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堕天した女神・ブリタニカ。part2

「よ、よく来てくれた、士条くん。助けてくれ。早くそいつを追い払ってくれ」


と、上下スウェット姿の暗間が背中にすがりついてくる。その瞬間、蝋人形のようにどこか青ざめながら固まっていた天月の表情に、ピクリと不快の色が走る。


「なるほど、この人が今ここにいるのも、偶然ではなく、貴様の策略によるものだということね……。暗間、貴様は本当に悪魔のように狡猾で手際がいい人間だわ。やはり、生かしてはおけない」

「お、おい、待てよ、天月。悪魔だの鉄槌だの、お前は一体何を言ってんだ。なんでこんなことしてるんだ」


再び杖を振り上げようとするように天月が腕に力を込めたのを見て、悟は咄嗟に手を上げて降参のポーズを取る。すると、天月は不思議そうに軽く首を傾げて、


「なぜ? そんなもの、決まっているでしょう? 私が今でもあなたを愛しているから。それ以外に理由があると思う?」

「……は?」

 

――今、コイツ、なんて言った? 

 

イマデモアイシテイル。頭の中で繰り返しても、よく意味が解らない。ポカンとする悟をガラス玉のように冷たい瞳で見つめながら、天月は言う。


「悟。いくらあなたでも、私を止めることは許さないわ。そこにいるのは人間ではなく悪魔なのよ。この『堕天した女神・ブリタニカ』でなければ、それを裁くことはできないの」

「だ、『堕天した女神』って……」


そんなもの、ただの中学生の妄想だ。いくら子供のすることとは言え、鈍器で人を殴るのは立派な傷害事件じゃないか。


悟はそう唖然とするが、天月はそのふくよかに膨らんだ胸に左手をそっと当て、長い睫毛を伏せる。


「そう、私は『堕天した女神』。たとえ天から墜ちようとも、私は今も『女神』のまま。無邪気な意志を失ったがゆえに『真国』から追放されようとも、私は今でもあの時から動けずにいるの。『無意識的な奉仕の精神』……その『女神』の本質に抗えずにいるのよ」

 

何を言っている? というか、コイツは今『真国』と言わなかったか? コイツも『真国』を知っているのか? そう動揺した悟の尻を叩くように、暗間が怒鳴った。


「な、何をしているんだ! 金はちゃんと払っただろう! さあ、早くそいつをここから追い出すんだ!」

「その悪魔に従ってはダメよ。私を信じなさい、悟」

 

大人の怒鳴り声にも臆することなく、天月はその瞳の輝きをいっそう強くしながら悟を見つめる。その瞬間、


――あれ……?

 

と、悟は不意に既視感に襲われる。この天月の目は、どこかで見たことがある。この天月の言葉は、どこかで聞いたことがある。自分でもなぜかは解らないが、ふとそんな考えが頭をよぎったのだった。

 

だが、今はそんなことについて深く考えている場合ではない。

 

自分は一体どうすべきなのか。常識的に考えれば、暗間の言うとおり天月を追い払うべきなのだろう。しかし頭ではそう解っていても、どういうわけか、心がそれに納得してくれない。

 

まさに二人の人間の間で悟は立ち尽くし、しかし視線を掴まれたように天月の目を見つめ返したまま、やがて重く口を開いた。


「……だ、ダメだ、天月。こんなことは……絶対にしちゃいけない」

 

微か、天月の瞳が揺らぐ。鋭いその瞳が、わずかでも悲しげに曇ったのを、悟は今初めて目にした。憂いを帯びてさらに美しくなったその瞳を見つめたまま、悟は続ける。


「でも、俺はお前の言うことを信じる。お前はきっと嘘なんてついてない。けど、それとは話が別だ」

「……そう」

 

天月は白い頬に微苦笑を浮かべ、それから再び矢のように真っ直ぐな目で悟を見据える。


「私を信じる……あなたのその言葉を、私も信じてあげるわ。あなたは昔よりも随分ポンコツになってしまったから、この私が愛する価値のある男なのかどうか、実は迷うこともあったりしたのだけど……まだかろうじて『騎士』の魂は持ち続けていたようね」

 

誰がポンコツだ。そう口を開きかけたが、それよりも早く、天月が暗間を睥睨して言う。


「運がよかったわね、悪魔。けれど、次はないわよ。少し――いえ、かなりポンコツになってしまったとは言え、悟は私のモノ。私の愛しい『騎士』をこれ以上、勝手に使おうとしたりすれば……今度こそ、本当に殺す」


厳しい女神然とした顔つきをしながらその杖で床を強く打つと、こちらから顔を逸らして傲然とした足取りで部屋を出て行き、階段を下りていった。

 

その足音がやがて聞こえなくなると、怯えきった様子で動きを止めていた暗間がスッと立ち上がって悟の手を握った。


「ありがとう、士条くん」

「え?」

「よくやってくれたよ。あんな頭のおかしいヤツと、まともに交渉する必要などない。適当に話に乗ってあしらうのが一番いいんだよ。やはり、君はよく解っているね」

 

