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玩物喪志

作者: 木更 葉哉

 どうして私がこの街に流れ着いたのかは、今となってはもう覚えていない。

 勘当同然に家を飛び出して、流れ着いたのがここだった。互いに干渉し合わない土地柄のためか妙に居心地がよく、気付けば随分と長いあいだ居着いてしまっていた。新しい環境をきっかけに過去を捨てさえすれば、まったく知らない人たちの中で生きていくというのも案外悪くないということは、私がこの街に来て初めて学んだことだ。

 ましてここだと、大抵のことでは近所の評判になるなんてことはない。地元と違って、どんなに遅く外を歩こうと次の日に近所中に広まっていたことは一度としてないし、タバコを吸うべく喫煙所に行ったところで、先客との会釈一つで話は終わる。

「ご近所さんたちがなんて噂しているか、知らないわけでもないでしょう?」

 お願いだから、もっとつつしみを持ってちょうだい。

 記憶の中にある母の小言には、非難めいた様子はとうに消えた、もはや泣き出さんばかりの表情しか残っていない。

 

 ここでの気楽さに比べたら、昔の町は檻の中に住んでいるようなものだった。よくまぁ数十年も住めていたものだと、最近つくづくそう思う。

 だけどここは期間限定の住処だ。だからこそ、この街は優しい。夢はいつでも甘いのだから。


 このあいだ買ったパンプスは、歩くとかつかつ音がする。派手な配色が私のお気に入りで、暗くなった道では、赤と黄色と闇のコントラストがとてもきれいだ。

 私がこの街に来たときも、こんなふうに雨が降っていた。包み込むような穏やかさの、こんな静かな夜だったと思う。 まだ街が寝静まるには早い時間というのに通りには誰もいなくて、そこには雨と私の歩く音だけしかなかったことを、あの夜が遠い過去になってしまった今でもはっきりと覚えている。切れてしまいそうに細い雨の糸が、やわらかく、街灯の明かりに照らし出されていた。



 別れてほしいの。

 その一言を口にするのには、かなりの時間と勇気が必要だった。いま思い返しても、よくそんなことが言い出せたものだと自分でも感心する。一週間ほども前のことだというのに、まるで昨日あった出来事のようだ。

 あのときの私は夕食の支度をしていて、祐一は床に寝そべったまま、雑誌かなにかを読んでいた。雪に降り籠められた部屋はとても静かで、時折ぱらりと繰るページの音と、くつくつと煮える鍋の音しかしない部屋の中では、私の声はひどく響いて聞こえたはずだ。

「別れてほしいの。できれば、今すぐにでも」

 どうしようかと数ヶ月も言いあぐねていたにもかかわらず、その言葉はするりと口から滑り出ていた。

 背後では、あわてて起き上がる音と咳払いのあとに、

「いま、なんて言った?」

 彼の声が聞こえた。雑誌の押しやられる音がする。

「ここを出来るだけ早く引き払いたいの。荷物の処分、手伝ってくれるとありがたいんだけど」

「じゃなくて。もう一度、言ってもらえないか」

 だけど、こういうときの祐一の声は、とても無表情だ。そしてやたらと丁寧になる。動揺しているときの癖とばれているなんて、きっと気付いていないだろうけれど。

「どうして急にそんなこと、」

「だって別れたいって、あなたも思っていたでしょう?」

 野菜を切る手は休めないまま、私は祐一の声をさえぎって話を続ける。私も、あくまでも穏やかに、さりげない様子で。

「ずっと前から、あなたもそう思っていたでしょう?」

 口に出さない内心だって、慣れれば結構読み取れるものよ。

 振り返って微笑んだら、祐一はなんともいえない複雑な表情をしていた。顔をしかめて困ったふうではあったけれど、だからといって引き止めようという気はないらしい。

「いつ別れを切り出そうか、ずっと悩んでいるあなたの横に居続けるのは、もう疲れたの」

 言葉を選んで話を続ける。

「そんなことに怯えて暮らすのは、もうたくさんだわ」

 だからあなたは、あなたの居るべき場所へと帰って。

 目元だけほころばせてじっと顔を見たら、結局、祐一は顔まで無表情になってうなずいた。

「じゃあ最後に、雪見酒でもしよう」と言って。

 奥まで探してみても、棚には洋酒しか残ってなかった。

 酔いが廻ってきたらベランダに出た。酔いが一瞬で覚める。そんな繰り返しで、結局翌日は二人揃って二日酔いだった。



 祐一と出会ったきっかけって、何だったっけ。

 雨の中を歩いてきたから、よくきいた暖房に慣れるには少し時間がかかった。鼻がむずがゆい。

 行きつけの小さなバーで、私は久しぶりに数年前のことを思い返そうとした。あと少しで二桁になりそうな、随分昔のことになる。もう覚えていないと思っていたけれど、意外なことに記憶ってものはしたたかだ。たかがタバコの煙でだってよみがえる。

