第十四話●紅潮
朦朧とした意識の中、聞き覚えのある不快な声が過ぎった。
「無礼者、野蛮な手をお離し!」
「その女の言い逃れに過ぎんのだ! 何をする兵風情がっ、私は、王の屋敷を任されているのだぞ!」
その後、よく知る、冷たくとも好ましい声。
「確かに面会の機会を設けるとは言った。だが、婚約披露などを許可した覚えはない」
王の静かな怒りを含む、よく通る声だ。
「そして、お前に私の行動を如何する権限は初めからない」
うっすら戻った視界には、多くの人が其々の仕事をしている姿が映った。鎮火した塔から、中の荷物を運び出している者、辺りを警戒している者。そして、不審者を捕らえている者。
捕らえられている中で、見知った者を眺める。あれだけ暴れ、私と共に煙を吸ったろうに、未だ手の付けられない傲慢姫と、惨めな言い逃れをしている執事。
「執事は……どこかへ出かけたんじゃなかった?」
誰にともなく呟いた言葉に返事が返ってきた。
「ここへ来る途中で出くわしてね、ひとまず連れてきたんだよ……目を覚ましてくれて良かった」
はっとして見上げる。
大好きな灰色の瞳。木陰で、少し紫の影が差している。いつもの悪戯っぽい色はなく、不安そうにも見えた。
「心配して、くれたの?」
「当たり前だろう」
「でも、私、勝手に、出て行ったのに」
「その言い訳は、後でゆっくり聞くよ」
彼は疲れたような微笑を返してくれた。
後で――私にそんな機会を貰える資格はあるのかしら。
しっかりと抱きしめてくれている、彼の腕の温かさに涙が溢れた。いつも、ここだけが安全な場所なのだ。
このままだと、また治療施設にでも連れて行かれて彼と話す機会はしばらく無いかもしれない。
彼に今、私の聞いたことを伝えなければ。
「お願い、聞いて欲しいことがあるの。酷い話だけど」
強い決意を込めて彼を見つめた。
私の意志を受けて、彼は真剣な面持ちで黙って頷いた。
「あの人、姫君が言っていたの。あなたのお父様の意識が曖昧な中、許婚とするよう言い含めたって。そんなことを楽しそうに……」
言いながら涙がこぼれた。
彼は目を細め、慎重に聞いている。
「信じてくれなくてもいいの。ただ私は……」
口にして思った。なんだか、自分が有利になるように人を貶めているみたい。
歯がゆさに唇を噛んだ。
それでも、と続ける。私の事はどうでもいいのだから。
「ただ、あなたを騙して、傷付けるようなやり方を許せるもんですか!」
怒りから高まる声を抑えられなかった。
縋るように見上げる私の言葉を制するように、彼の指が静かに私の唇に触れた。
「……君は、なぜそこまで私を」
そう何かを言いかけて、彼は、ふうと一息つくと、諦めたように続けた。
「ずっと考えてはいた。父がなぜそう遺したか。何かを押し付けて終わり、という人ではなかったからね」
考え込むように、一拍置く。
「確かに、この国の為には、あちらの流通経路を押さえることは不可欠だ。相手はこの国との交易に重要だった」
「重要、だった……?」
彼は、厳しい顔で言った。
「この国での違法な行為を見逃しはしない」
違法行為。やはり、姫とその父、そして執事もだろうが、何かが起こっていたのだ。
彼は、口調を変えると話を戻した。
「どちらにしろ、もう父の意思はどちらでもいいんだ。君に会った時には消し飛んでいたのだから。薄情と責められる覚悟もできていたよ」
最後は笑いながらだったが、眼差しには誠実さが込められていた。
何も言えずに押し黙ってしまったところを、兵の一人が現状報告をし会話は遮られた。彼は一部の人員を残し撤収することにしたようだ。
私は抗議する理由もなく、抱きかかえられたまま彼の屋敷へと運ばれた。
煤汚れた私は、抵抗する間もなく使用人に着替えを手伝われ、何故か彼の寝室に納まっていた。
今こそ彼が与えてくれた、私が言い訳する時間だ。
なのに、沈黙を破ったのは彼のほうだった。
「君が出て行ったと聞いてから、どれだけ心配したか!」
彼が私の手を取る優しさとは裏腹に、心配の言葉は強く響いた。
「あなたの変わりに出て行くよう伝えろと頼まれたって、執事に言われたの。ごめんなさい、そんな無礼なこと信じてしまうなんて」
出て行った状況を伝えると、なんてことだと項垂れた。
彼の顔は強張っていた。執事は、小狡さはあれど、仕事に誇りを持ち尽くしていたと思っていたのだ。
