第九話 ●熱情
まだ日も暮れる前、彼は早めに戻ってきた。
手早く食事を済ますと当然のように、また彼は盆を手に私を伴って書斎へと向かう。正しくは書斎に隣接した書室へ。
普段は食事すら書斎で済ますことも多いそうだ。まるで居候のような振る舞いとはいえ一応は客である私を気遣って、共に食卓を囲んでくれるのだろう。
そんな私の朝食はベッドでパンを齧るのだと伝えると、それは良い案だと言い出し蒼白になった。妙な習慣を教えて、使用人に恨まれてはたまらない。
私にソファへ座って待つようにいうと、書き物机に置かれた書類を確認し手に取ると、幾つかの資料を見せてくれた。
彼は私に意見を聞きたいようだ。見識があるように思われているのかもしれない。
長年の旅人になら知恵を借りるのも悪くないかもしれないけれど……国政に関することについて意見するなどとんでもないことのように思う。
私では経験にしろ知識にしろどれも足りない。
今日の彼は、私にはお茶を勧めたが、自身は深みのある琥珀色の蒸留酒を手にしている。その濃い液体を、ゆっくりながら既に二杯目を口にしていた。
傍目にも疲労が滲んで見えていた。午前中は私に時間を割いてくれたから勤務時間は短めだった筈だが、何かあったのかもしれない。
それなのに、また今も、自分で言い出したこととはいえ、私の相手もしてくれるのだ。何とお礼を言っていいか分からない。
「そういえば、私が休んだ後もここへいるのでしょう? ちゃんと睡眠は取ってるんですか?」
疲れているなら、そう言って欲しいと思い問いかけてみる。
すると彼は決まりが悪そうな笑みを浮かべ、立ち上がって灯りを手に取ると、書斎と反対側まで歩き奥に見える狭い壁を押し開いた。
私が壁と思っていたのは飾りの施された扉だった。隠し扉という訳ではなく、私が全く気にとめていなかっただけなのだ。
彼に付いて扉の向こうを覗くとそこは、普通の倍は幅がありそうな大きさのベッドの他は、質素な書物机や衣類棚が置いてあるだけの狭く、そっけない寝室だった。
「言ったろう、ここでほとんど過ごしているって」
「まあ、驚いたわ。私の目は節穴ね」
驚いて目を丸くする私を、彼は笑って見ている。
「だらしないことだが、いつもは寝転がりながら書類を片付けたり、本を読んでいるんだよ」
彼は普段そうするのだろう。ベッドの端に腰掛け、先ほど手に取った本を側へ置くと苦笑した。
「これは、便利な作りね」
私も踏み入れ、部屋を見回す。
「こんな気を落ち着ける場所があるのに、私と書室で過ごすのは負担じゃないですか」
どうにも、彼の時間を奪っているようで気が咎めるも、私は彼が促すままに隣に座り、顔色を伺う。
「とても疲れているように見えるわ。もし何かあったのならどうか休んでください」
「疲労は精神的なものだよ」
彼は軽い口調で言ったが真実なのだろう。でもそれだけでないのは想像できる。彼は自ら走り回っているに違いない。私を助けてくれたときのように。
「盗難事件の事を話しただろう。実は他にも同様の計画が見え隠れしていてね」
諦めたように溜息をつくと、気懸かりを話してくれた。
「先日捕らえた方は、陽動のようなんだ。だが目立つからこそ、街への被害を放置する訳にも行かず。結局あれ以上泳がせることも出来なかった」
彼の口ぶりでは、ただの盗難事件ではなさそうだった。
精神的な疲れ……そのへんの方針などで、軍内部でも何か揉めていたっておかしくはない。
「黒幕がいるということなんですね。しかも、その逮捕で動きを潜め、足取りがつかめなくなるかもしれないのかしら……心配ですね」
「そうだな、まあ、その心当たりも付いてはいるんだ」
どうも歯切れが悪い。
「確証がなくてね。少し面倒な相手ということだよ」
先日の事件から、そこまで大きな事に繋がっているかもしれないなんて、あの時は思いもしなかった。確かにそれどころではなかったけれど。ふと思い出してみる。
「そういえば、あの漁師もどき達、何かと待ち合わせしているみたいだったものね」
「何か気にかかることが?」
彼は表情を引き締め訊ねてくる。
「『波』が来るって言ってたの。漁師だからというのではなくて、不自然に強調して……合言葉なのかも」
もう確認していることなのかもしれないけれど、と思いつつそう伝えた。
「ふむ。締め上げたときに、荷受先について漏らしていたからその事だろう。しかし暗号は初耳だな」
「ご、ごめんなさい。言い忘れていたなんて……私ったら肝心なところで役に立たないわね」
「冗談だろう。君と会ってから目を開かされる事ばかりだよ。それにしても、漁師もどきか、面白い表現をする」
彼は真面目な表情を崩し、からかいに転じた。これ以上は話せないということだ。
「しかし、誰かに気にかけてもらえるのは嬉しいものだね」
ふいに、捉えがたい表情で見られる。
「みなさん、気にかけているはずですよ」
彼の手が私の二の腕を掴むのを見ながら答えた。
「それは私自身のことか、それとも王に対してか」
彼が触れたとたんに、心臓が早鐘を打つ。
「もちろん、ここで働いてる人たちだって、あなた自身を気にかけてるようですし」
彼は少し苛立たしげに苦笑する。
「君は、どうだ」
そして、彼の唇が私の首筋に触れて、考えが途切れる。
「わ、わたし、は……」
