第三話 ●微睡
瞼の裏に、さらさらとした波の音が忍び込んでくる。
暖かい、優しいさざ波。
私、還ってきたんだわ。
暖かい腕に抱かれているような、優しい気分。
誰かの腕……。
私を包んでくれた大きな腕。
今は陽を受けて銀色に煌く灰色の瞳が、私を覗き込んでいる。
「どうして私、あなたが怖いだなんて思ったのかしら」
冷たい色をしていても、とても暖かい色を隠し持っている瞳。
「私はきっと、あなたの腕にずっと還りたいって、思っていたのに……」
ふいに哀しくなる。
私は、止まることなど出来ない、旅人なのだ。
雲の上を歩くような、地に足の着いていない生活。
なのに、あなたの側にいたい。
「あなたの、側にいたいの……いつまでも、ずっと」
白くまばゆい光が、開いた目の上で踊っていた。
開け放された窓の外から、波の音が絶え間なく優しい旋律を奏でている。
日よけ代わりに二重に取り付けられた、柔らかな白い薄布が、軽やかな風にたなびいている。
とても長い時間が経ったように感じていた。
だげと丸一日経ったようでも、まだ陽が落ちる気配は無い。
やがて意識がはっきりとしてきた。
ここは、一体、どこかしら。
私、どうしたんだろう。
横を向いた目の前の風景が、徐々に現実感を増していく。
「そうよ……私」
あの煌く髪の彼に、出会ったんだわ!
記憶の中にある薄い灰色の瞳から、何が起こったのか徐々に呼び起こされていく。
漁師達に襲われそうになったことも。
ああ、いやだ。
そんな酷い目に遭いそうになっていたなんて、信じたくない。
でも、無事だったんだわ。
彼のおかげで。
ふいに目の前が歪んだ。溢れたものが、目尻を滑り落ちていく。
一人で生きている自信があったのに、まるで何も知らない子供に戻ったようで情けなかった。不甲斐なさに目頭が熱くなる。
たまらない想いに胸が詰まり、とめどなく涙がこぼれた。
「水でも飲むか?」
やや低めだが、さらさらと通る声が耳に届いた。
射し込む光が人影に遮られる。
歪んだ視界でも、私を覗き込んだ者が誰かは理解できた。
「あなたは……」
私は、体をゆっくりと起こした。
頭の中が揺れるような感じがする。
今まさに思い出していた彼。
実物が目の前にある。
また別の想いが、私の胸にのしかかり、さらに涙が溢れた。
それをどう受け取ったのか、彼は私の頬を濡らす涙を、その大きな手で優しく拭ってくれた。
暖かい。
力強くて、とても安心できる。
何よりも、優しさを感じるわ。
不思議と心は穏やかに、先ほどまでの様々な想いによる興奮は宥められていった。
安らかな思いで一度瞬きすると、ほどなく涙は消えて名残だけを残す。
「落ち着いたか?」
そう言って彼が手を離すと、途端に心許ない想いに駆られた。
「……ええ」
そのせいで、弱々しい返事になってしまう。
私ったら、どうしたっていうの。
「辛いことだっただろうが、なるべく忘れるんだ」
彼は私の態度を見て、そう言った。
「なにを……?」
私は咄嗟に何のことかわからず、そう答えていた。
彼の困惑した表情を見て、私は見当違いな事を問いかけたと気付いた。
そうだった、彼は、私が襲われた事を言っているのだ。
彼の言うとおり、確かに思い出したくはない……けれど、なんてことだろう。私は、あんな非道な出来事よりも、目の前の彼によって動転させられている。
「可哀相に、まだ混乱しているんだな」
彼はベッドに腰を下ろして私の額に手を触れた。
その親しげな仕草に、また先程の安堵が訪れていた。
彼は誤解している。
私は確かに、あの事件を思い出したくないし、さっきは本当にすっかり忘れていたけれど、決して混乱しているわけではない。
多分彼の前にいると、この世界のどんな事でも忘れてしまうのだろう。
「もう安心していい。ここは王国軍宿舎内の治療施設だ」
王国軍……安心……?