 狭いカウンターの片隅で、ぼんやり頬杖をつきながら、一週間前まで恋人だった男のことを考えた。

 最初に出会ったころの祐一は、まだ生意気で、怒りっぽくて、偉そうなことばかり言うくせに実際には何もできないやつだった。なにかと口実をつけては酒を飲みたがるし、いくら言ってもタバコはやめないし、金がなくなれば部屋の中のものを勝手に質草に入れる。ギャンブルに手を出していないのが、救いといえば救いだった。

 今はもうそんな面影はどこにもない。……少なくとも、表面上は。

 生意気なガキは一人前のスマートな大人になって、仕立てのいいスーツに、時計に、靴に、ネクタイに、責任ある地位に、そして毛並みのいい家柄までも手に入れた。どこをどうすれば、よくもまぁここまで化けられるものなのだろう。私の部屋に一歩入れば、まったく変わりない昔のままなのに。

 祐一の話す会社での話を聞くたびに、私はおかしくてたまらなくなる。社会に出たときはろくに見向きもされず、使い走りのようにしか扱われなかったというのに、今では誰も彼もが、よってたかって彼の指示を仰ぎたがる。話を聞きたがる。そして祐一は「仕事の出来る上司」の役を、「皆から好かれる上司」の役を見事に演じているのだ。

「だってリクエストには応えなきゃだろ?」

 話を終えたあとにニヤリと笑う彼の顔を、私はけっこう気に入っていた。あぁ、こいつの本当の顔を知っているのは私だけだ。そう思えるから。

 だけど、そんなヤツの一体どこに惚れたのかは自分でも未だによくわからない。いつかわかるかと暮らしてきたけれど、結局わからずじまいだった。たぶん、一生疑問なんだと思う。……どちらにせよ、もう潮時なのだ。考え続けても仕方ない。

 たいしたやつでもなかったんだけどな。

 なんだか深刻ぶっている自分がバカらしくなって、ふっと嘲笑ってグラスを空けた。喉を焼くひりついた感覚も、私はけっこう気に入っている。祐一と最初に飲んだのが、最後に飲んだのが、これだったから。

 結局きっかけは、あまりよく思い出せなかった。


 外に出たら、ひどく雨が降っていた。

 コートの襟をかき寄せて、マフラーを巻きつけて、それでも寒さの増した帰り道を歩く。ホテルに帰りつくまでに雨は服や髪の間にまで入り込んで、傘を持ってこなかったことを後悔した。

 アイツはもう寝ているんだろうか、それとも……。

 雨を避けてうつむいたら、くっきりした色が目に入ってきた。赤と黄色なんてぞっとしないと言っていた祐一の言葉をふと思い出す。

「そんなのが似合うだなんて、お前もいい加減たいしたことねぇ女ってことだよ」

 靴をおろしたときにそれを聞かされて、大喧嘩をした。履きかけの片方を思わず投げつけてしまったのだけど、あれは少しやりすぎだったかもしれない。手元が狂ってガラスを割った拍子に、破片が靴にひっかききずを作ってしまった。多分直せない。投げつけるのは他の物にしておけばよかった。

 それからしばらくの間、そういった台詞は履くたびに聞くことになるのだけど、慣れとは恐ろしいものだ。

「そんなもん履くのやめとけよ」

「うるさい。人の趣味に口出ししないで」

「少しでも迷えばかわいいもんだってのに」

「いいでしょ別に。どれを履こうが私の勝手よ」

 こんなやりとりが、いつしか出掛けの会話に組み込まれてしまっていた。こんな会話が日常化されてしまうあたり、どっちもどっちなんだろう。

 今日は言われなかった。これからも、もう言われることはないはずだ。祐一が離そうとはしなかった手を、私が切り捨てたから。

 私に残されたものは、荷物の詰まったボストンバッグがひとつと、このパンプス。……祐一との思い出は全部捨てたと思っていたのに。

 アイツの荷物の中に「うっかり」紛れ込ませてしまえばよかった。こんな派手なもの、あの町では浮くだけだ。

 母の言う小言と、父の渋い顔つきとが脳裏をよぎった。……音信不通だった親不孝者は、今回ばかりはおとなしく説教されることとしよう。



 期限は既に過ぎたのだ。夢から覚めれば、待っているのは二日酔い。もう、ここには居られない。

 足元が見えないように上を向いて歩いたら、真っ暗な空から落ちてくる雨粒は街灯にしらじらと光って、私の頬を打って流れた。


初投稿作品です。

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[一言] 数十年、一週間前と時系列が揺れ続けているせいでどうにも全体を通して理解し尽くせない部分があり、読解力を上げようとするきっかけになりました。この作品は。その他は、小道具をうまく使い情景、心理の…
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