つり橋効果
初めて会ったのがいつか、なんて全く覚えてはいない(きっと入学式前の顔合わせだったのだろう)けれど、初めて意識した瞬間なら、鮮明に覚えている。
あれは入学式の翌日、俺が忘れ物を取りに教室へ戻ったところだった。買ったばかりの弁当箱を教室に忘れたことに気づき、わざわざ校門前から引き返したのだ。小学校の頃は学校に慣れるまで半日上がりの日が続いていたはずだが、中学はそんな配慮をする気などさらさらないらしい。たいした進学校でもないのに、入学式の翌日から6限までみっちり授業が入り、規格外の身長を見込まれたバスケやバレー部の強引なスカウトに遭って、正直俺は疲れていた。疲れていたから幻影を見たのだと一瞬思ったくらいだ。誰も居ないはずの教室で、扉を開けた瞬間に、妊婦の後姿が見えるなんて。
「す、すいませんっ!」
俺は慌てて戸を閉めた。動転して反対の指を挟んでしまい、扉は明らかに鈍い音を立てた。
「あっ、ごめん! 驚かせて! 指大丈夫!?」
「あ、はい! お...ぼくは大丈夫です! か、帰ります!」
そう言うなり、俺は慌てて玄関の方へ走り出した。
「ちょっと待って!」
待つもんか! ここで見つかったら、やばいじゃないか! 妊婦はやや後ろを向いていたとはいえ、確かに体操着を着替えようとしているところだったのだから。
「待って! ちゃんと指見せて! 鈴木くんでしょ?」
俺が玄関の角を曲がるより、扉が開く音の方が遥かに早かった。だめだ、見つかった...こういうとき、自分の背の高さは本当に嫌になる。いくら「そんなつもりじゃなかった」と言っても、明日にも噂は学年中に広がって「妊婦の着替えを見にきたやつ」なんていうレッテルが貼られるんだろうな...でもここで逃げたら、完全にストーカーみたいだし...
思考回路がショートする、というのは、きっとこういう状態のことを言うに違いない。落ち着いて考えてみれば、おかしなことだらけなのだが、そのときの自分はなぜか、妊婦をストーカーしたような気分になっていた。そうしてそのまましばらく、その場に固まっていたのだと思う。
「ゆ、び、みせて、って言ってるの! 戻ってきてよー。 すぐ冷やさなきゃ、まずいんだから。めっちゃ腫れちゃうよー。そっちは玄関しかなくて、水飲み場は逆! 慌ててるの? 慌ててるんでしょー。慌ててる鈴木くんって、なんか面白いね(笑)」
ようやく言葉が、頭の中へ入ってきた。怒っているわけではないらしい。やたらテンションが高い。ころころと明るく、弾んでいるような声だ。同時に(認識は不完全ながら)状況の奇妙さにも初めて気がついた。
ここはどこだ? 学校の廊下だ。
俺は何をした? 自分の教室の戸を開けただけだ。
俺は何を見た? 小柄な妊婦が体操着に着替えているのを見た...
どうして妊婦が俺の教室に居たんだ?
どうして妊婦は俺の名前を知っているんだ!?
考えが整理できぬまま振り向くと、顔だけが扉からのぞいていた。小山真理子、と言っただろうか。背がとびきり低いことを除けば、それほど印象の強いわけではない、目立たぬ子だ。名前だって、体育で一度隣になったことがなければ(男子で一番背が高い俺の隣に、女子で一番背が低い彼女が来たのだ)名前すら記憶できていたか怪しいところだ。休み時間も、自分の席に座って本を読んでいて...まさかこんな明るい声で話すとは思わなかった。
「こやま、さん?」
できるだけ平静を装おうとしたけど、声が上ずってしまって、情けない感じになった。
「真理子、でいいわ。ねえ、こっち来て、指、見せてよ。まだ痛むんでしょ?」
「あ...うん」
やはり声の主は、小山さんらしい。教室に二人も居たのだろうか。全然気づかなかった。
「いや、でも...いま、教室入っちゃ、だめでしょ?」
「え? もう大丈夫よ。気にしないから」
「いや...でもさ、さっき...その...妊婦さんがいたし...」
「妊婦さん!? どこに?」
「いや、だから...その教室に...」
「...あ、そういうこと!」
小山さんは大きな声で笑い始め、ドアを閉め、教室の中に入ってしまった。どうも昼までの印象と全然違う。本当にこれは小山さんなんだろうか?
