炊飯
「いいよー」と声がしたのと、炊飯器が炊きあがりの音楽を奏でたのが、ほぼ同時だった。
暇を若干持て余しかけていた俺が急いで振り向くと、皿の上には相変わらず、米粒の1粒たりとも残ってはいなかった。
「どこでしょう?」
「どこかなー?」
テーブルの下をのぞいた俺は、見逃さなかった。あの日教室で見たほどのものではないまでも、彼女のお腹が不自然に大きな膨らみを描いていることを。どちらかというと、上腹部の方から大きくふくらんで、下腹部の記事は肌から浮いてしまっているみたいだった。なんでそんなことが分かったかというと、小山さんが暑そうに、パタパタと体操着の布地を動かしていたからだ。下腹部の布地は奥の方までいくのに、上腹部の布地は何か丸い膨らみに、はりついているように見えた。俺はその膨らみに興奮したのをよく覚えている。あれが今思えば、決定的に引き返せない何かへ、足を踏み入れた瞬間だった。
「暑いの?」
「うん。やっぱり炊き立てのご飯だからね。でも、冷たいものをたくさん食べても、しばらくするとすごく身体が暑くなるんだよー。鈴木くんは経験したことないから、分かんないでしょ?」
そういって、小山さんはクスッと笑った。口には出さなかったけど、笑い顔はやっぱり、後ろ向きな顔よりはるかに可愛かった。
「そうかー。じゃあ、今度教えてもらって、一回挑戦してみようかな?」
「やめときな! 最初は辛いだけだよー。でも、どうしても、っていうなら、奥義を教えてあげてもいいけど」
「分かった、考えとく。で、扇風機とかいる?」
「あ、あるなら嬉しい!」
「オッケー、じゃあ、持ってくるね! あ、その間に、次食べてる? 炊飯器は炊きあがったよ」
「あ、そしたらお願い!」
素手で窯を持ち上げようとした俺は、危うくやけどしそうになり、あわてて鍋つかみを使った。普段炊飯器の中身を全部開けることなんてないから、炊き立ての窯に触ったこともなかったのだった。一般的な家庭用炊飯器の限界いっぱいまで炊いただけあって、5合の米が皿の上で主張する存在感はなかなかのものだった。ふだんピザなんかを焼いたときにしか使わない、我が家で一番大きな皿から、15cmほどもせり上がった白米の山。小山さんは臆することなく、割り箸で大きくそれを切り崩していった。今度は「見るな」とも言わないらしい。
「じゃあ俺、扇風機持ってくるね! 自由に食べてて!」
「はーい、では、いただきまーす!」
すでに十分食べてるんだけどな・・・という突っ込みは置いておいて、俺は急いで2階に上がり、去年の秋しまったまま埃をかぶっていた扇風機にあわてて掃除機をかけた。まさか4月から、扇風機を使うことになるとは思わなかった。
10分ほどして戻ると、白米の山はケーキのように切り崩されていた。6つ切りのケーキがひとかけら、切り取られたような形で、その形自体はさほど珍しくもない。珍しいのは、その形がひたすら白米で形成されていることと、それに一人で挑んでいるのが既に先ほどから4合半の白米をその胃に収めた身長135 cmにも満たない体操着姿の少女だということだ。
扇風機のコンセントをつなぎ、風速を強にして斜めから風を当てると、予想通り、一瞬はためいた体操着が、くっきりとその背後にあるものの形を映し出した。実はこの瞬間を狙っていたのだ。やはり膨らみは当初の予想通り、上腹部を中心に形成され、ゆるやかな弧を描いていた。
「わ! ちょっと風、強すぎ!」
「ごめんごめん! しばらく使ってなかったせいでさ!」
俺はあわてて、扇風機の風速を弱くする。
「こんな感じでいい?」
「ばっじりー! あー、じあわぜー」
小山さんは一瞬驚いて手を止め、体操服を抑えたものの、またさきほどと同じペースで山に挑み始めた。体操着の白いTシャツには、よく見ると確かにうっすら汗がにじんでいる。代謝も盛んになっているのだろう。
山を切り崩して、冷まして、ほおばって、飲み込む。その繰り返しなのに、なぜか見ていて飽きない。後半になると冷まさなくてよくなった分、むしろ彼女のペースは上がり、40分ほどでその山も彼女の中へ消えていった。
「ふー」
一息ついた彼女のおなかは、もうほとんどあのときの膨らみと変わらない。これは俺が、妊婦と間違えたのも無理はないだろう。さきほど上腹部にあった膨らみの頂点はやや下の方に下がってきて、今は少し開いた脚の間、下腹部までが万遍なくゆるやかに膨らんでいる。
