第七話 ●惑い
この国の事を知りすぎたのは、逆効果だったみたい。
好奇心が満たされれば、自分を取り戻せるかもしれない。旅人としての迷いない自信を取り戻せるかもしれない。
そして、彼への思いを振り切ることもできるかも……そう考えていたのに。
彼を目の前にする、一分一秒が、痛いほど肌を刺すというのに。何かに操られているかの如く、彼の前ではおよそ想像の付かない行動をとってしまう。
口にする言葉、どれ一つとっても、出会ったばかりで言うことではない。恥ずかしくて消えてしまいたい。
出会う前に戻れることはない。体の奥が、いいえ、魂が叫んでいるようにさえ思えるのだ。頭で幾つ理由を並べてみたとて同じこと。
ほんのわずかに、彼に会えない今のような時間でさえ、恋しくてたまらない。自立した私は何処へ行ってしまったの? とても弱くなってしまったようで、無意識に自身を守るように抱きしめていた。
その夜の食事は普通の一部屋と言ってよい場所だったので、少し安堵する。
「招いておきながら、時間を取れなくて申し訳ない。いつもは暇を持て余しているくらいなんだが、ここのところ珍しく立て込んでいてね」
昨晩のような失態を晒すまいと、果実酒は辞退した。
彼はそれも面白いようで、微笑みながら私を見ている。ただ、その瞳の奥には、得体の知れない炎が浮かんでいるように思えた。
得体の知れない。いいえ、あれは私の目にあるものなんだわ。きっと、自分がそうだからって、彼もそうだと思いたいのだ。
「よし、それじゃ書室へ行こうか。今日はお行儀良く、お茶を飲みながら話をしよう」
使用人を休ませると、彼は自身でお茶を運びだした。
慌てて運ぶと申し出るが、彼は既に歩き出している。
昨日は、初日であるし形式的に使用人を伴っていたが、普段は大抵なんでも自分で済ませてしまうらしい。
そのほうが早いから、とのことだが、使用人の気苦労が垣間見えた気がする。
珍しい客人なので、彼らも張り切っていたのかもしれない。
あら、と不思議に思った。
「そういえば、執事さんを見ませんね。あなたの手伝いをされてるの?」
「彼か、確かに家の管理は任せている。というよりも、彼は代々この屋敷に仕えているようなものだが。家の雑事をすることはないんだ」
なるほど、主は変わっていくのだから、屋敷に仕えるのねと感心する。
「家に関わる事なら――ここでは私の日程のことだが、対外的な交渉事も采配している。結構、色んな所に呼ばれて出ているよ」
初日の執事の態度を思い出す。
彼の日程に沿って、予定を立てて管理しているのなら、突然の私のような地位的にも面倒な珍客を歓迎しないのも当然だろう。
「君がずっと部屋に篭っていたなら、見ることはないだろうね」
彼はそう言って笑う。
生まれた時からの付き合いなのだろう。気心の知れた相手のようだ。
そして、話は私のことへと移った。
「さて、君のお勉強の成果を見ようか」
彼は、上機嫌で言っていた。
まあ、疑っているんだわ。
「いいわ、怠けていたわけではないのだもの。なんでも試してちょうだい」
彼の笑い声を耳に心地よく感じながら、書室の扉を開く。
今日一日過ごしていたソファへとまた腰を下ろすと、彼も何食わぬ顔で、またそれが自然だとでもいうように、私の隣に腰を下ろす。
先刻まで何も感じなかったのに。急に彼の存在を感じて鼓動が早まり、触れてもいない肌が、じんと痺れるのを不思議に思う。
彼はどういうつもりなのかしら。昨日は、私のせいで彼を困惑させてしまったというのに。
そういえば、出会いから助けてもらってばかりだ。何か、保護欲でも掻き立たせてしまうのかも。
内心慌てつつも、ゆっくりと立ち上がり距離を取るべく棚へ向かう。
私は、伝記を手に取った。
「素敵なお話ね。あなたも子供の頃読んだのでしょう? こんなにボロボロなんだもの」
