第五話 ●波風
その夜、少々遅めの晩餐会が開かれようとしていた。
といっても彼と私の二人だけなので、会、と言うには寂しいかもしれない。
私は結局、食事に呼ばれるまで部屋で物思いに沈んでいた。
その事を頭から振り払い、今は目の前の幸運に目を向け、笑顔でいようと努める。
絵物語でしか見たことのない、何人も並べそうな細長い食卓が眼前に伸びていた。
その細長い端と端の席に、私と彼はそれぞれ着いている。豪華な額縁の絵を背にして彼が、使用人の入る扉の側に私。
私の作法など、所詮街人の中でのもの。途方もない難所に思えた。
いいえ旅人たるもの堂々と、ただ失礼のないようにとの心持であれば良いのよ。
そう言い聞かせても、どう使うのかよく分からない並べられた幾つかの食器類を前にして、微かに震える手を膝の上でぎゅっと押さえていた。
しかも先ほどまで旅人であることを悩んでいたというのに、今度は都合よく縋ろうとしていることも情けなかった。
ちらと、遠い彼の顔を伺う。眉間にしわを寄せているように見える。
やっぱり何かまずかったかしら。
「席を移る」
彼はそういうと、卓の角を挟んだ私の隣へ席を定めた。
使用人はぎょっとして、大慌てで彼の分を移動し配膳し直している。
驚いたのは、私のほうだ。
「少人数用の一室を指定したつもりだったが、忘れていたようだ」
それでも 彼の方が席を移るなんてとんでもないことだった。
「いえ、それなら私が移ります」
彼は私の腕に触れ、立ち上がろうとするのを制した。
「もう準備はできたよ。気を使わせたね」
そしてそっとグラスを握らせてくれる。
ああ、きっと震えているのがばれていたのね。
細やかな気配りは、そういった教育を受けてきたからだろうか。
それでいて、何かを決めれば有無を言わせずやりとげる。それも押し付けられた気もなく受け入れてしまう。
「この出会いに感謝しよう」
気が付くと、グラスは澄んだ赤みを帯びた果実酒で満たされていた。
いけない、ぼんやりしていたらひっくり返してしまう。
軽く互いのグラスを合わせると、慌てるようにして喉を潤す。
口当たりの良い、爽やかな風味が鼻を抜け、少しだけ緊張がほぐれる気がした。
すぐに料理が運ばれ、小さな重い蓋付きの鍋から香草の食欲をそそる湯気が立ち上る。
使用人は、それぞれの目の前にそれをおくと、蓋を外して下がった。
引き続き、パンの籠やら付け合せの豆料理など、幾つかの皿が置かれると、使用人は礼をして続き部屋へ去った。だが、いつ呼ばれてもいいように待機はしているだろう。
それでも、人目が無いだけで少しは落ち着く。思ったよりも空腹感は増しているのに気付いた。
口を開くのが恐ろしくもあり、早速料理を口に運ぶことにする。
鍋には鶏肉を炙ったものが収まっている。その塊をナイフで薄く切り取ると、平たく延ばした身を何枚も重ねて巻いてあると分かった。層の間にはこの地で採れる色とりどりの野菜が詰め込まれている。
外側には調味に香草が使われ、窯で炙られる内に底に溜まった水分でさらに煮詰められ、さっぱりしていながら濃厚な味わいであった。
もうこれだけで、人生で五本指に入るほどの驚きだった。
どうしよう、食べつけてないものをいきなり摂って胃がびっくりしないかしら。あまりの複雑な美味しさに、我が身が心配になる。
年配の旅人達にとっては、食道楽も目的の一つとなるらしい。だが、経験の浅い私には、まだまだ質素倹約が信条だった。
「こんなに美味しいもの、食べたことないわ」
素直に出た言葉だった。少し、素直すぎたかも。
彼は、面白そうにじっと私を見ていた。あの優しい微笑みと共に。
しまったと思いながら、気を取り直す。
「調理した者に伝えておこう」
彼はパンの積まれた籠から、幾つか私の皿に取り分けてくれた。