「何見てんの?」
「・・・いやー、こうして見ると、すごいなー、と思って」
「えー、そう? でもこのくらいは、誰だってトレーニングすればできるようになるよ! 私だってまだ行けるし!」
「え? これでもうお腹いっぱいじゃないの?」
俺はわざと、ちょっと挑発するように言ってみた。
「これでちょうど、腹八分目、くらいかなー。今の私だと」
ちょっと体操着を抑え、お腹を強調して見せる彼女のしぐさに、俺は間違いなくドキドキした。
「じゃあ健康のために、このあたりでやめておく?」
「まだひと鍋あるでしょ? ちょっと今日は、自己ベスト更新できそうな気がするの」
「いま9合半だから、4合のこの鍋の、あと半分くらい?」
「ううん、全部入れて」
「いいの?」
「うん、いい。そのかわり、応援してね」
上気した頬で、やや上目遣いに、その台詞を言うのは反則だろう。まあ、頬が上気しているのは、明らかに大食いのせいなのだけど。
たしか最初は、どのくらい食べると性格が変わるか試してみるはずだったのに、いつの間にか自己ベストに挑戦する会になっているみたいだ。俺はあえて主張をしなかったから、共犯といえば共犯か。
「じゃあ、全部あけるよ」
さきほどよりほんの少し小さな山が、再び皿の上に出現した。
「よし、頑張る!」
そう言って、彼女は同じペースで食べ始め、そして今度は次第に、ペースが下がりはじめた。残り半分にところで、箸を止め、Tシャツ越しにお腹をいろんな方向から押しては、少しずつ食べ進めていく。息はいつの間にか浅くなり、頬も一層上気しているようだ。そんなこんなしているうちに、結局4分の3ほどが、彼女の腹に屈服した。残りはたった4分の1だ。その4分の1も、俺の2食分くらいはありそうなのだけれど、見ているこちらも感覚が麻痺してきそうだ。
「ちょっとタイムね」
そう言って彼女は、立ち上がり、背中を曲げたり伸ばしたり、四つん這いになってお腹を揺らしたり、背骨をねじったりしはじめた。さすがに俺も少し心配になる。
「大丈夫? 無理はしないでね。残りは俺が、夕食に食べてもいいし」
「ううん、自分の身体のことは、自分が一番よく分かってるから。今日はいけそう。うん、いける。がんばれ、真理子!」
ソファーの上で右を向いたり、左を向いたり。お世辞にも頑張っている図、とは言えない。客観的にはゴロゴロしている臨月の妊婦だが、彼女は真剣そのものだったので、俺は茶々を入れないでおいた。5分ほどして、彼女は再び席に着く。そして、ゆっくり30分ほどをかけて、半ば押し込むように、最後の1粒までを食べきった。
「ほらね! いけた! がんばった! えらい!」
彼女は何か興奮して、自分の腹に語りかけているようだ。
「おつかれ・・・さま・・・」
俺は、興奮、というより感動、に近いような感慨を持って、この非日常を呆然と眺めていたはずだ。自分の立ち位置が、たぶんよく分かっていなかったのだと思う。だから立ち上がった小山さんがいきなり僕の手首をつかんで、彼女の膨らみにあてがったときには、すごくびっくりした。
「ほら、鈴木くんも『おつかれさま』って言ってるよ!」
肋骨の下から飛び出している「それ」は、やわらかいのだとばかり思っていたけど、想像以上に固かった。しばらくそうして触れていると、小山さんが僕の手首を離す。自由に触っていい、ということだろうか。俺はゆっくりと手を動かしてみた。彼女は抗議をしない。むしろ恍惚とした表情だ。俺はそっと、しかし確かに、少しずつその膨らみを探検していった。
食べ過ぎて真ん丸な腹、というのは、たぶん漫画的表現で、嘘なのだと、探検を初めてすぐに、俺は知った。小山さんのお腹はどちらかというと三角形、というか菱型な感じで、肋骨の下と脚の付け根、自由なスペースに沿って膨らんでいた。
少し押しても、すぐに反発が返ってくる。もう少し、もう少し、と押していくと
「あんまり押したら、さすがに苦しいよ!」
と、小山さんが声を上げてきた。そうだ、忘れていた。この膨らみは、人間につながっているのだ。
「そろそろ、計測してみる?」
と小山さん。
「あ、そうだったね!」
と俺。
自己ベストは、たしか「ヨンニー」と言っていたから・・・ええと、最初って、いくつだっけ?