だが、下手に仕事を捌けた分、己の力量を過信してしまったのかもしれない。王家への踏み込んだ善意を許されていたことが、野望へと変容したのだろう。執事は、影で国の方向を決定付けるという権力を手にしたと酔いしれているようだった。
「でも改めて考えてみたの。追い出すにしても、あなたはあんな風にするかしらって。だから、思い切って戻ってきたの」
「君が私を見限らなかったことに感謝するよ」
彼は心底安堵してくれている。
不思議なことに今は、それがすんなりと受け入れられた。
私達は話す間ずっと、互いの手を握り合っていた。話している側から消えてしまわないようにと。
そして、彼は私が執事に追い出されてからの事、主に起こっていたことを話してくれたのだが、その内容に驚くことになった。
軍の突き止めた盗難組織の背後関係は多岐に渡っており、主導者は向こう大陸の重要な取引先だった。
失踪した私を探したいが、犯罪行為の関係者を炙り出すための計画遂行の日でもあった。姫の為の会も執事の思惑とは関係なく、この日に合わせて目眩ましと商人達の足止めに開催したものだったそうだ。
計画は、翌朝出立する貨物船等の行動を制限し、早朝未明より抜打ち検査という名の強制捜査を行なうことだった。
陸側の道も封鎖し乗合馬車も行き来できなかったため、彼は私が街にいるなら海を越える筈、ならば捜査中に見つかると踏んで耐えたのだと聞かせてくれた。
検査日時は、極上層部のみ通じていた者に知らせた。港湾関係者には知らせていないので、ここで動く者を注視していたのだ。
姫の父、商工議会や交易路関係者の一部が証拠隠滅に動いて、内部の引導者共々芋づる式に捕らえることができた。
とぼける姫の父らに、船倉から出た違反の積荷や盗難への関与について取り調べたが、この時に私が伝えた『波』の暗号についてもほのめかし、誘導尋問に引っかかったということだ。
そして姫の父は船中に潜伏して、雇った漁師もどきらに事件を起こさせ軍の目を引くと、手下に物資の独占、横領、横流しといった事を企てさせていたことを白状した。
彼は後始末を部下へ任せ、挨拶だけでもしようと屋敷へ戻ると、開催責任者の執事や主賓のはずの姫がいない。そして、使用人に私の帰還と失踪を再び告げられ混乱したらしい。
しかし彼は、事件の範囲基点が神塔であり、二人で訪れた時の塔の状態に思い至る。
建築物の点検は頻繁ではない筈が、扉は何度も開いた形跡があり、手入れはあまりにも行き届いていた。その手入れの良さを不審がってのものだった。
「すぐに塔へ向かったのは正解だったよ」
ぼや騒ぎの後、神塔の隠し部屋から国内の隠蔽の証拠となる重要書類の一部が見つかったからだ。内陸への手引きは、神塔で行われていたのだ。姫には確かな後ろ盾である証拠として、あの場に代理できていたというわけだった。
これで、執事の関与も言い逃れ出来ないものとなったという。
姫を嫁がせることも、そうすれば引き続き国を自由に出来ると画策してのことだろう。燃え尽きる前で本当に良かった。
多くの重要な地位の者が、一網打尽となったわけだが、奇しくも催しに集まった者達は、全うな商人達だと篩いにかけられたわけだった。
彼から事の顛末を重ねられるたびに、私は地面に沈んでいくような思いだった。
「あなたがそんな大変な時に……私ったら、ずいぶん自分勝手だったのね」
彼は私がうじうじしてる裏で、大変な思いをしていたのだ。
また、涙で目の前が霞んでいる。情けなくて仕方がなかった。私は、いつからこんなに泣き虫になったのだろう。
「泣かないでくれ、これは私の仕事だし、君に心配をかけたくはなかった」
「……でも、でも私は、あなたの居ない世界なんて意味がないし、誰よりも愛しているの……それなのに。会った日からずっと、迷惑ばかりかけている……」
溢れる涙を両手で拭いながら話した。
彼はその濡れた私の手を優しく両手で包んでくれた。
「逆にこちらが問いたい。本当に私で良いのか。私は、君が思っているような、清廉潔白な男とは言いがたいよ」
「そんなこと……!」
優しい目で、じっと見つめられると何も言えなくなる。
「私は、君に恩を売ったことで、無理に屋敷へ留めたんだぞ」
それは、初日に、屋敷へ招いてくれたことだった。
あの時から、彼は、私を引きとめたかったの?
