第十話 ●焦燥
私は生まれて初めて、愛する人と大切な夜を過ごした。
こんなに幸せな事は、これからそうそうあるものではない。
昨日からの間に、いくつの奇跡をもらった事だろう。
柔らかな光が私達二人の体を浮かび上がらせた。
彼の胸元から、規則的な鼓動が聞こえてくる。
ああ、どうしよう。寝顔がこんなに近い。
「起きていたのか……おはよう」
起き抜けの、少し掠れた低い声が私に語りかける。
「今目覚めたところよ。でも、あなたを見ていたわ……」
私は照れながらも、正直に感想をもらした。
すると彼は、それが当たり前というように自然に唇をよせる。
私も、彼と少しでも、多くの喜びを分かち合えるようにとキスを返す。
甘い夢のような時間だった。
この空間だけ、世界から切り離されたようにふわふわとしていた。
だから、現実を忘れてしまっていた罰だ。
ふいに遠くからコンコンと戸を叩く音が鳴り、身を竦める。書斎の扉が開く音だろう。
「おはようございます」
挨拶を告げる聞き覚えのある声と共に、こちらへ歩み寄る足音が聞こえる。
「ああ、しまった」
少し寝癖のついた頭をかき上げながら、彼は呟きつつ身体を起こす。
狭い寝室を閉ざす扉の向こうに足音が止まると、声は大きくなった。
「おはようごさいます。起床のお時間でございます」
私は不安にかられ、側の彼の背中へとすり寄った。
執事は、書室とは区切られた、もう一つのこの部屋へも、あんな風に不躾に入り込むのだろうか。
正式に迎えられているわけではない女が王の部屋で寝ているのを見たら、卒倒するかもしれない。
私はすり寄った暖かい背を意識した。
彼に迷惑をかける事は嫌だったというのに、いつの間にか、私はすっかり彼の境遇を忘れていた。
彼はそっと私の手を取り、残念そうに口付けた。
「今日は、早めに出なくてはならないんだ」
彼はするりとベッドから降りると、朝日に銀色に輝く長いガウンを羽織った。
私は、不安に寒気を覚え、柔らかなシーツを深く被る。
もう一度、目の前の扉が鳴った。
「今起きたよ」
しかし、彼がガウンを纏ってドアノブへと手を伸ばした時点で、扉は躊躇無く開かれた。
私は上げそうになった悲鳴を飲み込む。
前に立った彼の行動も虚しく、執事の目は欺けなかったようだ。飛び出さんばかりに大きく見開かれたのを見てしまった。
かわざとらしいほどに見えたのは、私が疚しい気持ちでいるからだろう。
「……これは」
「さあ、もういいだろう。すぐに支度をして今日の予定を聞くから、お茶でも飲んで待っていてくれ」
怒りに青ざめて力無い執事を、彼は扉の外に閉めだした。
執事の瞳には、冷徹な炎が燃え上がっていた。
「申し訳ないが、朝食は一緒に出来そうもない。着替えも必要だろうから君の部屋の方へ運ばせるよ」
「ええ、そうね……ごめんなさい」
私は項垂れた。
「謝るのは私の方だろう」
言いながら、彼は素早く衣装棚の扉を開け着替えをはじめた。
階級に似合わない、簡素な服ばかりが揃っている。
「すまない。彼は生まれた時から私の側にいたんで、多少お節介過ぎることがあるのを忘れていた」
彼の着替えを眺めていると、急に何もまとっていない己の身を意識する。
「いいえ、あなたに謝って貰う必要なんてない。私が、もう少し考えていれば良かったの……」
情けないが、急に訪れた寒気に身震いし、身体を守るように上掛けにしがみついて答える。もちろん身体が冷えたわけではなく、この状況にだ。
「何も気に病むことなんかないだろう。私達は互いに、成熟した大人なんだから」
その言葉に赤くなりながらも、私は、彼の親切に救われるような気がした。
「ええ、ありがとう。もう気にしない……だから早く行った方がいいわ」
彼は頷き、私の額にキスをすると部屋を出て行った。
私もこうしてはいられない。
意を決して急いでベッドという聖域から出る。そして床に踏み出し、部屋を一望して愕然とした。
脱ぎ捨てられた衣類は、辺りに点々と散ったままだ。
彼の逞しい腕に全て剥ぎ取られていったのは覚えているけれど、私のものだけでなく、彼の衣類も同様だった。
脳裏を掠める余韻に、全身がかっと熱くなる。
昨夜の情熱の様がありありと思い出され、その幸福と不安の落差に身震いする。
指が震えて上着を着るのにも一苦労だった。
やっとの思いで衣服を着け姿を整えると、辺りを伺うように、自分へと割り当てられた部屋へと戻った。
こそこそと抜け出すような、そんな自分に、とても惨めな気持ちだった。
執事の怒りの瞳は酷い不安を掻き立てられる。
分かってはいたけれど、私は受け入れられてはいないのだ。
部屋へと戻って、水で身体を清める。彼の残した痕が、昨夜、それとも今朝かしら……その生々しい光景を蘇らせる。その赤く染まる肢体を隠すように、新たな衣装を取り出して身につけた。
どれも対して差があるわけではない、動きやすく丈夫なだけが取り柄のみすぼらしい服。
ふとベッド脇のテーブルに、食事が用意されているのに気付いた。考えに埋没していたので気が付かなかったのだ。
そういえば部屋に戻るまでに、誰も見かけなかった。
他の使用人も、私とは会いたくないのだろうか。たんにタイミングが合わなかっただけかもしれないけれど。などと被害妄想に駆られ始める自分を諌めて、野菜スープを手に取る。
すでに冷めかけていたが、普段は冷めた食事ばかりなのだから気にせず口にする。
せっかくの食事に申し訳なく急いで食べる。
……ああいうことって、お腹が空くものなのね。
頬を染めながら黙々と腹に収めた。
ふうと一息ついて立ち上がる。
何をしようと思ったのでもなく、ただ落ち着かなかった。
手に力が入らないと思ったら微かに震えていた。その震えは次第に大きくなり全身に広がっていく。
とうとう、立っていられず床にへたり込む。
今更ながら、様々な思いが込み上げてきた。
ああ、私はなんてことをしでかしてしまったのだろう!