何か話そうと思いつつも、しばらく黙々と食べると料理を片付けた。空腹は満たされたが、気を逸らすことがなくなり途方にくれる思いがした。
使用人が現れ、食器を片付けると、新たに果実酒と付け合せを置いて出て行った。
今度の果実酒は濃く煮詰めたものだったが、やはり絡むような渋みはなく飲みやすかった。
いけない、味についてあれこれ感想をぶって逃避している場合ではない。
「その、素晴らしい食事をありがとうございます」
私はお礼を言うのがやっとだった。
彼も当たり障りのない会話をし、私は頷きながら半ば自棄になり果実酒を飲み続けた。
彼にとっては悪夢と言ってもよいだろう、食事をようやく終えて部屋へ戻る。
足元が覚束なくなっていた私の手を引いて、客室へと案内してくれた。
「すまない、君が疲れ切っているのを忘れていた。止めるべきだったな」
思ったより、あの果実酒は強いお酒だったみたいね。
結構飲めるほうだと思っていたけど、そうだった。疲れ切っている、その通りだわ。
怖かったり、緊張したり、こんな素晴らしい感情があるのかと打ち震えたり、自分の何もかもがわからなくなったり。
一日で、目まぐるしく世界が変わってしまった。
周りで起こったことだけではない。世界が何も変わらなくとも、それを受け止める私の心が変わってしまった。当たり前に思っていた一つ一つのことが、別の解釈を見せる。
新たな発見に喜ぶべきかもしれないが、時に知りすぎることは苦痛をもたらすこともある。
部屋につくなり、ソファへと埋もれるように座り込む。
じっと座って考えていれば、持て余している心も少しは宥められるかと。
ぼんやり考えながらも、目の前の彼から目を離せなかった。
彼は、咎めるようにそんな私を見下ろしている。
「そのまま寝てしまうぞ」
これは良い機会とばかりにうっとりと眺めていた。
どうしてこんな人がこの世に存在できるのだろうと。
「もう少し、あの料理を思い返していたくて」
適当な事で誤魔化し、にっこり微笑み返す。
ああ、また、彼は戸惑うような笑みを浮かべている。その表情も素敵だと思う。
すでに迷惑をかけるだけかけているのだ。今更、少しくらい不躾に見つめるくらいは数に入らないかも。
いいえ駄目よと、そんな我侭を払う。せっかく滞在の許可を頂いたのに一日でふいにしてしまうつもりなの?
先ほどの失礼をどう謝ろうかと狼狽える。
「よく食べるのは良いことだが。そうだな」
彼はそう言いながら、私の横へ腰を下ろした。
「その楽しみに少し付き合っても良いかな」
そういえば、彼は何か話をしたかったのではなかったかしら。
私は食事の間、気まずさを持て余し黙ってやり過ごしてしまった。
とたんに申し訳ない気持ちになる。
「ごめんなさい、私、招いていただいたのに碌な話もできなくて」
戸惑いながらも、隣に腰掛ける彼を見つめる。
「今がその時間だ」
彼は変わらず面白そうに言う。
「食事も楽しかったよ。驚いたり、食べながら幸せそうに微笑んでいる君の様子といったら、いつもより手の込んだものを頼んだ甲斐があったというものだ」
恥ずかしくて隠れたくなる。
自分では、うまく抑えていたつもりなのに、全く意味が無かったようだ。本当のところはどうなのか分からないが、皮肉には聞こえなかった。
単純だけれど、いつもより贅沢な料理でもてなしてくれたことが嬉しかった。
それにしても、そんな様子を見て楽しいというのが本当なら、単に私のような振る舞いの者など見たことがなかったのだろう。教養の差はいかんともしがたいと、複雑な気持ちに居たたまれなくなる。
せめて彼の興味事について話せることは話さないと。そう思ったのだが、うまく口が回らなかった。
「確か、旅人のことに興味がおありだったように見受けられました、ですけど」
彼は、噴き出した。
「普段通りで構わないよ」
ああ、もう。舌も頭も回ってないのは確かだけれど。時が経つほど、ぎこちなくなってしまう。