「出会った日に、気を失っている君を見ながら、旅人の暮らしというものについて思い巡らしていたんだ。それまであまり深く考えたことは無かったからね」
森で気を失い、彼が治療施設へと運んでくれたときのことを思い出す。
「それで不意を付かれた、というのは言い訳だが」
やや苦笑しながら言う。
「君は目覚めたと思ったら、夢見るような目で私に愛の告白をしてきた」
その言葉に驚いて思わず呟いていた。
「こ、告白……!」
詳しく思い出そうとする。確かに、私はあの時から既に彼の事を頭から追い払えなかった。
でも、どうにか誤魔化していたと思っていた。本心が口に出ていたのかしらと慌てる。
そんな私の様子を、今はいつものように面白がることもなく、暖かい眼差しで見下ろしている。
「いや、告白だと私が思いたかったのかもしれない」
いやだわ、私ったら何を口走ったのだろう。
「君は、私の側にいつまでもいたいと、言ってくれたんだ」
ぼんやりと思い出した。
『あなたの、側にいたいの……いつまでも、ずっと』
確かに、そう思った。
「だが、正直、私も目を離せなかった。それだけ魂を揺さぶるような瞳だったよ」
まさか、口に出していたとは思いもしなかった。
「あれは、夢だと思っていたのに」
恥ずかしさで、膝を握り締める。
「それだよ、まさか寝ぼけていたとは! 面食らうというのはこのことかと思ったな」
私は赤くなったり青くなったり百面相をしていただろう。
もう顔を上げられなかった。
彼は笑いながら、そっと私の顎を持ち上げ上向かせる。
「大胆なのか臆病なのか……それから、君をもっと知りたくなった」
彼は、そっと私の目頭に口付けて、そして……。
「君は、私の腕に囚われたと言ったね。だが、君の瞳が私を捉えたんだよ」
***
危うく焼け死ぬところだった日から、私は彼の寝室に住み着いている。
あの後、膨大な事後処理に時間を取られ彼とはなかなか会えなかったが、心は満たされ平穏だった。
あんなに焦れた気持ちはなんだったのかというくらいだ。
その間に使用人達から、この国での振る舞いなどを学ぶことも出来たのだから、良い機会だった。
そして、大きな仕事は一段落した彼と、久々にゆっくりと過ごしている。
「あの時は、ひやりとしたよ」
「あの時って?」
「君が、全身を煤だらけにして神塔の部屋から転がり出てきた時だ」
なぜだか、微笑みがこぼれた。
そして涙も、こぼれそうになる。
「そうね、あの時は本当に、あなたに会えなくなるんだと思ったわ」
「そうじゃないだろう。君は焼け死ぬところだったんだぞ」
「だって、もう死ぬ覚悟は出来ていたもの……」
彼は、しばし目を細め、まったく不愉快だと言わんばかりに口元を歪めた。その一瞬に様々な感情が交差したのが見て取れる。
そしてゆっくりと口を開いた。
「……まあ、生きていて何よりだ」
「そうね。本当に良かった。生きてあなたにもう一度会えて、そしてあなたが無事で」
「もうわかったよ。私は無事だし、君も無事だ。そして問題も解決した」
私は、彼の淋しそうな背に、顔を寄せた。
「……残念だったわね。信頼していた人が、あんなことになって」
執事は、国に多大な不利益を払うところだったのだ。
といっても本人に背信の意識は無かった。元々心に秘めていた欲望を煽られ利用されていく内に、狂っていってしまったのだろう。
「君と出会ったおかげで、私は幸運を手に入れたといっていい」
「それは私の言葉だわ。あなたのおかげで、いつも見る景色がいつも以上に美しいと感じるの。奇跡の連続だわ」
「では先祖方が引き合わせてくれたのかもしれないな」
彼は私の手を取り、甲へと軽く口付けた。
「それにしても惜しいのは、折角着飾った私を見てもらえなかった事かしら」
「君は服がなくとも綺麗だよ……いや、裸の方がより美しい」
彼の瞳に官能の色が滲む。
今はその瞳に浮かぶ情熱も信じられる。
だが、素直に受け止めるのはまだ慣れない。
「酷いわ……私はドレスにも劣るのね」
私は彼の言葉に赤くなりながらも、その官能を受け止めた。
次第に、声が掠れていく。
二人は自然に口付けを交わした。
初めてそうした時と変わらないように。
もしくは、それ以上に――。