第十一話●祈り
執事に問い詰められた後、それでもどうしたものか決めあぐね、一旦部屋に戻ろうと別の廊下を進んでいた。
出て行くか、出て行かないのか。出て行くしかないのでけれど……出て行くなら、何時どんな風に?
辺りををぼんやりと、何処を見るでなく視線を彷徨わせながら、埒の明かない問答を繰り返す。そうしている内に、突然何か閃くのではないか。そんな微かな期待を抱いて。
既に幾度か吟味した、等間隔で並べられた絵を心あらずで追いながら、長い廊下を玄関ホールへと進む。玄関を通り越して、さらに向こう。廊下の奥に、私へ割り当られている客室があった。思った以上に徘徊してしまっていた。
そこで見覚えのない部屋に気付いた。玄関脇にありながら、今まで閉じられていて踏み入れたことのなかった、白く塗られた一際華やかな扉。そこが大きく開放されているのが目に留まっていた。
ついその部屋の前で足を止め中を伺ってしまう。そこはそれまで見たどの部屋よりも広く開放的だった。どうやら舞踏ホールのようだ。
たが赤いテーブルクロスのかけられた丸いテーブルが、両端に等間隔で幾つも置かれて、ダンススペースを狭めている。
さらに狭めているのは、上座に据えられた長テーブルと挨拶用の台座だ。長テーブルには、金色というよりは黄色に近い重そうなクロスが掛けられている。
見覚えのある男が、せわしなく目をギョロギョロとさせ、丸いテーブルの間を練り歩いているのが見える。
執事だ。
私は、見つかるのを怖れてゆっくりと来た道を戻った。
「泥棒じゃないのなら、こそこそと歩き回るのはやめていただきたい」
彼の目ざとさは、並ではないらしい。
「ごめんなさい、邪魔になってはいけないと思ったものですから」
私はなるべく愛想良く振る舞ったが、執事の私を見る目は相変わらず冷酷だった。
「厚かましくも、まだ居座っておったのですな。長いこと野晒しにしていると、面の皮も丈夫におなりのようで」
執事にとっては、先程の一方的な警告で、出て行くことに同意したものとなっていたのだろう。本当は、私も良く分かっているのだけれど。頭と、身体が別々な生き物のように反発している。
「王も優しいお方ですので、あてにしているのかもしれませんが。そういった心に付け入るなど醜悪なことですぞ」
段々と語気が荒くなる。
「言っておくが、明日はその野卑な面を部屋へ引っ込めておいていただけますかな。国内外からの有力者にとって、それはもう大切な懇談会の予定がありましてね。身分の足りない方には御遠慮願いたいのですよ」
あからさまに煙たがっているのには、そういった理由もあったのね。
何やら私についてあらぬ噂も立っているようだし、といっても幾つかはただの噂でもなくなってしまっただろうが。確かに私が居れば、本来なら胸に収めておく事とて、興味本位で聞いてくる者も出てくるだろう。
「なんなら、磯臭い港町でもご覧になればいかがですか。不本意ながら、貴女がお出かけの際は馬車を御用意するよう言付かっております故」
「そ、それも良いかもしれませんね。でも、一度部屋に引き取ろうかと思っていたところで……」
とにかくこの場から離れようとしたのだが、責める言葉は途切れる気配は無い。
「私は貴女のような方に、あまり自由に歩いて欲しくないのですよ。特にこの部屋は、大変貴重な部屋なんです」
執事はわざとらしく肩で溜息をつくと、大仰に私を見据えた。
「明日には、王と将来を約束された相手が到着されるのですよ。ですから、重要な催しというわけです」
将来を、約束。
執事は煙たそうに、そうまくし立てる。
「海向こうの大陸にある国の、王とは釣り合いの取れた、やんごとなきお方なのです。貴女とは違って!」
さらに何かを思いついたように、私を睨むと低くざらついた声で言った。
「……貴女には、せいぜい森に迷い込んで、うっかり崖に飛び出すくらいがお似合いでしょうな……くっ、くっ、くっ」
不気味な笑い声が執事の喉を鳴らした。
この人は何を言っているの?