「ひょっとして...おねえさん、とか?」
「違うわ、私よ。私」
扉の向こうから同じ声がする。
「え!? 小山さん...妊娠してるの?」
「んなわけないでしょう! もうちょっと、ちゃんと頭を使ってよ。半日で人が妊娠するわけないでしょ?」
それもそうだ。授業中の小山さんは、どうみても妊婦、という体型じゃなかった。
「さっきの時間は、何の時間?」
「放課後?...下校時間?」
「じゃなくてー」
小山さんの声は、何か面白がっている風だった。少なくとも、怒ってはいないようだ。
「...部活の、時間?」
「そ! 数時間で、妊婦みたいになる可能性のある部活といえば?」
数時間で、妊婦みたいになる可能性? は? なんだそれ!? 相変わらず、思考回路はショートから立ち直っていないらしい。
「『お』から始まるー」
「『お』から始まる!?」
「知らないの? 私、大食い部員よ」
「大食い部!?」
そういえば、そんな部があった気がする。どこで聞いたんだっけ? そうだ。この中学で、どの部が一番強いか、って先輩に聞いて「そりゃあもちろん、大食い部だけど...」って言われたんだ。男子は勝ち目がないっていうし、全然覚えようとしていなかった。
「あ...なるほど?」
「そこは、『あ! なるほど! さすが大食い部!』って言わなきゃ! はい、もう一回!」
「あ、なるほど、さすが大食い部...」
よく分からないこと続きで、完全に相手のペースに乗せられている気がする。
「棒読み!」
ガラッと扉が開いて、腰に手を当てた小山さんの全身が見えた――途端、俺の目は釘付けになった。
135 cmあるかどうか、という身長の彼女は、176 cmの俺からすると、思い切り見下ろす形になる。俺の目が釘付けになったのは、その平坦な胸の下、腰に当てられた手の間、心なしふんぞり返ったような姿勢でいっそう強調された、彼女の腹部だった。XSらしい体操着のTシャツは、肋骨の下から下腹部まで大きく前にせり出し、生地が引っ張られた分、胸の両脇に、斜め前へ向かって皺が寄っている。おそらく俺は、とても驚いた顔をしていたのだと思う。少なくとも、こんなにアンバランスな膨らみを見るのは初めてだった。
「『あ! なるほど! さすが大食い部!』 はい!」
同じ声がして、俺はその凶暴な膨らみの上に位置する顔を確認した――自信なさげな暗めの表情から、自信たっぷりの不敵な笑みに豹変しているとはいえ、その顔は紛れもなく、昼間体育で隣になった、小山さんの顔だった。昼間は平らだったあの腹部が、ここまで短時間に変化するとは、とても信じられなかった。
「さすが大食い部...」
思わず漏れたつぶやきを、彼女はちゃんと聞き取ったらしい。
「よろしい! 参ったか!」
と言って、テンションの高いまま豪快に笑い、腹を叩いた。何かが詰まっているような、鈍い音が体操着越しに聞こえてきた。
「...なんか...入れてる?」
「失礼ね! 入れてるわけないでしょ? ちゃんと十二合食べ切ったんだから」
小山さんはそう言って、ちょっと体操着の端をめくって見せた。真っ白できめ細やかな肌がのぞいた。俺はドキッとした。ドキッとしたのを悟られまいと、慌てて質問をしたけど、向こうにはちゃんと伝わっていたのだと思う。
「...十二合って!?」
「そっかー、お米の単位は分かんないかー。4キロくらいかな。今日は中学の初日だから無理するな、って、監督に止められたの」
「4キロって!?」
「コンビニの軽く握ったおにぎりなら...あれが一個110グラムくらいだから...35個くらいかな」
「いや、そういう意味じゃなくて...」
鍵っ子の俺は、自炊もするし、米の単位が分からなかったわけではない。感覚が違いすぎて、うまく実感できなかっただけなのだ。運動後におなかが空いたときなど、頑張れば5つ位は食べれると思うが、その先は全く自信がなかった。この小さな体の中に、その七倍が収まっている、というのだから、人体というのはよく分からないものだ。
「...その話、本当?」
「信じないの? ひどい人ね!」
「いや...今日はいろいろ...ちょっとよく分からなくて...」
===6時25分になりました。あと5分で下校完了時刻となります。生徒のみなさんは、速やかに下校してください。繰り返します...===
空気の読めない校内放送が、スピーカーから大音響で流れてきた。
「あ! もうこんな時間! 悪いけど先帰ってちょうだい! 着替えなきゃ!」
何か言う間もなく、扉が閉まった。この扉を開けたら、今度こそストーカーになってしまう。聞きたいことはたくさんあったけど、俺はそのまま、一人で家に帰った。
どうして一人、教室で着替えていたんだろう?
どうしてそんな、とんでもない量を食べれるんだろう?
どうして小山さんは昼と夕方で、性格が全然違うんだろう?
校門を出た頃、俺は弁当箱を教室に置き忘れたことに気づいた。冷やしそびれた指も腫れてきて、じんじんと痛かった。でもどちらも、さきほど小山さんと過ごした時間に比べたら、どうでもいいことに思えてしまった。
「つり橋効果」という言葉を知ったのは、中学校を卒業してからのことだ。人は、ドキドキしている時に出会った人に対して、恋愛感情を持ちやすくなるらしい。あの日の小山さんとの出会いが、俺にとってまさに、それだった。