今日一日の私の行動だけでも、彼はきっと呆れ返っているだろう。何かをする、言う度に墓穴を掘っている気分だ。
また、とっさに謝ろうと彼に向かい合って気付いた。
見上げるように彼の瞳を覗き込む。
困ったような微笑はやや硬く、瞳には蝋燭の炎のように微かな熱が揺らめいているように見えた。
ただ、灯りを反射しているだけよ。そう思おうとした。
「すみません、私……!」
それは突然だった。
彼はふと黙り、目を逸らそうとするが、何かを決したような眼差しで向き合うと、私の顔をその大きな両手で包むようにして引き寄せた。
頬に触れる彼の手は、彼の瞳に浮かんでいた炎の熱さを証明していた。さらに唇はそれ以上の熱さに覆われ、痺れたように震えが走る。
そして、それは、あんなに絶賛していた料理達すら消し飛ぶほどの美味しさだった。
はじめは、軽く触れるように、次第に、じっくりと深く味わう。余りの感動に溜息が漏れる。
食べれば食べるほど、空腹に囚われていく、不思議な感覚だった。誘われるように炎が点り、私の胸の内をも焼いている。もっと欲しいと彼の背に腕を回して意思を伝えた。
彼も半ば、私に覆いかぶさるようにして返してくれる。互いに残る、果実酒の芳香を吸い込むように貪り合った。
あまりに夢中になっていて、ふと離された彼の唇に視線で抗議する。
相変わらず、彼は面白そうに私を見下ろしていた。
「何を話していたっけ」
彼は何を言っているのだろう。ぼんやりとした頭を振る。熱が散ってくれるようにと。
だけど彼が体を離しても、当分熱は去りそうにない。
「そんな目で見ないでくれ。今日は君を休ませる必要がある」
頭は冷静さを取り戻してきたが、頬は火照ったままだ。
その頬を、彼の手が撫でる。
今起きたことは、私の欲望が見せた幻だろうか。
「た、旅人について、知りたいかって」
耳に届いた自身の声は、物欲しそうに掠れていた。
「ああ、そうだったな。……何処へ行くのかわからない生活は、楽しいか」
彼は私の手を取り、甲に口付けしながらそう呟く。本当に知りたいのはそんな事ではないというようで、興味のこもっていない言い方だった。
彼の声も低く掠れている。まるで引き止めたいかのような、先ほどの続きを楽しみたいと惜しむ響きを伴っていた。
いいえ、そんなわけないのに。そうだったら良いのにという妄想なんだわ。そう我が身に言い聞かせる。
「ええ」
私は短く答えた。
心の中で、「ええ、楽しかったわ」と言い直してから、こう付け足した。
「あなたと旅をするのは、確かに楽しいかもしれないわね」
彼は「それもいいな」と嘯く。
ふと俯いた彼の顔は、悲しげに見えた。
それだけ言うと、彼は話は終わりだというように立ち上がる。その表情からは、先程の余韻もすっかり消えていた。
彼の手だけが私の唇の端に触れ、彼は眉を顰めた。
怒りが潜んでいるように見え、肩を震わせた。
「傷が出来ていたのを忘れていた、すまない」
彼の言葉に、昼間に殴られたことを思い出した。
おかしなことに、嫌な気持ちよりも、もしかして心配してくれたのかしらといった嬉しさの方が勝っていた。
「すっかり、忘れていたわ」
彼の口元は安心したように微笑を浮かべた。
そして、もう話は終わりだと有無を言わせないように、彼は私をベッドへ横たえると上掛けを顎までかぶせた。今度は振り返りもせず、蝋燭の灯りを消すと静かに立ち去っていった。
とたんに瞼が重くなる。今起こったことを考える余力など残ってはいない。
彼の気配が遠ざかるのを感じて程なく、私は深い眠りに落ちていった。
・・・
中央大陸北東端の街角に立って、辺りを見回している。
旅人は居ないかと、探して歩き回っていた。
それは、私が旅人になろうと村を出た後のことだった。
旅人となる決意をし、村を出た。初めて彼らを見た街へ向けて、大した持ち物もなく、ほとんど着の身着のままで。
