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カミングアウト

次の朝、昨日よりさらに小さいおにぎりを握りながら、寝不足の俺は考えた。


小山さんに謝ろう。


当時の俺は、ある意味純粋で――別の言い方をすれば、脳内お花畑だった。今なら謝る方が不審者な気もするが、当時はそんなこと、欠片も思いつかなかった。そして、結果として、それが上手くいってしまったのだ。


小山さんがそのひと月後、俺の彼女になっているだなんて、誰が予想をしただろうか? 事実は小説より奇なり、というのは――いつも正しいわけではないんだろうけど――ときどきは正しいことらしい。あれは俺にとって、奇跡としか言いようのない、ものすごい偶然の連続だった。


第一の偶然は、朝の教室に、俺と小山さんしか居なかったこと。


「小山さん、ちょっと話があるんだけど、いいかな?」


深呼吸を繰り返したのに、相変わらず挙動不審状態から抜け出し切れない俺は、やや上ずった声で、本を読んでいる小山さんのななめ前から声をかけた。本に軽く指を挟んで、顔をあげる小山さん。小説が『罪と罰』だった、とかいう細かなことだけは今でも詳細に覚えているくせに、肝心の会話はあまり思い出せない。


昨日は気が動転して、不審者みたいな感じになってしまったこと(驚かせたら、ごめん)。小山さんの大食いの話を聞いて、応援したくなっておにぎりを握ってきてしまったこと(迷惑だったら、ごめん)。小山さんに放課後の教室で初めて会った時から、なぜかドキドキが止まらないし、いろいろ聞きたくてたまらなかったこと(気持ち悪かったら、ごめん)。


そんな感じで、自分の都合だけをたぶん一方的に(相変わらず挙動不審なまま)話した俺に、小山さんはなぜかクスッと笑ってくれたのだった。


「さっきからなんか謝ってばかりだし、座って落ち着きなよ。あと、聞きたかったこと、って、何?」


俺は(文字通り)舞い上がって、何も考えずに言葉を発したに違いない。


「どうして小山さんは昼と夕方で、性格が全然違うのかな、って思って。」


小山さんの表情が一瞬、はりついて、そしてほろ苦い表情になった。俺はその一瞬で、何か言ってはいけないことを言ったのではないかと思った。「どうして一昨日は、教室にいなかったの?」という質問の方を、先に聞けばよかったのかもしれない。でももう遅かった。俺は一層、挙動不審になった。


「あ、あの、別に非難とかそういうんじゃなくて、ただ知りたいな、ってちょっと思っただけ。気分を害したら、ごめん。でも、俺、小山さんのことについてもっと知りたかったし、大食いも応援したくなってたし、ただそういうことなの、ごめん」


小山さんは長い間沈黙した。そしてその沈黙に俺が耐えかね、席に戻ろうとした頃ようやく


「今度・・・いや、今晩、話すね。話せたら。・・・放課後時間、ある?」


と言ってきたのだ。俺にとっては、願ってもない申し出だったから、二つ返事で了解した。今日までは仮入部期間だから、部活を休んだところで誰にも文句は言われないはず。まあ俺は文句を言われたところで、きっと小山さんの話を聞きに行ったのだろうけど――男子中学生なんて、単純で、そのくせ自分は複雑でいろんなことを考えていると勘違いしていて――そんなものなのだ。


俺は放課後までの時間が待ち遠しかったくせに、放課後まではその後一言も、小山さんと口を利かなかった。お互い意識をしあったまま、放課後みんなが帰るまで教室とトイレを何度も行ったり来たりしてほかの人たちが帰るのを待ち(たしか小山さんは自分の席で小説の続きを読んでいた)全員いなくなってから、会話の続きが始まったのだった。


小山さんから聞いた話は、にわかには信じられないようなことだった。


水曜日に教室へいなかったのは、大食いの道場へ行っていたから。(小山さんは小学校3年生の頃から、大食いを習い事にしており、今は毎週水曜と土曜に通っているとのことだった。)


