから、それは間違いない。そう思うと、今の話には思わずゾクリとするものがあった。この薄暗い廃墟という場所のせいもあって、思わず背後が気になってしまう。
そう。と、火恋はテーブルに肘をついてミルティを一粒、口へ含み、
「でも実はさ、うちもうちの仲間も、今まで一回もクーロンでは『影人』を見てないんだよね。だから、安心してよ。確かに、ここはなんとなく不気味だけどさ、それは見た感じだけだから。それに、慣れてきたら案外、お洒落に見えてくるっていうか――」
ガタン! と、不意に背後で大きな音がした。悟と火恋は同時にビクリと飛び上がりながら後ろを見て、それから二人揃って深く嘆息する。
「お、脅かさないでよ、こばちん。ビックリするじゃん……」
「ご、ごめんなさい……!」
右手に木の桶を持っていたから、ドアが上手く開けられなかったのだろう。こばちんは慌てた様子で、床に落としてしまっていた桶と、その周囲に散らばっていた緑の葉っぱを拾い上げ、
「あの、服は洗って乾かして、それから破れ目も『オニカイコ』の糸で直しておきますから、まずは傷を……」
と、悟の横に立つ。悟は怪訝に首を傾げ、
「オニカイコ……って、何?」
それはね、と火恋が自慢げに口を開く。
「川辺にいる虫だよ。鬼みたいにツノが二本あるからそう呼ばれてるんだけど、それの出す糸で布と布を結んだら、元どおりの、綺麗な一枚の布になるの。凄いでしょ」
「ああ、確かに凄いな。なんでお前が偉そうなのかは解らないが」
こばちんはくすりと笑いながら桶をテーブルに置く。
「じゃあ、あの、傷の治療をするので、服を……」
「あ、ああ」
と、悟が服を脱いで上半身を裸にすると、こばちんは桶の中に入れられていた葉っぱを肩の切り傷に当て、その上にガーゼを当ててから慣れた手つきで包帯を巻いていく。
「これは『カエルソウ』っていう薬草ですから、安心してくださいね。本当に、すぐ傷が治りますから……」
「うん、ありがとう。……あのさ、ところで、なんとなく気になったんだけど……どうして君みたいな子が、『過激派』なんて言われてる『クーロン』にいるんだ? もしかして、火恋に脅されてるとか?」
「はぁ? 何それ、うちはそんなこと――」
「リーダーが、わたしを『クーロン』に入れてくれたんです」
と、こばちんは、次は足の傷の治療に取りかかりながら微笑む。すると、火恋はふんと鼻を高くして、
「そうそう。こばちんって――あ、こばちんは小鳩ひかりだから、こばちんって呼ばれてるんだけどさ。こばちんってこういう感じで、めちゃくちゃ大人しくて優しいじゃん?
それでバカな奴らがさ、こばちんが何も言わないのをいいことに、こばちんのことよく虐めてたんだよ。だから、うちがこばちんを守ってやることにしたってわけ。お互い五年の同い年で、いい友達になれそうだったしさ」
「へぇ、そうなのか。確かに、それは偉いな」
「でしょ? ほらほら、もっとうちのこと褒めてよ」
と、火恋はまるで甘える猫みたいに悟の首筋に頬をすり寄せてくる。ショートツインテールにされた柔らかい髪が頬に当たってこそばゆい。
こばちん――ひかりは火恋のその様子を見て、おかしそうに微笑みながら立ち上がり、
「じゃあ、足のほうの治療も一応終わったので、私は……」
「ああ、ありがとう、こばちん。――あ、ご、ごめんね。馴れ馴れしく『こばちん』なんて……」
「い、いえ……お兄さんは、桜ちゃんのお兄さんだし、別に……」
「まあ、気にしないでよ。ダーリンはうちのダーリンなんだから、これくらい当然だよ」
「別にお前には何も言ってない。俺はこばちんに感謝してるんだ」
「そう照れないでよ。自分の彼女のこと褒めるのが恥ずかしいのは解るけどさ」
何が解るのかは解らないが、火恋はどこまでも自信満々にそう言って、それからふと真面目な顔をする。
「ところで、ダーリン。ケガの治療も終わったところで、そろそろいいかな? 神谷に邪魔されたせいで途中で終わりになっちゃってた話の続き……。うちらが感じてる違和感についてなんだけど」
「ん? ああ。確か、佐良くんは誰かにけしかけられてるんじゃないか、ってところまで話したんだった……よな?」
「うん。で、それをやってるのは、もしかしたら事務長なんじゃないかって……。さっきダーリンにそう言われて、うちもなんかそんな気がしてきたんだよ。
でも、そうなるとさ、事務長はうちらをどうにかして『こどもたちの国』から追い出そうとしてるってことになるじゃん? なんでそんなことする必要があるわけ?」
「それが俺にも解らないんだ。だから、まだ何もハッキリとは言えないんだけど……でも、やっぱり追い出そうとするからには、『クーロン』があると何か都合が悪いことがあるわけで……」
呟きながら、悟は天月のことを考えていた。暗間、天月、『クーロン』、神谷……これらの点は、一体どのような線によって繋がっているのか。それを見つけるには、まだあまりに情報が少なすぎた。
「火恋、お前は『クーロン』のリーダーなんだよな?」
「うん、そーだよ。うちは『火の精霊使い』の『役職』じゃん? いつからかは解らないけど、『火の精霊使い』が『クーロン』のリーダーになることが決まってんの」
「へぇ、そうなのか……。いや、まあそれはともかく、『クーロン』のリーダーっていう立場なら、もちろん『クーロン』内部の事情にも詳しいんだろ? 最近、『クーロン』の中で、何か妙なこととか起きたりしなかったか?」
「『クーロン』の中で……? 何さ、それ? つまり、『クーロン』の中に事務長とつるんでる裏切り者がいるんじゃないかってこと?」
「いや、何もそんなことは言ってない。何しろ『クーロン』が目の仇にされる目的もよく解ってないんだから、まだ裏切りも何も疑えないだろ? 俺はただ単に色んな情報がほしい、それだけだ」
ふむぅ。と、火恋はどこか不機嫌そうに唇を尖らせて、
「情報……そう言われてもねぇ……。ん? ああ、でも、そうだ。そういえば、なんか最近、気になってたことがあったんだった」
「気になってたこと?」