彼は照れたようにはにかむ。
「冒険譚だと思っていたんだよ」
少年の目から見たら、そんな風にも見えるのかもしれないわね。
私は街で聞いた御伽噺のせいもあるが、基本は恋物語としか捉えておらず単純な考えを恥じる。
「夢みたいな物語だけど、合間にもっと重要な事が告げられているように感じたわ」
その感想は意外だったようだ。
「その通りだ。いや、たんに私の考えなのだが、同じように感じていたんだよ」
彼も立ち上がり、結局私の隣に並ぶ。そして手元の本へ目を落とした。
「ここには二人の領主が諦めずに事を成した事が書かれてある。まあ子供のための教訓が込められているのだろうがね」
私も彼の言葉に興味を持った。同じ事を考えたわけではないでしょうけど、些細なことでも共通点があるのなら喜ばしいことだ。
「だが、私は国が出来た事よりも、二つの性質の違うものが手を携えていくことになった事の方に気を引かれるんだ」
当然、誰よりも彼は様々なことを考えているだろう。彼の国の事なのだから。越えられない壁が、目前に立ちはだかるようで身につまされる。
「国の興りは確かに重要なことだ。だが、彼らは枠を作って、呼び方を変えただけというのではない。どちらの長所も取り込んで発揮していく。それはもっと大変だろうが、大切な事に思えるよ」
その真面目な横顔を見つめて聞いていた。
「こんなことを言うと、ご先祖に責められるかな」
彼は、そんなことを言いつつも、どこか満足げだった。
私もつられて満たされた気持ちになる。きっと大切な事を話してくれたのだろうから。
裏腹に、そんな歴史とは無縁の自分自身のことを考えると、心の深い部分の傷口は広がっていくようで密かに落ち込む。
彼が初めに言ったように、その晩の私達は行儀良く過ごした。
部屋に戻り、ベッドの中であれこれ考える。この国に来てから感じていた寝苦しさが戻ってきたようだった。
翌朝、彼の一声で午前の予定は決まった。
「陸側はまだ回っていないだろう?」
こうして、陸側の領地を見て回ることになった。
午前中の予定を空けてきてくれたらしい。喜ぶよりも、そこまでしてもらうなんてと恐縮してしまう。だけど彼は反論を受け付けない。
全部は無理だから、ひとまずは農地の方へということだ。
屋敷の裏手にある勝手口から続く厩舎へたどり着くと、小型の馬が数頭並んでいるのが見えた。
国内では、主に脚が太くがっしりした小型の馬を用いているようだ。起伏のある土地柄に合っているのだろう。
彼は私を馬の背へ座らせると、私の背を包むように後ろに跨り、鐙にかけた足へ力をこめる。
ゆっくりと走り始めると、たちまち心を奪われた。当たり前だが馬車とは全く感覚が違うものだ。想像よりも速く感じて少々怖くもあったが、緩やかに流れる景色と、彼の体温が体を包んでくれるようで、徐々に楽しさが増していた。
吹き抜ける風が、草原の青臭い香りや、家畜や堆肥だろう土臭さを運んでくる。寒さの厳しかった故郷とは違う、その強い匂いは豊穣を約束されているかのように思えた。
背に触れる彼の体は、余計な力が抜け自然体だった。ただ王として座しているよりも、自ら自由に動き回ることが心から好きなのだろう。
彼は馬上から、農地で働いている者達と挨拶を交わし、この辺りを管理している者の元へ向かうと言った。
私は通りすがる者からの好奇の視線を受け流し、黙って微笑んでいた。
農地を管理している建物の前で馬は止まった。
音を聞きつけて、壮年の男性が顔を出す。
「これは、陸の領主様。今日は珍しいお客様を連れておられますな」
この地の主らしい男が、冗談めかした口調で語りかけてきた。
「ようやく旅人を掴まえることができてね。見せびらかしに来たんだよ」
彼も笑いながら答えている。陸の領主様?