大食いの習い事、というのも初めて聞いた話だけど、驚いたのはここではない。


大食いには「スタッファーズハイ」という状態があって、胃がある程度まで引き伸ばされると気持ちよくなり、性格が変わってしまうのだという。


「酔っぱらうのに近いんじゃないか、って言われてるけど、たぶんそういうのより、ずっと強い変化だと思うの。そして私は――ほら――もともとこんな風に引っ込み思案で目立たないじゃない? だからなのか、なんなのか分からないけど、他の人より、大食い前後の変化が大きいの」


そんな話を、間にかなりの間をおいて、ぽつりぽつりと話すので、最初の方は、些細なことを聞き出すのに、結構時間がかかった。そして分かったことは、大食いしていないときの小山さんは、素の俺といい勝負(もしくはそれ以上)に、根暗で後ろ向きで、自虐傾向が強い、ということだった。


そんなことない。大食いしてないときの小山さんも十分魅力的だと俺は思うし、そういうのも認めてあげたらいいと思う。それに、俺の方がよっぽど根暗で後ろ向きで、しょっちゅう上がるし、挙動不審だし、昨日なんか布団の中で悩みまくってたし・・・みたいな話を、俺は何度も繰り返した気がする。(今思えば、中二病の極みだと思う。あんなくさいセリフを、よく吐けたものだ)


でも、小山さんには効果があったようで、1時間くらいしたあたりから、いろいろ昔の話をしてくれるようになった。


大食いしていないときの自分が嫌いなこと。でも大食いしないと自己肯定感を得られない自分はもっと嫌いなこと。大食いしてないときの自分は、いつも全然目立てなくて、そんな自分にもこんなに時間をとって話してくれたのは、鈴木くんが初めてで、いますごく嬉しいこと・・・などなど。


俺は適当に相槌を返しながら、内心非常に浮かれていた。大食いしていないときの性格をほめてあげると、小山さんはすごく喜ぶ。相変わらず大半は沈黙で、俺は聞き役に回っていたから、交わされた言葉数としてはそれほどでもないのだが、2時間ほど話したところで、俺は思い切った提案をしてみた。


「なるほど。小山さんの悩みは、すごくわかったよ。話してくれて、ありがとう。それで、俺のために時間を使ってくれて、すごく嬉しいんだけど、でもそれで、今日の練習、さぼってしまって、大丈夫? なんなら俺ん家、すぐ近くだし、炊飯器はあるし、練習するなら、場所貸すよ。それに、性格の変化に悩んでるなら、どんなふうに変わるのか、客観的に理解できた方が、きっといいと思うし・・・」


こんなことを、少し早口で、一気に言ったはずだ。こうして活字にしてみると、なんだかかなり、気持ち悪い。けど、このときはこれで、うまくいってしまったのだ。下心丸出しとも取れかねない提案に、小山さんもよくOKしてくれたものだと思う。今までよほど、素の小山さんに話しかける人はいなかった、ということなのだろう。(まあ、見るからに硬派な本を読んで、「話しかけるな」オーラ全開なのは小山さんの責任だと思うのだが・・・)


しばらくなんだかんだと言い訳をしながら、小山さんはまんざらでもないようで、結局二人で俺の家へ来ることになったのである。共働きで、家事を俺にまかせっきりだった両親に、この時ほど感謝したことはない。相変わらずぽつりぽつりと自分語りを続ける小山さんに、家までの道を案内しながら、俺はスーパーに寄った。何か気の利いたおかずでも作ろうと思ったのだけど、小山さんの口から出た言葉は衝撃的だった。このあたりのやりとりは少し面白かったから、ちょっと詳しめに書いておこうと思う。