耳障りで、背筋が凍るように無機質な笑い声。
どうしても追い出したいのは分かるけれど、それでも命に関わるような脅しまで臭わすなんて。
執事のあざ笑う声が私の頭の中へ反響しているようだった。
この広いホールに飾り立てられた、煌びやかな飾り付けは、許嫁であるひとの為のもの。
私は、その場を逃げるように走り出していた。
将来を約束された相手。
居ておかしくないことだ。考えもしなかった自分に呆れる。
隣国の姫か、貿易相手の豪商の娘かも知れない。
とにかく、有益で、国民に暖かく迎え入れられるだろう女性に違いない。
嫉妬心さえ起きなかった。
比べるまでもない。
熱くなる目頭を、押さえることが出来なかった。
私は無益な女なのだ。
そうでなくては、旅人ではない。
でも……私の、愛する強い気持ち、彼へと差し出したこの身も心も、無益で不必要なものだというのだろうか。
ここを去りなさいと、ずっと、そう言い聞かせているのに。
執事の言うとおりに、今すぐ荷物をまとめて彼の前から痕跡を消さなければ。
今度こそと、私は心に誓ったとおりに少ない荷物を掴んだ。
ドレッサーの上に置いていた僅かな道具を、擦り切れた鞄に次々と放り込み、ベルトへ通したまま連なった道具袋を身体に巻きつける。
いつも通り。これで何も問題はない。
ここから持ち出せるのは、愛する男と過ごした、短くも決して消えない思い出だけ。
死ぬときまで、決して手放すことはないだろう記憶だけだ。
さあ出ようと戸口へ足を向けたところで、突如部屋の扉が開かれた。
「ここにいたのか。誰も君を見かけないというので探したよ」
なんと間が悪いことだろう。
ああ、いつまでもぐずぐずしているのではなかった。
狼狽して顔を上げられない。
「今日の仕事は早めに切り上げた。君の行きたい所にでも、どこか回らないか?」
彼に見えないように涙を拭うと、立ち向かうように彼と向き合った。
「ごめんなさい……私……」
言いかけた言葉を彼が遮った。
「君がそんな目をして謝るときは、ろくな事がない」
いつもと変わらぬ、優しい手が私の頬に触れる。
「どうして目を赤く腫らしているのか、その理由を先に聞こうじゃないか」
彼はなんて鋭いのだろう。
……私は、どうしてこんなに顔に出やすいの。
「……それは」
ふいに、彼の表情が険しくなった。訝しむように目を細め私を見る。
「なぜ荷物をまとめているのか、その理由も教えて貰った方がよさそうだ」
「私は……その」
ただ、あなたを愛している。
それだけなのに、それだけのことが、私の全てを変えてしまった。
そしてこのまま留まることは、幸せよりも、彼の不幸を招いてしまう。
「答えられないのか? それとも、何も言わずに旅に出るつもりだったとでもいうのか?」
「ええ、そうよ。でも確かに、挨拶をしないのは、あまりにも無礼ね……」
震えそうになる声をやっとの事で押さえて告げた。
「納得いかないな。まず、泣いていた理由はなんだ?」
それはあなたが、誰かと結婚してしまうからよ。
そして私では、その彼女に適う事はない。
今まで、常に自分に正直に生きてきた。
でもそれは、今この事態に必要な事なのだろうか。
正直でいればこそ、彼に迷惑をかけているのだ。
「旅が、世界が、恋しくなったの……それだけよ」
ある意味、これは正しかった。
彼を忘れるために、私はこれからがむしゃらに放浪する事になるだろう。
これから見る景色が美しい程、それを分かち合える彼がいない事を嘆いて暮らすのだ。
恐ろしく、気が遠くなるくらいの時間を、ずっと。
「君の言葉を信用するより前に、その青白い顔を何とかした方が良さそうだ」
彼は、反論の余地を与えず、私をベッドへと運んで寝かしつけようとした。
「待って……お願い、私の言うことも聞いてちょうだい!」
私は必死に反論した。
「まともな答えだといいが?」
「こんな風に寝かしつけられるのはいやよ、子供じゃないわ」
「そうだ、子供じゃない。私達は二人で、ベッドで夜を明かす事だって出来るんだ」
彼の声がわずかに優しく響いた。
私は彼を愛している。こんなにも。
でも、彼はどう思っているのだろう?
