第四話 ●灯火
この事実をどう受け止めれば良いのだろう。
彼は、この国を司る王だった。
世界を彷徨い歩く旅人の私。
そんな身分の私などでは、どうあがいても釣り合うはずがない。一般の街人とですら深く関わることは問題とされるのに。
彼は、彼の大切な地を幾世代にも渡って守り抜く、根を深く下ろした、そして特別な街人なのだから。
今、彼は、私の青褪めた顔を見ているだろう。
床に落としてしまった視線を、戻すことができない。
その床にも、職人が腕を奮っただろう細やかな模様が編まれた絨毯があり、立場の違いから目を逸らすことは許されなかった。
目の前に立つ彼が、国王その人だとはとても思えない。思いたくない。
ようやく、この世で最も知りたかったことに出会えたと思えたのだ。彼が将校の一人だったとしても身の程知らずではあるが、せめても夢を見ることもできたのに。
しかし、国王となれば格別な話だった。
たとえ私が上流階級の出だったとしても、そう易々と近付くことなどできはしないだろう。
「自分でも向いてるとは思わないが、そんなに意外かな」
彼は呟くようにそう言うと、わずかに肩をすくめた。
その表情から、感情は読めない。
素晴らしい笑顔が消えてしまったことだけはわかり、胸が痛んだ。
「小さな国だ、大した権威などない。あまり恭しくされるのも肩が凝る。気にすることはないよ」
確かに王位を継ぐにはまだ若いだろう。半ば本気でうんざりしているようにも見える。
だからといって、いきなり気安くというわけにも行かない。
「でも……あの……」
気にするなと言われても、私は恐縮しきりで言葉を失っていた。
先ほどまで身分不相応な望みを抱いていたことを、記憶から消したいとさえ思う。
旅人も誰かを敬う気持ちはあるし、礼を失さぬよう街人の慣例を学んではいるが、立場はみな同じだ。
だけど街人出身の私には、その階級差をなんでもない事とはどうしても受け入れがたかった。
身分が高いから偉いなどと単純に思っているわけではない。その責任の重さを承知している。
辺境の小さな土地で偶然に一領主の仕事を垣間見た程度ですら、その把握し裁断を下さねばならない規模の大きさが、途方も無いものに思えたのを覚えている。
元々が下級の街人だった上に、身一つ守っていれば良い旅人となった私には、重すぎる枷にも思えていた。
何も言えずに立ち尽くしていると、彼は私の肩をそっと押し、壁際へと私を促した。書棚そばに、落ち着いた濃緑色のソファが置かれている。彼に導かれるまま、そこに座った。
それから彼は、サイドテーブルへ置かれていたティーセットを見て、手ずからお茶をカップに注いで私の手へと握らせる。
彼が戻ると使用人が用意するのだろう。カップからは熱が伝わり手の平が温かい。
先ほど彼は少し残念そうだといった表情だったが、今やその面には苦笑が浮かぶ。
ああ、どうしよう。困らせているんだわ……そう罪悪感に苛まれるも、身動きは取れない。夢が醒めてしまうのではと怖れていた。
緊張に固まっている私の隣へ、彼は気楽な様子で腰掛けた。
「そうだった。君はこの国のことをあまり知らないんだったな」
彼はそう一人納得したように頷きつつ、次にどう言ったものかと思案するように口元を引き締める。
わずかに逡巡すると、切り出した。
「数年前に父が病に臥し、後を任された。安心したのか幾日も経たずに亡くなってね。あまり父に付いて執務を学ぶ時間もなかった」
伏せられた睫の奥に垣間見える瞳は、北の暗い冬の海と同じように沈んで見えた。
その色に、胸の奥が我が事のように痛む。
「あまりに早い別れだったが……長く苦しまずに済んだのが幸いか」
そうは言ったが、自らを納得させるようだった。そう思うしか無い気持ちは、私にも少しは分かる。同じように父を亡くしたのだから。
「……尊敬してらしたのですね」
彼の口元はわずかな笑みを浮かべ、私の頬を軽く撫でた。
「君が悲しむことは無い。なぜこんな威厳の無い王かの理由を話しただけだ」
そう言うとやや態度を引き締める。
軽口のつもりだろうが、それは真実ではない。少なくとも私はその存在感に圧倒されている。
今も大切な話を聞かせてくれたというのに、何気なく彼が触れた頬が熱く、私はこんなに薄情だったかしらと戸惑っていた。
