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自主練

翌朝小山さんは、丁寧な言葉遣いで指のことを俺に謝ると、そそくさと席に戻ってしまった。うつむき加減で、内気な、本を読む少女...昨日の昼と、全く同じ、小山さんだ。もちろんお腹の膨らみも元に戻っている。


指は気持ち腫れているけど、動きに支障はないこと、昨日は弁当箱を取りに、教室に立ち寄ったのだということを伝えただけで、会話は全然盛り上がらなかった。


唯一彼女が応答してくれたのは、弁当箱の話から派生して、俺が自分で弁当を作っている、と言ったとき。


「そう...すごいね」


これは、実のところ、空腹なときの彼女なりに、かなりの興味を示してくれていたのだ、と今なら分かるが、当時はテンションの急激な変動に全くついていけなかった。


これ以上会話を続けようとすると、完全に気があるとして冷やかされそうだと思い(既に十分熱はあったのだが)俺は席に戻って、授業がいつものように始まった。


会話のきっかけを見つけられないまま、いつの間にか授業は終わり、やってきたバレー部の先輩に引かれるまま、俺は体育館へと向かっていた。背が高いだけで、球技のセンスなんて全然持ち合わせていないのに。


指も微妙に痛むし、トスもまともにできないし――苦痛でしかない部活の時間が終わり、モップがけを終えて時計を見ると、18時20分。俺は先輩に忘れ物をしたと嘘をついて、自分の教室へ駆け戻った。約束も何もしていないし、確証などなかったが、何となく小山さんが、お腹を膨らませて、そこに居るような気がしていたのだ。


閉まっている扉の前で、俺は一応ノックをした。


「はひってまーふ!(入ってまーす!)」


想像した通りの声が、扉の内側から聞こえた。小山さんだ。そして、テンションが高い。何かをほおばっているらしい。


「ほちらははですかー?(どちらさまですかー?)」


「鈴木です。鈴木達也です」


「あー、まはふふひふんへー。ほんほほお弁当?(また鈴木くんねー、今度もお弁当?)」


「いや...」


俺は言葉を濁した。こうなったときの返事を考えていなかった。さすがに、ここでいきなり、小山さんに会うためだと言ったら引かれるだろう。言葉の主は、何かを飲み下し終えたらしい。声は普通の発音に戻った。


「ちょっと入んないで待っててね! 今、着替えるから!」


「なんで教室で着替えてんの? 女子は女子更衣室で着替えるんじゃないの?」


昨日聞きたかった最初の疑問を、俺は扉越しに問いかけた。


「え? だって、女子更衣室じゃ飲食できないじゃない?」


布と布が軽くこすり合わせられる音が、耳を澄ませば聞こえてきそうだ。ほんの扉一枚隔てた先に、小山さんがいるのだと思い、俺は興奮を抑えるのに苦労していた。


「どういうこと? 飲食なら、その...大食い部で十分できるんじゃないの?」


「ううん、今はまだ仮入部期間だから、自己ベストまでやらせちゃくれないの」


「自己ベスト?」


「そう。私は、3月の記録会で出した、ヨンニーがベストね」


「ヨンニー?」


「4,200グラムのこと。小学部の記録会は100グラム単位でしか記録を出さないから、それで通じるの。たぶんもっといけるだろうって、仲間は言ってくれてるけど...」


「仲間?」


「あ、大食い部の同期。みんなすごいのよ! ここの推薦は、ゴーゼロ超えないともらえないから...」


ゴーゼロ、ということは、小6で5キロ、ということだろうか? 4キロですら、昨日の小山さんみたいな状態になるというのに、5キロなんて、全然想像つかなかった。


「5キロってこと?」


「そう。白井さんなんてロクハチなの」


白井さんは(俺の予測が正しければ)たぶん4組の子だ。身長170cm、体重80キロ、といったところだろうか。中学生離れした体格の――男子なら相撲部屋からスカウトが来るような――女の子だった。


「昨日の小山さんだって十分すごかったのに、5キロとか6キロなんて、全然想像つかないなぁ...」


「みんな背が高いからね。私みたいに膨れては見えないわ。私に鈴木くんくらいの背の高さがあれば、10キロだっていけると思うわ。正直うらやましい...」


背なんか高くたって、あまりいい事ないよ、バレー部やバスケ部に連れ回されて...と言おうか迷ったけれど、やめておいた。今の俺が言っても、嫌味みたいに聞こえてしまうかもしれない。


「...そのうち、伸びるよ」


「だといいけど...とりあえず、体格に恵まれない分は、努力でカバーするしかないの。だからこうして、ちょっと追加でおにぎり詰め込んでるだけ」


「練習後に!?」


「そう。でもほんの少しよ。昨日も今日も、おにぎり一つ。一日10グラム多く食べれるようになれば、一年で 3.5 キロも容量を増やせるからね。この感じだと、たぶんヨンイチくらい」


「おなか...大丈夫なの?」


「ええ、もう最初の方のは下がってきてるし。そもそもヨンイチくらいなら、そんなに苦しくもないわ。ここからの100グラムが大変なの」


「いや...ヨンイチって...要するに4キロ超でしょ?」


俺は、昨日、小山さんのものだった腹部を思い描いた。小山さんが一瞬体操着をまくって見せてくれた、胃袋が透けているような、パンパンに張り詰めた白い肌を思い描いた。あの先どこに、食べ物が入っていくのだろう?


「うちの大食い部をなめないでよ。ほんとは4キロなんて、朝練にもならない量なの。うちの3年生なら、みんな3升は食べるんだから...」


「おーい、鈴木ー! 忘れ物は見つかったかー?」


「あ! いま行きます!」


先輩の誰かが呼びに来たらしく、小山さんの声は最後まで聞き取れなかった。小山さんは黙ってしまったようだ。


「またね」


俺は、聞こえるかどうか、というくらいの大きさで、扉の向こうに声をかけた。返事は、聞こえなかったけれど、僕が走ってその場を離れてしまったためかもしれない。


気を使って呼びに来てくれたのだと思うが、俺は心の中で、その先輩を恨んだ。どうして放っておいてくれないんだろう? 俺は部活とか興味がなかったし、正直放っておいてほしかった。


それに比べて、小山さんはどうだろう。俺が嫌々部活動に連れ出され、大きな身体を持て余しているのと同じ時間、彼女は小さな身体で、自主練までして、一生懸命胃袋を膨らませているのだ。俺が何にも打ち込めないでいる間に、ちゃんと青春を燃やして生きているのだ。彼女のストイックさは素直に尊敬できた。


明日は、早く終わる部活に行こう。俺は帰り道、そう後ろ向きな決意を固めたのだった。

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