ただ、側にいたいから、彼が側に置いてくれるから、彼の気持ちなど考えもせずにいた。
彼は、側に置いてくれる事を約束はしたけれど、それについて深く考えているようではない。
出会ったばかりで立場も違いすぎる私達には、お互いを知る術はないように思える。
もう少し、彼と話をしても、執事も許してくれるだろうか。
ほんの少し、日が沈むまでだけなら……。
「時間があるのなら、私が行きたいところへ連れていって欲しいの……あなたと二人だけで」
いつもと変わらない振る舞いをしたかったが、声は懇願するようだった。
彼は渋々といった面もちで答えた。
「……いいだろう」
希望通りに私達は、ある場所へ来ていた。
国の文化遺産ながら、観光客が足を運ぶことは許されない場所。静かな、神塔。
ここで道に迷った日に、訪れたかった場所。
彼と、あの小さな馬で駆けると随分と早く着いた。
「私、観光船に乗ったとき、遠くに見えたこの場所へ来たかったの。なんだか、見ておかなければいけない気がして……本当に美しい場所ね」
厳かなその場所は、古いがかなり手入れが施されていて、長い時の流れを超えたような気にさせる。
重い青銅製の大きな扉は、低い唸りを上げたが難なく開いた。
内部も、手入れを怠ってはいなかった。
暗い玄関ホールを抜けると、奥は円錐型のホールになっている。
見上げると、小さな窓から僅かに差し込む光によって薄っすら浮かび上がる高い天井が見えた。
そこには、美しい天井画が、神々の世界を見事に描き出している。
「ここで、海の領主の娘と陸の領主の息子の挙式が行われたのね?」
「ああそうだ、だから私には、二つの一族の血が流れている」
彼の中の時折見せる荒々しさは、海の一族の血をひいたせい?
それとも、二つの国は共に猛々しい一族だったのかもしれない。
「お互いに、子煩悩だったということは間違いないわね」
そうでなければ、両者は争いをやめなかっただろうし、こうして一族の末裔とも出会えなかっただろう。
「私も、そうなれるといいが」
はっと息を飲んだ。
彼のその願いを受け入れるのは、海向こうの人なのだ。
私は、彼から離れるように、神への祭壇へと向かった。
どうか、私を守って下さい。
私がとんでもないことをやらかさないように。
彼を窮地に追い込むことなど、あってはいけない。
「君は、何を怖れているんだ?」
彼は私の心を見透かしているのだろうか?
私には、彼の気持ちなど、これっぽっちもわかりはしないのに。
「なにも。私は、留まれば留まる程、恐ろしいの。だって……旅人ですもの。当然でしょう……?」
嘘ではないわ。
だからといって、本心でもないけれど。
胸が張り裂けそうだった。
彼に向き合うことが出来ない。彼と目を合わせたら、取り乱して恥も無く想いをすべて口にしてしまいそう。
「『自分が信じた事に、背を向けてはいけない』これは父の言だが、私の信念でもある。そして今まで、間違ったことなど無い」
不意に彼に目を向けてしまった。
彼は私の嘘を見抜いているの?
でも、だからといってどうなるというのだろう。結果は何も良い方向へは変わりはしない。
「あなたには、将来を約束したお相手がいるって聞いたの。明日、その人が到着して、彼女の為の会があるんだって……」
つい言ってしまった。彼の目を見ては、疑問など持ったままではいられない。
それにしても、なんて未練たらしい言い方をしてしまったのだろう。
心の中で歯噛みしたが、もう遅い。
彼の眉間がぴくりと動いたが、それ以上の反応はなかった。
「ああ、向こう側のお客さんだ。いつも懇意にしているので、たまには歓迎会でもしようって話だよ」
彼は鬱陶しそうにその話をした。
「それに、面会希望者が多いらしくてね。面倒だからまとめて開催してもらうことにしたんだ」
確かに、ちらとそんなことを執事と話していた気もする。その機会を設けるとか……でも、それまでは好きにさせて欲しいとも言っていた。
それって、独身最後を楽しみたいといった事だったのかしら。
どうして本当のことを言わないの。
「婚約披露の間違いでしょう?」
思わず声を上げてしまった。
私に彼を責める権利など微塵もないのに!