「何合炊き?」


「へ?」


「鈴木くんちの、炊飯器、何合炊き? まあ、分からなければ、いいけど・・・」


「あ、五合炊き。三人家族だから。」


「何口?」


「へ?」


「鈴木くんちの、コンロは、何口?」


「ガスで二口」


「じゃあ、おかずとか作らなくていいから。


「は?」


「だから、おかずとか、作らなくていいから。たぶん、鈴木くん、ごはんだけで手いっぱいだよ。お米だけ買おう」


「え、お米とか、あるからいいよ」


「いいの。そこは迷惑かけたくないから。2キロで・・・700円。これでいいわ」


そういって小山さんは、一番安いお米を手に取ろうとした。


「なら、帰ろうよ。うち、じいちゃん家農家だから、米は買ったことないの。いくらでも手に入るから」


「本当?」


こころなしか、小山さんの目が輝いた気がした。


「ああ。じゃあ、今日は最初だし、行こうか」


今後も続きますように、という期待を込めて、俺は「今日は最初だし」という言葉を使った。小山さんは反対しなかったので、俺は内心ガッツポーズをした。スーパーから家まではあっという間だ。


「お邪魔します」


小山さんは言って、丁寧に靴をそろえた。おそらく中学入学に際し新品を買ったのだろう。まだツヤツヤした、黒い革靴だった。


「きれいに暮らしてるんだね」


小さ目のダイニングキッチンで小山さんはつぶやいて、周囲を控え目に見まわした。やっぱり緊張しているのだろうか、家に入ってから、どことなく動作がぎこちない。こんなことなら、もっときれいにしておけばよかったけれど、今はそれより、早くご飯を炊くことが先決みたいだ。


「すぐ準備するから、ちょっと待っててね。あ、今朝の残りがあるけど、これはどうしたらいい?」


今朝の残りのご飯が、まだ1合半くらい、炊飯器の中に保温されていた。我が家はたいてい、3合炊くと少し足りなくて、4合炊くと少し余る。


「あ、じゃあそれから食べようか。いいお米だね」


小山さんは炊飯器を覗いて、僕に言う。あれ? こころなし、笑っている。


「あれ、笑ってるよ、小山さん」


俺が指摘すると、小山さんは


「えっ!?」


と恥ずかしそうな声を上げて、ほんの少しうつむいた。たぶん今日初めて見える笑顔に、俺はニヤニヤした。そしてそんな小山さんは、クラスで一番かわいい子ではないけど、たぶん三番目くらいには可愛い子だと思った。


何合くらい炊けばいい? という俺の質問に、小山さんは12合、と言った。5合炊きではスピードが追い付かないから、鍋があったらそれでも炊いてほしいと言う。以前炊飯器が壊れたときご飯を炊いた圧力鍋があると言ったら、それは最高だと言われた。既に何となくテンションが高いように思えるのは、気のせいだろうか。


俺は必死に平静を装いつつ、圧力鍋に3合分の米を入れ、急いで研いだ。そのあいだ小山さんはお手洗いに行って――手を洗うのかと思いきや、体操着に着替えてきた。後で聞いたことだが、そうしないとホックが邪魔して全然食べられないそうだ。


「せっかくだし、どのくらい食べたら性格が変わってくるのか、ちゃんと測定しない?」


冗談で流せるギリギリのトーンで提案をしたところ、小山さんはあっさりと体重計に乗った。体重計の数値は30.4キロ。女子の平均的な体重なんて全然分からないから何とも言えないけれど、軽い方なんじゃないだろうか。でもあんまり胸もなさそうだし、このくらいが妥当なのかもしれない。小山さんに言わせると、大人の部(大学以降)しか階級制にはならないから、元の体重が軽くても中学では全く意味がないそうだ。


「食べ始めても、いいかな?」


どうやらスイッチが入ってしまったらしく、小山さんはややウキウキした表情で、俺に声をかける。


「うん。そしたら炊飯器に残ってるのからお願いしてもいい?」


俺は炊飯器の中のお米を、大きめの皿にひっくり返す。朝の残りとはいえ、大人3人分はゆうにある量だ。来客用の割り箸も一緒に渡す。ふりかけとか梅干しとかも要らないか、って言ったんだけど、今日は実験だから、白米だけでいい、って断られてしまった。


