一番の恐怖
一番の恐怖とは……人それぞれですが、彼には彼の恐怖があったのです……
大恋愛の末、様々な困難も乗り越え、やっとゴールインした二人。
新婚旅行から戻り、新しい生活を始める為のアパートに、ようや
く落ち着いた。
ここも二人の新しい出発の為にと、うんと奮発して新築の物件を
選んだ。
「ああ、素晴らしい旅だったわね。もう一生の思い出よ」
新妻が荷物を解きながら、夢見るみたいにそう言った。
「うん。そうだね。良い思い出になったね。これからもずっと忘れ
ないだろう」
若き夫はそう言ったが、その言葉のニュアンスには、憂いが溢れ
ていた。
新妻はそれが気にかかるのだろう、急に顔を曇らせて
「え? 貴方、どうかしたの? もしかして私の事嫌いになっ
た?」
そう、若き夫に向き直った。
それを聞いた若き夫は慌てて言った。
「そんなことある訳ないじゃないか。大好きだよ、心の底から愛し
てる」
新妻はその言葉に顔を輝かせながら
「ああ、良かった! 私、貴方に嫌われたらもう生きていけない位
貴方の事が好きなの」
少し恥らいがちに新妻は頬を赤らめる。
若き夫もそんな新妻を見つめながら
「僕も、これまでにない位、そう、こんなに好きになった人はいな
い位、君の事が好きだよ。君は僕にはかけがいのない人だ。僕自身
の命よりも君が大切だ。だからこそ、君がいついなくなるかを思う
と心が痛むんだ」
そう言うと新妻を抱き寄せ、優しくキスをした。
それから妻は旅の荷物、お土産などの整理を始め、若き夫は妻の
為に紅茶を入れた。
「あら、美味しそうね。この紅茶」
妻は薔薇模様のポットとお揃いのティーカップを口元まで引き寄
せると、まずは香りを楽しんだ。
「あら、珍しい種類なのかしら? 甘酸っぱい香りがするわ」
そう言うとぐっと一口。と、その途端に激しくもがき、テーブル
に突っ伏したままやがて動かなくなった。
夫はそれを見ると激しく動揺したが、時間が経つにつれ、落ち着
きを取り戻したように見える。
十分後、夫は警察に自ら電話をかけて、妻を毒薬で殺害した旨を
告白した。
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「で? やっこさんの殺害動機だが。お前、聞いていて理解出来た
か?」
担当の刑事がまだ若い警官にこう訊ねた。
「いいえ。まったく分りません。大恋愛の末、やっと結婚。新居も
新築の豪華なアパート。金銭的にも恵まれてる。他の恋愛相手も無
し。なのに新婚旅行から帰った途端の凶行。本当にあの若い亭主が
やったんでしょうか?」
若い警官は調書を見ながら首をひねった。
「ああ、奴がやった事には間違いない。毒薬の入手先、売人の証
言、部屋の状況、すべて奴が犯人である事を示している。自白もあ
るしな」
担当の刑事も調書をパラパラとめくりながらそう言った。
【私が一番怖いのは、愛する妻が、私の目の前からいつ居なくなる
のかを想像する事でした。昔から私には、恐れている事がいつ来る
のかを想像するのが一番の恐怖だったのです。
それがやって来てしまえば、私はそれを認め、耐える事は容易な
のです。しかし、いつか来るであろう恐れを想像する事には絶えら
れません。その想像は私を激しく打ちのめし、そうして痛めつける
のです。それから逃れるには……】
「それから逃れるには、実際に愛する妻が亡くなればいい、か。俺
には理解出来んがな」
調書を放り投げた担当刑事は、苦虫を噛み潰したような顔をした。
捕まった若い夫は、今、拘置所の中で新婚旅行中にとった写真を
見ては涙しているそうだ。が、その顔は幸せそうに見えるのだとい
う。そう、やっと一番の恐怖から逃れられたみたいな、安心した顔
をして……
これが理解出来る人は私と同類です……