「ごめん、最初って、いくつだっけ?」
「え? それを今聞く? 30.4だったから、34.6を超えれば、自己ベスト更新、ってこと! ま、非公式記録だけどね。今度は好きな子の数字くらい覚えといてよ! 何度も言わせないで!」
あれ? いま「好きな子」って言った!? なんかさりげなく、一気に話進んでないか!?
上手く頭の整理がつかないうちに、彼女は体重計に乗った。デジタル表示が34.8を指す。
「・・・ほら、やっぱり。今日は鈴木くんもいるし、超えられると思ったんだー」
彼女が心から嬉しそうにつぶやく。概算だけど、4.4キロも増やしたということなのか。
「記録が伸びるのって、そんなに嬉しいものなの?」
「もちろん! 鈴木くんだって、何か目標を達成できたら、嬉しいでしょ?」
「目標・・・」
考えてみると、俺は今まで、目標らしい目標、というものに、挑戦したことがないかもしれない。入試もなんとなく乗り越えてきたし、部活も趣味も、これといって思い入れのあるものを持っていない。
「いいなー、なんかそういうの。俺、今までそんなに頑張れるもの、持ってなかったかも・・・」
「何言ってんの!人間生きてれば、何かしらやりたいことがあるはずよ! 何も考えてない、なんてありえないわ! ラスコーリニコフみたいに、一人で抱え込んじゃ毒よ! 一人じゃ超えられない壁もあるのよ。言っちゃいな!」
そういって彼女は、豪快に腹をたたいた。あの日と同様、ボン、と鈍い音がした。
「うーん、そうは言っても・・・」
「たいそうなことを言おうと思うから悩んじゃうのよ! いま頭の中にある願望をまずはそのまま、言っちゃいなさいよ!」
「そしたら、僕は小山さんの記録を、もっと伸ばしてあげたい」
!!?
こんどは小山さんの思考回路が、一気にショートしたようだった。
「これより・・・ってこと?」
「そう。一人じゃ超えられない壁もある、って言ってたから・・・」
「え? でも、もう、ご飯は全部食べちゃったし・・・」
「実は、おにぎりがあるんだ。小山さんに、練習後食べてもらおうと思って、握ってたやつ」
「え? でも・・・」
「本当に無理なら、危険なことはしなくてもいいんだ。でも、さっき触ってたら、固いとはいえ、まだへこみはするわけじゃん? そしたら、まだそこにも入るかな、って・・・。応援するから。俺、さっき喜んでる小山さんを見て、嬉しいと思ったんだ。だから、もっと小山さんには、記録を更新してほしい」
そうしてその晩、本当に彼女は、15分ほどかけて、僕の握ったおにぎりを食べきった。最初は見守っていたのだけれど、途中でお腹をさするのが俺の役目になり、最後はお腹をさすりながら、胃袋へ声をかけ続けた。彼女もお腹ではなく、胃袋を意識して声をかけ、食べているのだそうだ。
再び体重計に乗ると、数値は34.9。彼女は見るからに荒い息をしていたが、10分ほどすると落ち着いた。時計が7時を告げる。いつの間にか、かなりの時間が経っていたのだった。
彼女は俺にお礼を言って、制服に着替えると、重いお腹をさすりつつ帰って行った。お礼を言うのは、こっちの方だと強く思った。最後、一緒に喜び合ったときの達成感と充実感とが、俺を滾らせた。俺はしばらく幸せに浸りながら、9時過ぎに帰ってくるであろう親父とお袋のために、本日5度目の米とぎを始めた。