「ともかくだ、そんな経緯で細かいことは執政官達に任せ、私は軍で主に活動している。体を動かしている方が性に合っているというのもあるがね」
性に合っているからと言うだけで勤まるとは思えない。どうみても、彼の体付きは厳しい訓練に耐えてきたものだろう。
「だから、そう緊張することもないさ」
それだけ言うと彼から親密さは消え、そっけなく距離が取られたのが分かった。
さて、と彼は前置きし、別の話題に移った。こちらが本題なのだろう。
「以前より旅人に興味があってね」
なるほど、と納得すると頬が熱くなるのを感じる。
それで私を招いたのだと、納得がいった。
なぜ不意に出会ったばかりの私を、わざわざ自宅まで連れてきたのか。お詫びを兼ねてなどと理由を付けてはいたが、それにしては破格の待遇だということは理解できた。
それはやはり、王として知りたいことに違いなかった。
私は動揺を誤魔化せるようにと祈って、お茶を飲むことにする。
そうよ、彼の笑顔や、ときおり見せる親密さに深い意味などないのだ。目の前のことに集中しなくては。自分を叱咤しながら、彼の言葉に耳を傾ける。
「ここは大陸の南端で行き止まりと言っても良い場所だ。来るのに難しいことは理解している。これまでの来訪者はさして多くないだろう」
それでも、年々造船技術が進歩し、移動日数も短縮されていっているようで、徐々に人の流れも増えてきたのだそうだ。
単純に船数が増え、積荷以外の旅行者を乗せる余裕が出てきたことで、価格を下げることができたことも大きいのではないか。これまでも人を乗せてはいたが、空きが少ない上に高額にせざるを得なかったため、旅行者はそう多くなかったのだろうと話してくれた。
じゃあ、海を越えるには丁度良い時期に来たのね。
ふとそう考えたが、すでに旅を続けるどころでは無い自身の気持ちを思い出し、気を落とした。
「とはいえ旅人が、どこへでも訪れるというのは本当らしいな。定期的に見かけるそうだ」
彼は、何を言うべきかと考え込んでいる風に続ける。
「だが私にはゆっくりと会う機会は無かった。彼らは早ければ十日程か、長くとも大抵か一月もすれば出て行ってしまうらしい。恐らく大陸との中継地だからというのもあるのだろうが」
彼は微笑を浮かべ、眉をひそめた。
「そんなに見るべき所がないかな」
きっと若くとも国の為に頑張っているのだろう。
誇りを傷つけられたといった、そんな表情を見て虚を突かれた。緊張しすぎていたのもあるが、思わず噴き出してしまっていた。
「クスクス……ごめんなさい! そうではないの。彼らは短期間で出て行くものなんです」
思わず、「彼ら」と呼んでしまった事に動揺する。私もその内の一人のはずなのに、心はすでに偽ることをやめたのだろうか。
気を取り直して説明を続ける。
そもそも、各国とも不定住者に長く留まられても困るため、登録なしの滞在期間を定めてある。大抵の国は三ヶ月ほどだ。
だけど旅人は、そこまで待たずに移動してしまう。
向かう場所を決め、そこで何をするか目的を一つ定めるためだ。大げさなことではなく、広場で芸を披露するとか、その地の名産品を食べるなど大抵は些細な事だ。
そして達成されればそこを去った。
もし滞在中に気になることが出来たなら、次に訪れる際の指標となる。
もちろん、旅人全員がそうではないがと付け加えた。
彼は、感心したり相槌を打ちながら聞いていた。
「そうだったのか。一つ所へ留まらないと聞いて、てっきり同じ場所へは訪れないと思っていたよ。考えもしなかったな」
街で出会った旅人達が、この国の麦酒を気に入っていたと伝えると、彼は「そうだろう」と言わんばかりの笑顔で頷いていた。
この笑顔をいつまでも見ていられたら……見とれていたから私の心情を、彼は読んだのだろうか。
「しばらく、ここへ滞在して欲しい」
だから、そう告げられた時、時が止まったように感じた。
「貴重な体験談だ。各地の事もだが、旅人の生活について、もう少し詳しく知りたいんだ。人伝ばかりでは実態を捉えきれないものでね」
現金なことに、彼のそばに居られる事が嬉しくて他の何もかもを忘れてしまった。
君の目的がまだ達成されてないなら、と断りを入れてくれたので、問題ありませんと即答していた。
実際、まだだったのだが、達成していたとしても申し出を断らなかっただろう。
そもそも私は、何か目的を用意していたかしら?
