第二話 ●警鐘
いつもより早く目が覚めていた。薄く開けた小窓から、やや、空の向こうが白く見える。まだ日が昇る前らしかった。
ぼんやりしたままベッドに腰掛けると、鞄から乾燥した雑穀パンを取り出した。朝食用に昨日買っておいたものだ。
頭を働かせようと、ぼそぼそしたパンをかじった。
今日は何処へ行こうかしら。
そんなふうに、昨晩も考えながら眠ってしまっていた。
この町に来てからは、どこへ行きたい、なにを見たいといった明確な好奇心が薄れている。
全てに興味はあるけれど、それ以上に強すぎることに戸惑う。
なにしろ、ただ知りたいのではない。深く、知りたいのだから――。
ベッド脇の小さな木台から水差しを取り、木製のカップに注ぐと、喉につかえるようなパンくずを水で流し込んだ。どうにか食べ終え、考えをまとめる。
考え込んでいるうちに、すっかり日が昇っていた。
眠気をはらうように勢いよく立ち上がると、手早く身支度を終え、地図を手に宿を後にした。
埠頭に訪れ、喧騒を眺めながら歩いていた。
向こう大陸からの貨物物資が運び込まれ、活気に溢れるこの街の生命線。
街を海上から見る為の観光船が出航していたり、周囲に広がる港沿いの広場は市場となる。
ちょうど貨物船が停泊中だからだろうか。ひしめく積荷と、その間を行き来する船員や、商人らの姿も多い。
市場に辿り付いてみれば、客より店員や荷物の移動者がごった返している。
早朝から活動しているものという先入観があった。日も昇りきっていたのでちょうど良いと思ったのだが、あいにくまだほとんどの露店が準備中で大忙しだった。
この辺りは、日が長いのが関係しているのかもしれない。
邪魔をするのも心苦しく、観光船の乗り場へと向かうことにした。
観光船は、海岸の南端にあるこちらと、北端までを半円状に往復する。反対側の端から観光がてら、陸路を徒歩で戻ってくるのも良いかもしれない。
波止場へ着くと、始発便が出発するところで慌てて乗り込む。
観光には早い時間帯の割に人の多さが意外だったが、よく見ると乗客のほとんどは地元民のようだった。売り物のような手荷物を持つ者も多い。街中を歩くより早く楽で通勤に使われているのだろう。
眩しい太陽に目を細めつつも、美しい景色をたっぷりと堪能する。
さして、どこの街とも変わっているとも思えないのに、どうしてこんなに心が惹かれるのだろう。
それどころか、どの街と比べても荒々しく、そして退廃的にすら見える。
「えー右手の岬をご覧下さい。かの統一戦争の終結の場となった、神塔がございます」
船の端に立つ案内役の声に、自然と引きつけられた。
正しく言うなれば、その内容に。
この地を離れる前に、いくらでもこの国の事を覚えていたかった。
「多くの血を流しながらも、互いの合意の協定の元、一つの国として新たな道を歩み進めた我が国ですが、そんな危機を救ったのは二人の若者でした」
目を細めて見やると、岬の先、崖上のさらに高い丘の頂上。丸く生い茂った森の狭間から、僅かながら白く突き出た尖塔が見える。
「その英雄こそ、この国発端の海の領主の娘と、陸の領主の息子でした。二人は神塔で出会い、恋に落ちたのです。二人は力を合わせて両親や民衆に訴えかけ、醜い争いを集結に導きました。そしてあの神塔で、彼等の婚儀が執り行われたのです」
なんともロマンチックな物語だ。
実際は、ただの政略結婚だったのかもしれない。史実とは、後世の人々によって好きなように解釈されるものだというし。などと頭の隅で考えつつも、本当にそうなら素敵なことだろうと胸は踊った。
「えー次に見えますのが――」
あまりやる気のこもっていない案内役の語りは、その後も海側と陸側の説明が続いたが、ほとんどおとぎ話のようだった。
のんびり景色を眺めながら、真面目に聞き入る者もそうないのだろう。
反対側の港は、南側よりも静かだった。こちらは主に漁船の波止場のようで、生活の匂いがそこかしこに溢れている。市場も観光船周辺に点在するばかりだ。