彼が王であることなんてどうでも良い。
彼自身が欲しいのだ。
「……あなたが、せめて王様でさえなければって」
自分自身の言葉に驚いていた。
私、なんて事を……突然こんな事言って、とんでもないことだわ。
「私が、王でなければどう変わるというんだ?」
彼はただ意外そうに、そして興味深げに聞き返した。
彼は目をしっかり見るように私の顔を真正面に向かい合わせてきた。でも、私は彼の目を見返すことができず睫を伏せる。
「その、友人の一人として、当たり前に受け入れてもらえるだろうにって。そうしたら、当たり前にあなたを心配しているって言えるから。どこかへ消えてしまう旅人の私には、そんな資格さえないのだもの……」
もう支離滅裂だ。
「人の心に資格など必要あるものか」
そっと彼を覗き見ると、苛立たしげな面に、寂しさが混ざったような感情を浮かべていた。
「あなたにとって、代々受け継がれてきた誇りある事だって知っているのに、たとえ話だとしても、王でなければだなんて言って……ごめんなさい」
彼を真っ直ぐ見ることは出来ない。彼の瞳を見たら、正直に全てをさらけ出してしまいそうだった。
彼を困らせたくない。人々が彼を貶めるかもしれない。そんなことは決して許されない。
「人の営みは役割が与えられてこそ回るものだ。皆が同じ事をしていれば、生活は成り立たないだろう」
彼は呆れたのかもしれない。
こんな当たり前のことも分からないのかと、優しく諭すようだ。
思わず彼と目を合わせてしまう。
こんな、手の届くような近くで、彼を見ないことなど難しいことだった。
彼の瞳は、うっとりするほど綺麗で、意図せず引き込まれてしまう。
一度見てしまうと、目を逸らすなんて出来ない。
でも、私は、この瞳を見続けることなど叶わないんだわ。
もし二度と会えないとしたら、私の長い一生の内の、瞬きのように短いこの瞬間の記憶だけを大事にして、生きていく事になるだろう。
今、この一時を忘れはしない。
私は、目の前の、出会って間もないこの人を……そうよ、愛しているんだわ。
『あいしている』
これって、こんなに切ない言葉だったかしら。
「何を泣くことがある」
低く囁くような優しい声。
私の目尻に彼の指が伸びていた。
私の頬を掠める指も、優しい声も、すべてが胸を締め付ける。
でも困惑しているのは私で、彼は動じた風ではない。
私は、これからどうすれば良いのだろう。
明日からも、こんな風に迷惑をかけるなら、それならいっそ早く去ってしまった方がいいように思う。
無言で視線を絡めた。
彼の表情は、こんな時にはまったく読めはしない。
突然泣き出したりして、彼にとっては煩わしい事だろう。
「……ごめんなさい。私、混乱してるみたい。あなたに迷惑をかけるつもりじゃなかったのに。ただ、ちょっと情緒不安定みたい」
ようやく、振り絞るようにそう答えた。
わずかに睫の下から覗くように彼を見あげる。それ以上は見ることが辛く、目を閉じて彼から身を離そうとした。
なるべく離れる事が辛くないように。
ふいに腕を掴まれ、彼の方を振り向かせられた。
また目と目が合う。
彼の瞳には強い色が浮かんでいた。
「嘘吐きだな、君は」
彼に引き寄せられ、私達は口付けを交わした。
「正直に言うまで離さない」
彼の有無を言わさない強引な腕に、二人の体はぴったりと合わせられ、私は藻掻きながらも彼との時間を惜しみなく味わいたいと思った。
彼の引き締まった、程良い弾力の唇。
私の唇をなぞる彼の甘い吐息。
頭の芯が痺れて、体の力が抜けていく。
彼はそんな私の身体を片腕でしっかりと支えると、もう片方で頭を引き寄せた。
私は吐息を漏らした。
優しく触れる彼の手は優しく、それでいて体の内の炎を燃え上がらせた。
「それで、本当は何を言いたかったんだ。王様じゃなかったら、の続きを聞かせてくれ」
ぼんやりとした頭に、優しい声が響く。でも、そこには面白がっている含みを感じる。こんな時にでも彼の笑顔は眩しすぎて胸を締め付けた。
でも、答えなければならない。
「……王様じゃなかったら、あなたと一緒に、暮らせるかもしれないって……そうしたら、その綺麗な瞳をずっと見ていられる……」
途切れ途切れの息の合間から言葉を紡ぐ。
「それに、あなたの笑顔を、私が守れたらって……」
ああ、言ってしまった。
だって、私の本心なんだもの。
「褒められるのは、いい気分だな」
彼は心から嬉しそうに見えた。
「いつまででも、いればいい」
そう言って、彼は私の髪に手を差し込み顔を上向かせると、恭しく最上の口付けをくれた。
私の世界は一転した。
なぜ、こうなってしまったのだろう。
今、彼の瞳は艶を帯びた鉛色に翳り、私を見下ろしている。
私は彼の首に腕を回し、硬く滑らかなその胸元が波打つ様と、強張る顔を見上げている。部屋に響くのは、どちらのものともしれない荒い息遣いだけ。
時折、目元や頬、鼻の頭に彼の唇が触れる。
「君の、日に焼けた鼻が好きだ」
私は、言葉にならない声で喜びを返すしかない。口を開くと、呻きや溜息の音に変わってしまう。
原始的な言葉だけど、彼には届いている。その返事は、私の腰に腕を巻きつけ、より隙間を無くそうと引き寄せることだ。
どこからがどちらの体か分からなくなるくらいの長い時間、肌を寄せ合い、流れる汗で滑らせていた。