もう他の何もかもがどうでも良いことに思われた。
「申し訳ないが、仕事が残っているので出なければならない。執務は隣の公館でやってるんだ。この屋敷内は自由に見て回ってくれていいよ」
また後ほど会おう――そう残し、彼は去っていった。
そして今、私のために用意された客室で一人へたりこんでいる。
この素晴らしい屋敷を見て回ってもよいという。
なのに、ふらふらと使用人の後を続いて部屋に入った直後から、ベッドに腰掛けたまま動けなかった。気が抜けて何をする気も起きず、呆然とするままにしていた。
本当にこれが私の行動なのかしらと思う。
今日一日全てが現実離れしている。
自分に起きたこととは思えない遠い感覚なのにもかかわらず、それでいて心の内には興奮が渦巻いていた。
目を閉じ、夢うつつの濁流のような感情に身を任せる。現実がどうであるかなどすっかり頭から消し去って。
やがて、荒れた感情が鎮まり目を開ける。
落ち着いた頭に思い出させなければならないのは、現実だ。
たんに彼は、旅人に興味があるだけ。私にではない。
分かっているわ。でも、話していれば、私自身の事を知ってもらえる筈よ。
知ってもらったからと、それからどうするのか。そこまで考えは至らない。
それに、人に話せるような、私自身が誇れることがあるようには思えなかった。
彼の家族の話を聞いたせいか、考えは子供の頃へと移っていた。昼間にも思い出していた、旅人となった切っ掛けをだ。
中央大陸の北を塞ぐように存在する、年中雪の帽子を被った大山脈。その東端に位置する山間に、ひっそりと存在する寂れた村がある。そこで私は生まれ育った。
ごつごつした岩山の合間合間に辛うじて平坦な土地が点在する村で、年のほとんどが寒い場所だった。
短い温暖な季節に、限られた土地を畑とし、村の者総出で耕し収穫していた。
一応、各土地の管理者はいたが、冬は一月ほど雪で覆われ外界から閉じられる地なのだ。分け合わねば生きることもままならない。
育てているほとんどが保存の利く根菜だ。冬は雪で煮込んだそれらを啜る。
常に畑に従事している者の他は一時的に手を貸すだけで、それ以外に何かしら生活に必要な仕事に携わっていた。
人々に階級は無いが、やはり差は出てくる。
少ない平地は畑なので村人は岩山に住んでいた。畑に近いところに管理者達が住み、外側、この場合は山肌の高い方へと順に建てられていく。畑への貢献度が家の建つ位置なのだ。
そして私は、村の中心からはもっとも離れた山肌で暮らしていた。岩の壁に張り付くように建てられた小屋に、家族は私と父の二人だけ。床は土の間で、囲炉裏で暖を取り干草の寝床で眠る。
父が農具の商いを細々と続けてはいたが、ほとんどは売るためではなく食べ物との交換だ。言うまでもなく貧窮していた。
私が十五を数えた年。雪は切れ目なく降り続き、食べ物を分けてもらいに出ることもままならず、それが二月ほど続いた。
満足な糧も得られぬ淋しい冬の夜に、父は過労で倒れた。
痩せ細った体は、いくらも温まる事がなく、間もなく絶えた。
辛さとは裏腹に、あっという間の別れだ。
あまりにも突然に、私は一人残されたのだった。
雪が降り積もる冬の間、じっとそれまでの事を思い返していた。
何度も繰り返される思い出は、いつも同じ場所でしばし留まる。
記憶の中にあったのは、小さな頃に父に手を引かれて初めて行商に出たときのこと。街の広場で見かけた、手品を披露していた旅人の姿だった。
手品に気を惹かれたのではない。
今まで当たり前に受け入れていた、見慣れていた村の繋がりやしがらみ。各々の役割は生まれた時から決まっている。それは生きるために必須である筈で、それまで疑問を感じたことなど無かった。
だけど目の前のその人は、それらとは完全に切り離されているように見えた。
それでどうやって生きていけるのか不思議で、たちまち好奇心は芽生えた。
それらの気持ちはずっと心の片隅に押しやっていたけれど、思った以上に手放し難い情熱であることに思い至る。自身が考えるよりも強い、呑まれるような欲求に狼狽し、自問自答し、やがて受け入れた。
父ほどの農具を修繕する技術や経験も無く、すぐには跡を継いで商いをする事も叶わずにいた私は、冬が開けると家を出ていた。
かくして旅に出た私は、籠などを作る為に藁を編み込むなどの雑役で路銀を稼いだ。
その内必要に駆られて、装飾品の細工技術や縫製技術など様々な技術を身につけたが、主に役立っているのは結局の所、元から身に付けていた道具作成の仕事だけ。
思い返すと、涙が出そうになった。
彼は旅人について知りたいと言った。
でも、生粋の旅人と比べたら、私に旅人の何が話せると言うのだろう。
目の前で突然開かれた、扉の向こうにある眩い世界。
その扉が閉じられるまでは堪能していたかった。
例え知らなかった時の自分には、決して戻れないとしても。