圧力鍋が音を立てる。俺は火を弱火にした。あと5分ほどで火を止め、圧力が下がるまで放置すれば、炊きあがりだ。


「じゃあ『よーい、どん!』って言って。あと、もう一つの鍋も急いで炊かないと、たぶん間に合わないよ。炊飯器の急速って、30分くらいはかかっちゃうもんねー」


小山さんは、なんだか不思議なことを言っている。


「『よーい、どん!』って言ったら、私が『いいよー』って言うまで、振り向かないでねー!」


「分かったけど、急いで食べ過ぎて、のど詰まらせたりするなよ」


「大丈夫! 慣れてるから!」


「慣れてる、って・・・」


「いいから、はやくスタートさせてよ! ごはん、さめちゃうよ!」


「分かった分かった。はい、『よーい、どん!』」


「あー、鈴木くんちのお米、やっぱりおいしー!」


背後に歓声を受けつつ、振り向かないようにすること10分程度。俺が最初の圧力鍋の火を止め、炊飯器の急速炊飯に5合の米をかけたところで、背後から「いいよー」と声がした。


「どれどれ?」


俺が多少大げさにテーブルへ戻ると、小山さんは無邪気に喜んだ。


「さて、さっきまでのごはんは、どこへ行ったでしょう?」


皿はきれいで、一粒の残ってはいず、俺は好感が持てた。そして1合半とはいえ、俺にとってはすでに「大食い」な量を、事もなげに食べてしまったのはやっぱりすごいと思った。


「どこかなー?」


俺はテーブル周囲を探すふりをして、小山さんはもっとよろこんだ。


「そんなんじゃ、絶対見つからないところ!」


既に十分、テンションが高い気がするけれど、あの時はお互いにハイになっていたのだろう。俺はまだ、体重計を勧めるタイミングではないと思っていたかったし、できることなら、小山さんに限界まで食べてもらいたいと思っていた。この状態の小山さんなら、多少突っ込んだ応対をしても大丈夫そうだ。


「どこだか、分かんないなー。次ので、試そっか?」


「うん! 試すー」


こういうとき、圧力鍋は早い。まだ若干固いかもしれないけれど、まあ食べるのに支障はないだろう。俺は今しがた炊いたばかりの3合分を、同じ皿の上にひっくり返した。大きな湯気が立ち込める。


「わー、炊き立て、って感じ! 圧力鍋、いいね!」


小山さんはまたもキラキラとした目で喜んでいる。1時間までの暗さはどこに行ったのだろうか?


「じゃあいこうか『よーい・・・』」


「熱いから、そんなに早くは食べられないよー」


「別に、早さは気にしないし、無理しなくていいよ」


「そう? じゃあ、ゆっくり食べるね」


「どうぞどうぞ、ごゆっくり。お水とかお茶とかいる? 飽きない?」


「こういうものだから、大丈夫! 下手に水飲むと、苦しくなるしね。水は練習の後!」


「そういうものなの? まあ、お好きにどうぞ! 言ってくれれば、何でもやるから!」


「おおきにー!」


関西出身でもないだろうに、小山さんは奇妙なアクセントの関西弁で返してきた。


そして俺は、いま空いた鍋で、今度は4合を研ぎ始めた。


5合と、3合と、4合で、12合だ。


あれ、でも、最初の1合半って、数に入ってないよな?


ま、いいか。どうせ最初の1合半は、今日の夕食用だったんだし、残ったらそっちに回せば何の不自由もない。


俺は火をかけて、振り向いてもいいかと問いかけた。


「まっへー。いままは、はふしへふほほ!」


背後からは、気の抜けた声が聞こえる。おそらく「待ってー。今まだ、隠してるとこ!」というのが正しい翻訳だろう。


ここまできて、下手に気分を害されても何だし、俺はおとなしくガスコンロの方を向いたまま、待つことにした。

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