「誰がそう言ったんだ」
「……貴方の執事は、将来を決めた方を迎える重要な催しだって言ったわ」
彼は心なしか怒っているように思え、私は弱々しくそう言った。
「なるほど。確かにある意味正しいな。彼等とは、子供の頃からの付き合いだ。父は……亡くなる前に彼女を許嫁と決めた」
「お父様が……」
それでは遺言じゃないの。
目の前が真っ暗になったような気がした。
「なら婚約のお披露目で間違いないでしょう……?」
本当に許嫁なのだ。それも前国王が遺言で決めた相手なら、問題のある相手なはずがない。
そんな昔からの付き合いなら、お互いもよく知っているし気の合う相手なのだろう。
私には初めから、付け入る隙などなかった。
そもそも初めから思い至っても良さそうなものだったのに。
「大丈夫か」
ふらついた私は、祭壇に躓いて倒れそうになった。
彼に腕を支えられると、このまま時が止まってしまったかのように思える。
でも、後になってみれば、それはあっという間の出来事なのだ。
通り過ぎる景色と同じに。
「なんでもないわ……ここは暗いから、足下がよく見えなかったの」
そう、足下が、私の人生の足場が、崩れて見えなくなっていったのだ。
「そんなことを言って、体が冷え切っているじゃないか! やっぱり部屋で休ませておいた方が良かった」
「大丈夫よ、自分で歩けるわ」
彼の腕を避けて外へ出ると、もう日も暮れかけていた。
私はふらふらとした頭のまま彼と屋敷へと戻った。ここで降ろしてくれと言っても聞いては貰えなかっただろうけど。
屋敷につくなり、彼は使用人にあれこれと指示を出していた。
そして、私を部屋へ置くと、すぐ戻ると告げ自身もどこかへ走り出た。
ベッドの横に、昼頃にまとめた荷物が置いてあるのが見える。
明日は、あれを持って出て行かなければ……そう思いながら目蓋を閉じた。
ふと扉の軋む音が聞こえ、目を開く。
不気味な目つきの執事が立っていた。
「あなたは、とんでもないことをやらかすのが、何よりも好きとみえる……」
赤黒く染めた顔色に、今までの非ではない怒りが見て取れた。
私は身震いした。
「……なんのこと」
もやのかかった頭が、その冷たさに切り刻まれて、はっきりとしてくる。
今は一番会いたくない相手だった。
本当は、二度と会うことなど無い筈だったのだが、聞いてくれそうもない。
「夕暮れに王が素性の知れぬ女と二人だけで、人気のない森にいたなどと世間に知れたらどう思われるか……特に婚約者の方々に」
背筋に冷たい汗が流れた。
何故知っているの?
「貴女は、長く居すぎました」
執事の一言は、重々しく容赦がなかった。
「貴賓でもない来客にしては、あまりにも不当な長期滞在です。ましてや貴女は旅人だというのに」
執事は無言で、私の鞄を手に取り眼前へと掲げた。
「早く出て行って下さい。王が自らのお手を患わすことがないよう、私がお伝えに参りました」
彼が、こんな風にしろと頼んだの? そんな事があるはずはない。
でも私にはもう、ここにいる意味はないのだ。
力無く荷物を受け取ると、重い体を起こして立ち上がった。
「さあ、早くこちらへ」
執事に急かされるまま、見覚えのない勝手口の向こうへと進んだ。
そこへは馬車が用意してある。
私がふらふらと乗り込むと、執事は感情も露わに恐ろしい形相で吐き捨てた。
「この旅人風情が、甘い夢を見れただけでも光栄だと思え。お前のような者は一夜の慰み者だというんだ! お前は身分もわきまえない、厚顔無恥な輩だということを忘れるなよ。早々に国を出て行け!」
執事は低く罵り終わるが早いか、扉を閉める。
同時に走る合図が出され、馬車は暗い山道を下りはじめた。
「遅かれ早かれ、こうなったんだわ……」
埠頭近くで降ろされた私は、すっかり暮れて星々が煌く空を、身じろぎもせず見上げていた。