私はさして精度の高くない、観光用であろう簡易の地図を取り出した。それを見ながら、歴史の跡地を訪れようと足を踏み出す。
そういえばと、先程の観光船の案内役の言葉が思い出された。
この国創世の現場を見ておくのは、良いことだろう。
足は、神塔へ向けて進路を取りなおしていた。
波止場を海沿いに南側へと戻るように移動していたが、途中を崖や森が遮っていた。道理で、観光船で移動する者が多いわけだ。
南側へ戻っていたのは、地図では、その途中に神塔のある森へ続く道があったためだ。
しばらく、木々の合間を木の根のような階段などを進む。頭上の木々の切れ間を見上げたり、低木の合間の見たことのない草花に見入ったりしている内に、岩場が多く、足場も悪くなった。
だけど自然の中にいると、自分も一体化しているように満ち足りた気分になれる。
この時点ではまだ、散歩の気分でいた。
ある岩場を逸れた木々の狭間に入りこんだ時、道に迷ったのだと気付いた。
道無き道を進み、歩いても歩いても、波の音は聞こえるけれど、入り組んだ崖に阻まれて海岸らしき場所へは到達できない。
ただ無言で歩きながら、道を探す。
簡易地図の説明書きを読み直して気付いたのだが、現在、神塔周辺への一般の立ち入りは許されていないとのことだった。
よく読んでおくべきだった。いや、読んだのは覚えているのだけど、近くに行くくらいは出来るのではと考えていたようで、強行してしまっていた。
それに遠目には、こんな入り組んだ場所には到底見えなかったのだ。私もまだまだ経験と心構えが足りないと反省する。
それにしても、この妙な焦りはなんだろうと思う。迷ったからというだけではない。
私はどうして、こんなに探しているのだろう。
すぐ引き返せば……いや、すでに引き返す道もわかりはしない。
胸にわだかまっている焦燥感が、急に膨れて大きくなった。
私は、何かを求めている。
この街に、自分自身に、そして何かに……それとも「誰か」だろうか。
いいえ、私は、旅人なのよ!
頭のどこかが、私の心を責めるように叫んだ。
生まれ故郷を捨てて旅人となった。選んだのは、自分の意志だった筈だ。
切っ掛けがどうだったとしても。
掻き乱された心が悲しい思い出を呼び起こす。
街人である事を捨てたとき、私はまだ成人もしていない、右も左も判らぬ人間だった。
父と二人きりの生活だった。
貧しさに父が倒れ誰にも助けを求められず、私は村も、父が守ってきた場所も振り返らずに出てきた。
そのはずなのに、不意にそんな生活から抜け出すことになった時のことを、未だ振り切れていないのかもしれない。
だとしても、私は、運命に感謝しなければならないのだ。
狭く小さな世界にいた私が、大地を自分の足で踏み越えている。
そんな、旅以上の、何を求める必要があるというのだろう。
頬を、風が撫でた。
少し湿り気のある暖かな海の風は、冷えた私の心に足りなかったものなのだろうか。補うようであり、人生に欠けているものを示唆しているようにも思えた。
頭を振って、物思いから覚める。
考え込んでいないで進まなくてはと、私は涼やかな森の中を、また歩き始めた。
日が高くなっている。
森の中の薄い道筋は、ぐるぐると回るようにあった。
ようやく抜け出た場所は小さな入り江。楕円形の岩壁に囲まれた天然の港のようだ。
ぼろぼろに朽ちかけた木の小船や、櫂、網などが辺りに無造作に積まれ、何艘かのあまり手入れのされてないと思しき小さな漁船が停泊していた。
人気はない。
人界とは隔離されたようなその場所に、船だけがあるのは非現実的にも見える光景だった。漁を終えた後は、こういうものなのかもしれないが、私は見たことがなかった。
私は諦めてここを観光しようかという気分で、さらに海岸沿いを歩き始めた。
入り江沿いの岩壁を超えると、森と岩場の中に未整備ながら細い道がある。まるで何かから隠されたような、藪の合間を進む。
そこへ、向かう先から声が聞こえてきた。
やっと人のいる場所に出くわしたようで、私は安堵の息を吐きそちらへ向かおうとした。
複数の男達のがなり声が、辺りに木霊している。
