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9/10

あの日

「なあ、俺と大食いと、どっちが大事なん?」


もし、あの日の台詞を言い直せるなら、今日という日はまた違うものになっていたのだろうか。


中学2年生の秋。忘れもしない、9月12日。あれは真理子が半年ぶりに公式容量測定を終えた日の夜、「約束だから」と押しかけた強化選手寮の入り口で、俺が無理矢理迫った一言だった。俺は正気じゃなかった。真理子が扉を開けるなり、押し殺した声で問うたのだ。


「なあ、俺と大食いと、どっちが大事なん?」


「おめでとう」も「おつかれさま」も言わなかった。つい数時間前に記録会を終えたばかりの彼女は、見るからに重そうなお腹を辛そうに抱えているというのに。


「なあ、俺と大食いと、どっちが大事なん?」


そう、俺は結局、自分の存在意義を見失って、八つ当たりしていただけなのだと思う。半年前、彼女が新人戦都大会で(最終枠とはいえ)強化選手の資格を手にし、スポーツ推薦のクラスに転入して、大食い部レギュラーとしての寮生活を始めたこと。以来、練習メニューやスケジュールが厳格に決まっているからと言って、俺の料理を一口も食べてくれないこと。それどころか、ほとんどまともに会えてもいないこと。大食い選手としての道を選べば、そんな日常が待っていると知っていながら、俺との日々ではなく強化選手としての練習を選択したこと。新人記録会の頃は、会場でガチガチに緊張して全然記録が出ず「達也が隣にいてくれないと、食べれない」と泣きついてきたくせに、今や俺の家で打ち立てた自己ベストを軽々上回っていること。伸び率も俺と練習していた頃より高いこと・・・全てが俺を苛立たせていた。


「たつや・・・」


真理子の静かな声が漏れる。


「大食いの練習で忙しいんでしょ? 余計なことは言わなくていいから。俺と、大食いと、どっちが大事なの? いいかげん、はっきりさせて。大食いを選ぶなら、俺だけ帰る。俺を選ぶなら、一緒に帰ろう。それだけ。簡単でしょ?」


「たつ、や・・・? 前は『私の記録をもっと伸ばしたい』って言ってくれてたのに・・・?」


真理子はそう言って、目線を逸らす。やや伏し目がちになると、睫毛の長さが強調されて、いかにも日本美人、という感じだ。目線の先には、腹部に置いた手。白を基調とした大食い部のユニフォームは膨張色と相まって、一層膨らみを強調する。この大きさは、俺の知らない大きさ。触れたことのない大きさだ。いつの間にか、真理子は遠く、俺の知らないところに行ってしまった。


「そういうのは、いいから! 俺と、大食いと、どっちが大事なの? 俺が聞きたいのは、その返事だけ! もともと次の容量測定が終わったら、聞かせてくれるはずだったじゃん!」


俺はずいぶん大人げなく、声を荒げたに違いない。俺は知っていた。真理子は返事を先延ばしにして、いいように俺を遊んでいるのだ。俺は知っていた。真理子が容量測定を故意に回避しているのを知っていた。真理子が強化選手になりたいと言ってきたとき、俺は同様の質問を彼女にしたのだ。彼女の答えは「ごめん・・・どっちも好きすぎて、分からない」だった。「ごめん・・・分からない・・・分からないけど、でも、大食い選手のチャンスは今つかまなかったら、一生後悔すると思う。だから、先に大食いでどこまでいけるか挑戦させて。もちろん今は、達也の力を借りずにどこまで私の記録が伸ばせるか分からないけど。もし、達也の手を借りなくても、大食いで一流になれて・・・それでも達也が好きだったら、そのときは達也の方が好きだったんだと思うから」たしかそんなことを、彼女は言った。当時は真理子のご都合主義だと思った。でもご都合主義なのは、自分の方だった。練習の厳しさ、会えない日々、真理子の適正のなさなんかを、俺はいろいろと、何度も口にした。結局は俺が彼女に、隣にいてほしかっただけだった。でも彼女は、結局強化選手の道を選んだ。俺は取り残された。そして彼女は俺なしでも、着々と大食い選手としての実力をつけ、若手のホープにのし上がりつつある。強化選手更新の条件は、都大会8位入賞、ないしは半年以内の公式記録10kg超えだった。単に公式記録としての容量測定を先延ばしにしたかったのだと俺は思うが、練習に専念したいからと言って大会の類いを半年間拒絶し続けた真理子にとって、今日の記録会は最初にして最後のチャンス。しかしそこで10.62 kgという文句なしの自己ベストを叩きだしたからには、彼女が自ら拒絶しない限り、強化選手としての生活が継続されるのだった。