「安心なんて、できない……」
私は、額に触れた彼の腕に自身の手を添えた。
彼の側ではない所なんて、どこにも安心は存在しない。
きっと、世界中どこを旅しても、こんなに心は満たされないだろう。
噛みしめた唇には、襲われた時の傷の名残があった。
でもそんな苦さすら、この人の前では洗い流されてしまう。
ずっとこうしていたい。
皮肉にもその気持ちが不安を呼び起こす。
旅人として生きていくには矛盾した想い。
逃げ出したくてたまらない。いえ逃げなくては。
最低限の保存食料を買ったら、船に乗って海の向こう側へと渡ってしまった方がいい。
そこで自分の考えに驚愕した。
追い求める為でなく、逃げ出す為に旅立とうと考えるなんて……。
私は悟った。
私の旅は、ここで終わるのだと。
この腕の中にだけ、私のすべてがある。
こんなに途方もない事が、誰か一人の人間の中に、存在しているのだと。
少しの間、彼は傍らに腰掛け、私の肩を抱いていてくれた。
痛いほどの胸の高鳴りも治まって、ようやく一息つくと渋々と体を離した。
「もう大丈夫です。落ち着きました」
体を見回すと、擦り傷は治療を受けて包帯が巻かれていた。
打った肘は多少痛むが、骨には問題ないようだ。
彼はただ頷いて立ち上がると、ちらとベッド脇の台を見た。
そこには、私の外套や鞄等が丁寧に置かれている。ゆっくり自身の体を見下ろす。
いつも着ている、飾り気のない薄い木綿の肌着一枚で横たえられていた。
その下は、同様の粗末な下着だけだ。
この国は温暖だし、どうせ外套で見えないからと軽装だった。
顔から肩までも火照るのを感じ、慌てて外套に飛びつき着替えをはじめる。
みすぼらしい姿を晒してしまった。今更だが恥ずかしい。
物珍しいのか、いや旅人の着替えなど珍しいだろう、彼は興味深く見ていた。
いや、職務上怪しい動きがないか見張っているだけなのだろう。
鞄も道具袋も全て身に付け終えると、居住まいを正す。
「あの、迷惑をかけてしまって、本当にごめんなさい」
彼は微笑みを浮かべ、なんでもないことだと言う。
「体調に問題ないようなら、少し話を聞きたい。いいかな」
そういえば、軍の施設だと言っていた。
彼の服装を見ても分かることだ。
事情聴取のため、私が目覚めるのを待っていたのだろう。
そう思うと何故か気落ちした。先程の彼の優しさは、私を早く落ち着かせるためだったのだ。
自分勝手な考えを振り払う。仕事の邪魔をしてはいけない。
私は、覚えていることを話した。
「状況は理解した。だが、まさか迷い込んだとは」
彼は、一瞬呆れたような顔を浮かべると、次に素晴らしい笑顔になった。
「観光船側から来ておいて、迷子になる者など聞いたことがない」
「ちょっと道を逸れたんです……」
彼の言葉に居たたまれなくなる。きっと真っ赤になっているだろう。
「いや、笑って悪かった。ここで生まれ育ってもいない者に、考え無しだったな」
彼は少し思案気に見せる。
「だが、そうだな。その道を逸れた辺りを思い出してもらえないか。慣れない者が来た時の為に対策を立てておきたい」
どうやら私をからかっているのではないらしい。道標を追加しておくと言った。
そして、報告を済ますのでこの場で待つようにと告げ、部屋を出て行った。
彼を待つ間、伸びをしたり、体をひねったりしてみる。特に違和感も無い。
道具の確認などをしていると彼は戻り、扉越しに付いてくるように言うなり歩き出していた。
慌てて追いかける。
似たような扉が幾つか続く廊下を進み、中程で外へ開いた戸を抜け、中庭を横切る舗装路をさらに進む。訓練中らしい兵士達の掛け声が聞こえる。
すれ違う者は敬礼をするが、彼はただ頷いて応えるだけだ。
かなりの階級なのだろうか。場違いな気持ちが膨れ上がる。今は何も考えないことにして、急いで彼に続く。
歩きながら彼は、軽く首をこちらへ回すと、私が思いもしなかった提案をした。
「詫びを兼ねて君を客人として招きたい。心配しないでくれ、食事の準備も言付けてある」
それは確認ではなく、既に決定事項だった。
門前には、黒塗りの馬車が待っていた。厳かな深い紫の艶を帯びた黒だ。上質な物だと一目で分かる。
御者も軍規定と分かる制服に身を包んでおり、扉の前で待ち構えていた。
敬礼しすぐさま扉を開いて一歩下がる。