その為、曲がりくねった道の向こうにどれだけの人がいるのか、予測できなかった。
ついに遭遇した時、私は後悔した。
肌は真っ黒に日焼けし、髪も日に焼けて精彩を欠いている数人の若い男達は、姿と釣り具などの手荷物で、先程の漁船の持ち主なのだろうと想像するが、ギラギラとした目は異様な空気を帯びている。
一見彼らは、食べる分には十分だろう量の魚を運んでいる風体だ。
だけど、こちら側に港はあるのだ。
彼等と目が合うと一瞬お互いの動きが止まり、空気が張りつめた。
「あの、こんにちは……」
怪しいものではないと言いたくて、私は先に声をかけていた。消え入りそうな声は、自分でもわかるほど震えている。怪しいのは、どちらだろうか。
頭のどこかで、警報が鳴り響いていた。
今までも、ごくわずかながら幾度か聞いた音。
何かしらの悪い行いに手を染めている者特有の警戒の仕方に見えた。
体まで震えそうになるのを、ぐっと力を込めてこらえ、わずかに後ずさりながらもさらに声をかける。
「観光していて、道に迷ってしまったんです」
今度は、もう少しましな声だった。
話しかけると、男達は訝しがりながらも捲くし立ててきた。
自分達の縄張りだと思い出したのだろう。
「まさかこんな所で女と会うとはなぁ、たまげたぜ」
「どっから紛れ込んだって? 普通こんなところまで迷うかよ!」
下卑た笑い声が耳障りだった。
私は彼等の歩みと同じく後ずさったが、今登ってきたばかりの岩場につまずいた。
体勢を立て直す暇もなく、私は男達に囲まれていた。
「おいおいなんで逃げるんだ? 情報屋とかじゃねーだろな」
「そうだったらやばいぜ。どうするよ」
男どもは、勝手な事を言っている。
「私は道に迷っただけよ。お願いだから、街へ戻る道を教えてちょうだい!」
私は恐怖に混乱し、力を入れすぎた為か半ば叫び声になってしまう。
男の平手が思い切り私の頬を捉えた。鋭い音が耳から頭に反響する。
私は地面に倒れていた。腰を打ち痛みに体が痺れ、目の前がチカチカとする。
こんなとき、どうすれば良いかなど頭から消えていた。
「女の声はのーみその奥まで響くんだって」
「おい、こんな事してる場合か。波が来ちまうだろが」
「わかってる。偉そうに言ってんなよ」
みるみる男どもが殺気立っていく。
どうも、焦っているのは私だけではないらしい。
私はもがくように、後ろへ後ろへと下がろうとしていた。
「おい……こいつ、旅人じゃねえか?」
「まさか。そんなのがこんな所に何の用なんだよ」
「んーおまえ旅人か? 答えろ」
私はひりひりする頬を押さえながら、なんとか頷いた。
だけど私を殴った男は、不吉な笑みを浮かべてこちらを見おろす。
さっきまでの視線は、さらに不躾なものに変わり、せわしない動きから、じっとりと張り付くようなものに変わっていった。
「うへへ」
「気色悪ぃ、何笑ってんだ」
「わかんだろーよ。旅人っていやあ、だーれも知り合いがいないんだぜ。こんな美味しい話はねえよな」
そう言って男の手が、胸に伸ばされる。
もう冷静な判断は出来なかった。
「は、離しなさい……」
叫んだつもりが弱々しく最後は音にさえならない。
口の中を切ったのか、苦い味が口に広がっている。
いやらしく垂れ下がった目に、にやりと吊り上がった口元はおぞましく、私の心に深い傷を残す事は間違いなかった。この後生きていたらの話だが。
「後にしろ、時間だつってんだろ」
「どうせこんな所にいる怪しい奴だ。逃がせるかよ」
「なら連れていけ」
男は片手で軽々と私を抱えた。
腹が押し潰されて息が苦しく、抜け出せそうにない。もがいていると意識が朦朧としてきた。力が入らなくなり目を閉じた時、地を這うように重い音が辺りを振動させた。
男の一人が、弾けるように岩場へ駆け寄り、岩陰から入り江を見下ろす。
「おいっ、い、入り江に……」
振り返った男の顔は、狼狽のため引きつっている。
もう一人が岩場を覗くと、途端に叫んだ。
「あの印は……軍の船だ! まずいぞ俺達の船が!」