「ごめん、たつや・・・でも、答えられないよ・・・。まだ、私より食べられる人、たくさんいるもの」


真理子は自らの腹部に形成された不自然な斜面を手でさすりつつ、相変わらず俺の目を見ずに答えた。


「は? またそうやって、答えを先延ばしにするわけ?」


「いや、でもね・・・」


「日本語にちゃんと答えてよ! もういいや。帰る! 一人で日本一でも世界一でも、勝手に目指してろ! ちゃんと答えてもらうまで、俺は何も言わんからな!」


そう言うと俺は、来た道を全速力で駆け出した。真理子は引き留めに来なかった。お腹が重くて走れないのかと思ったけど、曲がり角で振り返ると、真理子はそこから一歩も動いていなかった。俺は悔しかった。真理子に捨てられた! あんなに尽くした真理子に捨てられた。真理子は俺より、自分の記録の方が大事なんだ。俺と過ごした日々も、所詮はみんな、記録のための、手段の一つにすぎなかったんだ! くそったれ!


無我夢中で走り続けながら、それでもさっき見た真理子の腹部を忘れられない自分に腹が立った。胃のカーブがスペースを求めて、胴体から飛び出しているように見えた。上腹部より下腹部が膨らんでいて、上腹部にはまだ余裕があるようにも見えたから、上腹部の皮膚がもう少し伸びるようになれば、まだまだ記録は伸びるだろう。前途の明るい真理子が羨ましい。俺の中の真理子は、新人戦都大会直後の+7.86のまま、きっと永遠に+7.86 kgのままだというのに。 あの膨らみは、触れたらどんな感じがするんだろう? 真理子! 以前、俺が真理子に大食いの秘訣を教わろうとして、2kgも食べれずギブアップしたとき、途中経過を触らせながら、優しく解説してくれた真理子! 2 kgくらいまでは、みぞおちの下がぽっこりふくれてくるのだと言ったね。その先は胃を下に下ろさなくちゃいけなくて、少しだけ痛いけど、すぐに痛みは治まるのだと言ったね。俺はいまだに、自分の胃が下に下りていく感覚はわからないけど、彼女の胃が下に下りていくタイミングなら、手に取るように分かるよ。だってペースがアップするもの。その後は腹の横と背中が膨れてきて、3.5 kgで真っ平らの寸胴になるのだよね。今は背もあのときより伸びたから、4 kgくらいまでは寸胴なのかもしれないね。そこからは少しずつ、お腹をゆるめて、下から順に詰め込んでいくのがセオリーなのだよね。肋骨が開いてきて、息が上がりだしたら、そろそろ限界だって言ってたけど、さっきの記録会では、まだ開ききってもいなかったし、息もそんなに上がっていなかったよね。ずいぶんと成長したなぁ、真理子! 真理子! 走りながら、真理子から遠ざかりながら、走れば走るほど、遠ざかれば遠ざかるほど、真理子の姿が目に、手に、指先に感じられてきて、俺は思い切り走りながら泣いた。


でも結局、俺が真理子のことしか考えられなかったように、真理子はたぶん大食いのことしか考えていなかったのだ。


俺は時折報じられる真理子の記録を見つけては、ノートに書き込んだ。それだけしか、もはや真理子との接点はなかった。3年の9月に引退してから、真理子はイケメンの大学生と大食いデートに出かけているとも聞いた。激太りして、記録が出なくなったとも聞いた。ノートの続きに書き込んで、ざまあみろ、とでも言ってやろうかと思ったけど、いざ書き込もうとすると、悲しくなってきて、書けなかった。中学王者が半年間で、9.8kgに容量を減らしてしまうなんて! 真理子も今、すごく悔しいんだろうな、と、不意にそのとき思った。「今は辛いだろうけど、頑張ってください。応援しています」と書いて、1年半ぶりのメールを送った。返事はなかったけど、エラーも返っては来なかったから、届いていたのかもしれないし、届いていなかったのかもしれない。いずれにせよ、もうだいぶ、昔のことだ。


そうだ、あのノート、どこにやったんだっけ? 記憶が確かなら、大学で引っ越すときに、天袋へ収納して、そのままなはずだ。


微かにほこりっぽい天袋をあさると、やや日に焼けたノートが、数年ぶりに登場した。最後の書き込みはもう、9年も昔のものだ。


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中1・11月 新人記録会 139.8 / 34.01 + 5.82

中1・3月 新人戦都大会 144.2 / 36.21 + 7.73 (8位入賞)

中2・9月 強化選手記録会 150.5 / 39.97 + 10.62

中3・4月 地区大会 156.3 / 43.86 + 12.56 (優勝)

中3・6月 都大会 157.3 / 44.20 + 13.53(優勝)

中3・7月 関東大会 158.1 / 45.12 + 13.82(優勝)

中3・9月 全国大会 158.7 / 46.94 + 14.20(大会新記録)

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達也は赤いボールペンで、最後に一行を付け足した。


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24歳・8月 オリンピック 160.1 / 48.00 + 21.53 (世界新記録)

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