居心地の悪さを感じて立ち止まっていると、それが当たり前だというように、彼は私の手を取り乗車を促した。
彼も私の後に続いて隣に乗り込むと、即座に扉は閉められ、馬車は軽快に進みだす。
乗合馬車ではとうてい味わえないだろう、重く静かな走りだった。
森を抜け、門をくぐると、また森を進む。そこを抜けると急にひらけ、新たに門構えが姿を現す。その向こうには大きな屋敷があった。
馬が一ついななくと、立派な門に側付けた馬車の車輪がその回転を止めた。
門柱の傍から、気難しい表情の初老の男が近付くと、恭しく頭を垂れ声をかけてくる。
「お帰りなさいませ」
飾り気は無いが、仕立てが良く動きやすそうな黒い衣服を身につけている。
御者は書類鞄をその男に手渡す。
使用人頭なのかもしれない。
「そちらの……お嬢様は?」
男の視線は、あからさまに不審げだ。
「旅人の娘だ。お前も知っているだろうが、旅人は名を持たない主義だ」
「無論、存じております、が……」
「客を晩餐に招くと伝えておいたろう。それが彼女だ」
私と男が同時に驚いた視線を向けると、彼は私の方を向いたが晩餐についての説明はなかった。
「彼は執事だ。屋敷の事は任せている。それじゃあ行こうか」
執事、屋敷……。耳慣れない言葉が私の心を乱す。
やはり彼は、上流階級の人間なのだ。
私達は無言のまま、美しい石畳の舗装路を室内へ向けて歩を進めた。
「今晩はここへ泊める。部屋をすぐに用意させてくれ」
「……御意」
慣れたやり取りが行われると、執事は屋敷の何処かへと消えていった。
「さあ、荷物はこちらへ」
「こんな荷物など、何でもないことです」
慌てて彼の申し出を断る。
私が肩から斜めに下げているのは、ずっと使ってあちこちがほころんでいる、麻の鞄だった。
防護服や下着の替えが二、三点入っているだけなのだ。
あとの幾つもの道具袋は、持ち運びしやすいように体に巻いたベルトへ全て固定されている。
「そんなに、ひ弱に見えるかな?」
彼は笑いながら言ったが、その反対だ。わざわざ運んで貰うほどの物ではない。
「……いいえ。あの、身の回りの物だけなんです」
私は、そのことに少し恥ずかしくなりながら首を横に振った。
ふと、私が意識を失っている間に、調べられているのではないかと思い至った。
余計に顔が熱くなるのを見て、彼は可笑しそうに口元を緩めたが、話を変えることにしたようだ。
「そうか。では、部屋の準備が出来るまで書斎で話でもしよう。ほとんどを、そこで過ごしているんだ」
彼の私生活を垣間見る事ができると胸が高鳴った。
長い廊下を歩いた。
壁には彼らの親族だろう肖像画や、この辺りを描いたであろう風景画が幾つも並んでいる。
一つ、奥まった部屋の前で立ち止まると、重厚な両開きの扉の片側を彼が開いた。
扉を開けて私に先を促す紳士的な態度は、強引な彼とはまた違った面だった。
足を踏み入れた途端、体が震えた。
壁に大きく掲げられた旗が、目に飛び込む。
そこには、丸盾を背に海蛇と隼の交差する意匠が描かれている。別の壁にも掛けられた、錨が浮き彫りにされている銅色の板にも同じ紋様。
大きな書棚を埋めるように並べられた、多くの貴重であろう文献。
思わず、大きな机の背にある床から天井まである大きな硝子窓へと近付いた。透明度の高い高価なガラスが、こんなに使われているのを初めて見た。
街の大きな店でも使われているのは、ざらついていて分厚く、くすんでいて向こうなど見えはしない。光を取り込むだけのものだ。
柔らかい乳白色のガラス越しに、今まで訪れた街の中では見たことも無い、簡素だが手入れの行き届いた庭園が広がっていた。
尋常な広さではない。
その落ち着いた美しさと荘厳さに、目を見張った。
部下を率いていたのだから貴族なのだろうが、ただの軍人の家にしてはあまりにも優雅な暮らし。
この国には、そんなに広い平地が余っているわけではないはずだった。
目の前にこれでもかと掲げられた証拠に圧倒され、血の気が引いていく。だけど、逃避したい気持ちを捻じ伏せ、勇気を振り絞ってその問いを口にする。
「あの、貴方は……」
ゆっくり部屋を見回していた私の目に、机の上のとある物が映った。
この国の、承認印。
遠目にも、そこに書かれている文字の意味するところは理解できる。
国王の名。
私はここが水の中だというように、大きく息を吸い込むと止めていた。