「クソッ! 一体、どうやって嗅ぎ付けやがった!」
「ひぃっありゃやばい、逃げようぜ!」
男達は私を放り出し、慌てて辺りの手荷物を掻き集める。
「お前も来い……うがああっ!」
私を掴もうと手を伸ばした男の指を、今度は思い切り噛んでやった。
また殴られると体を強張らせたが、男は腕を振り切ると逃げ出した。周囲から別の音が近付いてきたためだろう。
体を起こす力は入らない。自分でもどうにもならないほどに体が震え、うまく動かなかった。
どうにか、はだけた胸元を掻き合わせることができただけだ。
「助かった、の……?」
そのまま動けずにいると、男達が逃げた先から叫び声が聞こえてきた。
争うような叫び声は、すぐに静かになり、こちらへ歩いてくる複数の足音に変わる。
その先頭が、姿を表した。
将校だろうか、後ろに数人の男を従えた若いその男は、他の兵とは一線を画した品の在る制服に身を包んでいる。一般の兵が、暗く色褪せたような落ち葉色の生地で統一されている中で、彼の落ち着いた若草色の生地に白の縁取りが映える制服は、厳しい印象を和らげるものだ。
しかしその眼差しには、誰よりも圧倒する鋭さがあった。その一瞥で、たやすく大勢の心を捉え、誰もが従ってしまうような威圧的な視線。
その男は土の道を重いブーツの底で鳴らしながら、私の目の前に来ると、その冷たい目で見おろした。
背後は入り江へと抜ける崖の際であり、木々も途切れ、よく光が当たっている。
彼の瞳の色がよく見えた。
明るい、灰色の瞳。
目にかからないよう短く揃えられた、白く輝くような髪。
けれど影の落ちた首元の髪から、卵の殻のように柔らかな黄色だと分かる。
日差しを正面に受けて白く輝いて見えるのだろう。
なんて美しい金糸のような髪だろうと、眺めていた。
周囲に人がいることすら忘れて、見下ろされた視線に絡め取られる。
表情のない彼の瞳は見透かすように鋭く、途端に私は、いたたまれないほどの不安に覆われた。
先程自分を襲った不運な事故さえ、霞むほどの不安だった。
私の存在が彼の前であまりにも小さく、揺らいで見える。
全身の震えは別のものに変わっていた。
「任務完了しました」
背後で声が聞こえた。
気が付くと背にしていた岩壁のそばに、入り江から入ったらしい数人の兵が現れていた。兵は報告を続ける。
「やはり被害届の出ていた物品がありました」
報告者以外の背後の兵達は、チラリと私に視線を投げると無機質で訓練された行動で、私を連行しようと肘を掴んだ。
「くっ!」
掴まれたところを激痛が走った。
擦り傷の出来ているらしい肘の辺りが、骨から軋むようにズキズキと痛む。石にでもぶつけたのだろう。
「分かった。被害者はこちらで預かる」
「被害者、ですか? しかし、このような場所にあの輩と居たのですから……」
部下であろう男は、困惑しながら私を見下ろしつつ言いかける。
その声を聞いてはいないように、陽に輝く髪の男は私の体に自らの上着をかけ、そのまま包み込むようにして抱き上げた。
厚い生地の上からでも分かる、硬く引き締まった体。
私を抱えていながらでも、その足どりにぶれはなく、大地と共に歩む力強さを感じさせる。実力に裏打ちされた自信の表れだろうか、鷹揚に構えているようでいて隙はない。
いとも簡単に成し遂げる彼の腕の中に、空のように広く、海のように深い安らぎを感じた。
だけど、その気持ちに反して、先ほどの耐え難い不安がぶり返す。
彼の触れたところから、全身を震えが突き抜けていた。
彼から離れなければ……でも、どうして?
そんな自身の気持ちに戸惑い、あの漁師達と出くわしたときとは違う、警告音が響いているのに気づいた。
それは初めて聞く音で、私には何を意味しているのかわからなかった。
混乱しているのに、頭の芯まで冴え渡っているように矛盾した感覚。
気が付くと、聞こえるのは自分の鼓動と乱れた呼吸だけだった。
目の前が混濁とした波に呑まれていく。
遠いところで、案ずるようにかけられた声が聞こえたような気がしたけれど、掠れて遠くなっていった。