そうだ。と暗間は悟の手を放し、床に敷いてある布団の枕上に置いてあった財布から万札を取り出すと、それを悟に握らせた。


「これは今のお礼だ。明日からも、どうかこのまま警戒を頼むよ。いいね?」

「い、いえ、その……僕はもう、これを受け取れません」

「……それは、どういう意味だ?」

 

暗間の表情から笑みが消える。不意に温かさが消えたその目に思わずゾッとしたが、悟は腹を決めてその目を見返す。


「僕にも解りません。でも、とりあえず、もうお金は受け取れません」

 

失礼します。そう頭を下げて、悟はハッと靴を脱いでから急いでその場を去った。

 

玄関で靴を履き直して外へと出て、天月の後ろ姿を深夜の路地に探す。と、一瞬、天月の長い後ろ髪が路地の曲がり角に見えた気がして、すぐさまそれを追う。


するとやはり、そこには白いローブを纏った天月の後ろ姿がある。


「冷えてどこまでも澄み切った夜空の中で、こんなにも綺麗に三日月が冴え返っている。スピカはまるで、ダイヤモンドのように眩く輝いている」

 

天月に声をかけようと口を開いた直後、天月が足を止めてそう呟いた。白い街灯をスポットライトのように浴びながら、儚いほど綺麗な微笑を湛えてこちらを振り向く。


「こんな夜には、人を惑わせ悪へと導く魔の力が満ちているわ。その身に宿った魔の力に耐えられない獣たちが、人知れず街を徘徊しているのよ」

「は……? な、何をわけ解らないこと言ってんだ。それより、お前は――」

「あなたはどうせ私が何を言おうと、真に信じることはできないでしょう?」


と、天月はその顔から微笑を消して、顔に暗く影を作りながら俯く。


「さっき、私のことを信じると言ってくれた時は嬉しかった。でも、その言葉には偽りがある。なぜなら今のあなたには、私を『信じようとする』ことはできても、『信じる』ことはできないの。なぜなら、あなたは私を憶えていないから。私のことを何も知らないから……」

「な、何もって……俺はお前をちゃんと知ってるぞ。お前は俺の小学校からの同級生で、今だって同じクラスの――」

「お兄!」

 

と、お茶のペットボトルを持った桜が、静寂にサンダルをパカパカ鳴らしてこちらへと駆けてくる。しがみつくように悟の腰に抱きつくと、その目をつと天月の方へと向け、


「あ、ウメちゃんなん。なんでウメちゃんがいるん」

 

と、くりくりとした目で不思議そうに悟と天月を見上げる。


「桜……?」

 

天月が、その顔に動揺を露わにした。が、驚いたのは悟も同じである。


「おい、桜、今『ウメちゃん』って言ったか? って、ってことは、お前がこの前言ってた俺の昔の彼女って、やっぱり……!」

「彼女? 笑わせないで」

 

カン! と杖でアスファルトを打ち、天月が刺々しく口を開く。その表情からは既に無防備な驚きの色は消えていて、目には静かな怒りの色が浮かんでいる。


「私は『女神』で、あなたは『騎士』。私たちは恋人などという陳腐な表現では言い表せない、とても清らかで尊い関係だったのよ」

 

――『女神』と『騎士』? 俺と天月が? そんなことはありえない。だって、俺たちは小学校からの同級生でも、今まで一回もまともに話したことがないんだぞ?


悟はそう思ったが、今日の夕方、暗間から聞いた言葉がふと頭に蘇る。


『真国へ入っていた子たちは、そこへ入ることができなくなると、普通の人よりも早く子供時代のことを……中でも真国内でのことを忘れてしまうというから』


あの暗間の言葉が本当だったとしても、ここまで綺麗に忘れ去るなどあり得るのだろうか? もういよいよ何がなんだか解らず立ち尽くしていると、桜がふらふらと天月に歩み寄った。


「ウメちゃん、会いたかったんよ。ずっと会えなかったけど、何して――」

「来ないで」

 

と、天月は桜の存在を拒絶するように言葉を遮る。驚いたように足を止めた桜を冷たく見下ろし、


「こちらへ来てはいけないわ。なぜなら、あなたは『女神』で、私は楽園を追放された、汚れた存在。『女神』であるあなたは、私に近づいてはいけないのよ」

 

言って、長い黒髪をマントのように揺らしてこちらへと背を向けると、こちらを振り返ることなく、そのまま歩き去っていってしまった。


「ウメちゃん……」

 

悲しげに呟く桜の手を引き、悟は帰路へと就く。


天月と自分との関係。暗間に対して感じ始めた不信。『真国』。『騎士』。『女神』――

 

もうそろそろ勘弁してくれというような気分で悟は嘆息し、たばこの煙のように広がった白い吐息越しに夜空を見上げる。

 

確かに天月の言うとおり、夜空では三日月が美しく輝いていた。しかしその輝きは、なんとなく不安そうに、心細そうに見えた。

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