どうすれば良いかなど知らなかった。どうにかなるだろうと安易に思っていたつもりもない。
どうせ食い詰めるなら、自らの意思で選びたかったのだと思う。
その街は、中央大陸北東地帯の出っ張り部分。人の集中する中央域から遠く離れた端の街でありながら、そこそこ人気があった。
理由は主に、こちらが「離れの陸地」と呼ぶ隣の大陸とを結ぶ中継地だからであるが、その行き方が特筆すべきものだった。
干潮時には、細く長い天然の道が浮かび上がるのである。
満月の夜などに月明かりに照らされたその道を進むと、まるで水の上を歩くが如く大層幻想的であり、街の者は「闇神殿の回廊」と呼び親しんだ。評判は各地にも知れ渡るところで、一度は訪れてみたい屈指の観光地ともなっていたのだ。
だからこそ、私は運よく旅人になれたのだと思う。
人の往来が激しいからこそ、常に旅人と接触する機会のある街だった。
彼らは一目で分かるなりをしている。
暗い灰色の外套を見つけると、片っ端から情報を集めた。
きっと頻繁に聞かれるのかもしれない。彼らは客商売でもあるし、およそ会話を拒むことはないが、旅人となるためとなると少し困った顔をし、口が重くなった。
もう日も暮れるころ、ほんの少しならと手伝ってくれる者があった。
私は行き倒れる日まで幾らでも粘る気ではいたが、切羽詰っていたのは確かだ。縋るようにその女性の差し伸べた手を取っていた。
やはりその人は生粋の旅人だった。まだ歳若く見えたが、佇まいは堂に入っていた。
やはり、というのは何か助言を超えた助けを施してくれるとしたら、いつも彼らだったからである。
街人由来の旅人も、仕事に関してならば助言もしてくれる。だが、着の身着のままの生活なのだから、取引なしの過ぎた親切は身を滅ぼしかねない。それでも、出来得る限りの協力を惜んでいるようには見えなかった。違いは、なるべくなら線を引いておきたいのだろう距離感だった。
どちらにせよ、人々の噂の中にある排他的な印象とはどこから来たものだろうか。
話す機会が増えるごとに、間逆であると感じていた。
助けてくれた旅人も、まずは私に何が出来るかを聞いて、適正がありそうだし、その技術の知識を交換してくれるならいいわと手助けをしてくれた。だけど、今ならそれは私を安心させるための方便だとわかる。それだけ惜しみなく、事前に必要な事を整える手助けをしてくれたのだ。
感謝してもしきれない。
惜しむらくは、彼女の施しがどれだけの事だったか、それを知るのは旅立ってからだったことだろう。
そうして、この街から旅を始めたことが、私の運命を決定付ける。
本来なら出身地である中央大陸から周るはずだった。
だけど、せっかくだからとその回廊を渡ることにしたのだった。
そして回廊を抜けた反対側の大地。「離れの陸地」と呼んでいる大陸を廻りきってから、中央大陸へ戻ろうと決めた。
大した技術があるわけでもないので、始めた頃は移動するほどのお金も貯まらなかった。
一つ進んでは、また前の国に戻り、小銭を稼ぐなどして地道に基盤を固めていった。
八年目、遂に全ての国を訪れる。最後の「荒波の上の王国」へ踏み入れた。
まさか、この地で旅を諦めることになろうとは考えもしなかった。いや、行くべき道が突然閉ざされ見えなくなったのだ。
こうして思い返してみると、全てがこの地へ来るために仕組まれていたようにさえ思えてくる。私に出来ることなど他にないというのに。手に余る状況に、否が応にも引きずり込まれていくようで、不安にそっと身を震わせた。
震える肩を自分自身でそっと抱える。
まるで、自分の体ではないようだった。
その理由はと考えれば、彼に抱きしめられた光景が浮かんでいた。
あのときに、私は、一人で歩く旅を手放したのだ。
この先どうなるとしても、今この身は彼の腕の中にある。