「この男は、古い呼び方で私をからかっているんだ」
説明に頷くと私も挨拶し、改めて領地を見て回ることへのお願いと感謝を述べた。
「私って珍獣のようですね」
さきほどの、見せびらかしに来たというのに答えたものだ。不機嫌になったわけではない。それなりの旅行者を見ていたので、そんなに珍しいのかしらと不思議に思ったのだ。外来者の窓口は海側の街だし、陸側までは旅行者も訪れないのかもしれない。
「冗談とはいえ、言い方が悪かったな。謝るよ」
彼は決まり悪そうに苦笑して返す。
「ははは、気を悪くしないでください。王は、かねてより旅人ときちんと話してみたいと望んでおられました。念願叶ったというわけで、少々浮かれておいでなのですよ」
「おい言い過ぎだろう」
彼らは親しい仲なのだろう。
親しげなやり取りについ笑顔になる。
「そうだったのですか。お役に立てると嬉しいのですけど」
だけど、彼が旅人との対話を望んでいる理由に考えが及ぶと、恥ずかしさで顔が熱くなった。
恐らくそれも、国に関することなのだ。
これまでの私の行動を鑑みるに、彼は人選を間違えたとしか思えない。
そんな心を見透かすように、彼はいつもの面白そうなものを見るような笑みを浮かべて私を見たが、すぐに領主に向き合い幾つか言葉を交わしはじめる。
農耕馬の背を撫でながら、最近の調子を聞いている彼は、とても生き生きとして見えた。
屋敷に戻ったのは昼前だった。
靴の泥を落とし勝手口から屋内へ戻ると、執事が通りかかった。
王を探していたのだろうか。私を見咎めると、少しよろしいでしょうかと、彼を連れて私から距離を取る。
「何やら旅人に入れ込んでいると、瞬く間に噂は広がっておりますぞ」
そのお小言は私の耳にも届いた。届くような距離を測ってのことだろう。
ちらと向けられた執事の視線にたじろぎ、私は黙って立っていた。
「困りますな。王への謁見を願う者は幾らでも居られるのですよ」
執事は、僅かに片眉だけ吊り上げて進言する。
「特に商工議会の者達からの催促に困り果てております。軍務に情熱を傾けておられると、今までお断りしてきたのですから、私の立場も理解して頂きたく存じます」
言い終えたのか執事は一歩下がる。
「それをうまく捌くのがお前の仕事だろう。それに、その機会は設けた筈だ。それまでは好きにさせてくれ」
非難を聞いた彼は、苦笑いで言葉を返した。
そして、話は全て聞いた、これで終わりと意思表示するように、執事へ背を向け私の元へ戻る。
その瞬間、執事は背筋が凍るような忌々しげな表情で私を睨んで、苛立たしげな様子で去っていった。
「申し訳ないね。まだ私が頼りないせいもあるが、彼のお小言は習慣みたいなものなんだ」
「いえ、気にしていません。執事さんの心配するお気持ちも分かります」
私がそう言うと、彼は途端に冷淡な表情で私を見た。
「心配なことなど何もないし、どんな気持ちが分かるというんだ」
何か、気に触ることを言ってしまったらしい。悲しいような恐ろしいような気持ちになるが、それでも、これは誤魔化さずに言っておかなければと勇気を振り絞る。
「……旅人と、街人の考え方の違いや、溝の深さはご存知でしょう。距離をもって接するからこそ、うまく付き合っていけるのであって……」
彼はその続きを手で制した。
「いいんだ。事情は聞いたことがある」
彼も、少し気まずいというような表情を浮かべ顔を逸らした。
「私の我儘を通しているのは重々承知だ。だが、私にも色々と思うところがある」
次に意志のこもった顔で、彼に「お願い」をされた。
「出来るだけ不便なく、快適に過ごせるよう手配しよう。それでも君が居辛いというなら止める訳に行かないが。出来れば、この国へ留まる間は、ここへ滞在してくれないか」
つい先ほど、農地の領主と話していたではないか。今までは、滅多に話す機会のない旅人が珍しくて興味があるのだと。国を通り過ぎることも多いのだし、把握したいの気持ちは理解できる。
でも、と思う。どうして、そこまで気にかかるのかしら。
彼の中には興味以上のものがありそうに思えた。
もしかしたら、私と同じなのかしら。
不意に、不遜な考えが過ぎった。
伸び伸びと動き回れること、彼はそれを望んでいそうだった。
その身分から、決して叶うことのない自由だろう。
彼も幼い頃、旅人に憧れを抱いた一人なのかもしれない。
「あの、私はとても助かってますよ。こんな素晴らしい場所にならいつまででも居たいくらいです」
私は申し出を受け入れた。他に望むものなど既にないのだから。
真剣な面持ちだったはずの彼は、一転して言質を取ったぞとばかりに不適に笑うと、私の手を取り甲に口づけた。
真っ赤になっているだろう固まる私に満足したのか、また夜にと残して去っていった。
こんな子供みたいな面もあるのね。冷たい顔、真剣な顔、優しい顔、寂しそうな顔……たった数日で色んな彼を見てしまった。
胸をちくりと刺すような痛みは、その度に大きくなる気がするけれど。
そのまま呆けていると、コホンと、廊下際で佇んでいる人影が咳払いした。私の世話に付けられていた使用人だ。
慌てて取り繕うが、彼女は何も見なかったというように私を昼食の用意されたサンルームへと案内してくれたのだった。