ようやっと、現実感を取り戻していた。
幾ら幸せだったとしても、夢は覚めれば空しいだけだ。
確かに素晴らしい夜だった。
あのまま時が止まってしまっていたらどんなに良かったか。
いえ、今朝見た彼の寝顔も素敵だったけれど。
思い出したくはなかったけれど、執事がいたことで、この世界には彼と私だけが存在するわけでないことを思い出させてくれた。
昨晩の私は、どうかしていたのだ。でも、彼の方も、どこか心ここに在らずといった風ではなかったか。
……きっと、あれが夜の女神の見せる魔法なのね。
幾ら心で戒めても、まるで初めからそう決められていたかのように吸い寄せられて抗えなかった。
起こってしまったことは覆せない。
自分をしっかり持たなくては。
ああ、でも、もう、どんな顔をして会えばいいの!
恥ずかしいやら情けないやらで、しばらく感情が迸るに任せていた。
ひとしきり胸中で気持ちを爆発させると、嫌でも疲れ果てて落ち着いてくる。
そして、最後に心の底に残っている気持ちに気付いた。
私は、昨夜のこと自体を後悔してはいない。
二人の魂の交流だったのだもの、後悔することなど今後も決してないだろう。
問題になるとしたら、彼の側の話だ。だからといって、何か沙汰があるまで黙っているというわけにもいかない。
無力な自分に歯噛みする。
再度、ゆっくりと立ち上がり、足の裏にしっかり床を感じることを確認する。
もう、歩けるわよね?
今、使用人達と会うのは気まずいけれど、じっとしているのはもっと耐えられそうもない。
思い立つと、あてもなく廊下へと飛び出していた。
幾つかある長い廊下の一つに、壁の合間々に窓を設けられた日当たりの良い場所がある。
窓は開放されており、目に入る庭園の緑や、髪を撫でる風が心地よい。
出来る限りゆっくりと歩きながら、ここ数日の生活と彼との会話を思い浮かべ考える。
彼は普段から、仕事をしていてあまり屋敷にはいないようだった。
私が街人だったから思うのかもしれないが、こんな広い屋敷に一人で暮らすのは物寂しい気もした。
その証拠にというか、彼は書斎を陣取って動いてなさそうである。
今の私には、持ち前の好奇心も役には立たなかった。一人で慣れない屋敷にいる気まずさに、身の縮むような思いだ。
何かをしなければいけない。
旅人らしく、例えばこの美しい広大な屋敷の外周を一日かけて歩き回っても構いはしないだろう。
だけど、到底そんな気にはなれなかった。
今までだって誰かの家に泊めて貰うことがなかったわけではない。
私は自由な旅人で、気ままにどこへ行こうが、許されている身の筈なのだ。
だけど、自分に嘘は付けない。
私の旅人としての人生は、今度こそ本当に終わったのだと思う。
あんなに長いこと憧れていたというのにだ。
いや正直に言えば、やはり旅人として生きることは、まるで履き慣れた靴のようにしっくりくる。その思いに変化は無い。まだまだ世界を回りたいし、好奇心を満たしたい。一生を懸けて色んな技術を身に付けて行きたい。
だが自由に世界を旅して歩く、そんな人生は、もう訪れはしない。
心が彼という世界に完全に囚われてしまった。
彼のいない自由など、何を楽しめば良いというのだろう。
廊下の端に付くと、一番会いたくなかった人影が待ち受けていた。
私と大して背丈の変わらぬ者が、痩せて落ち窪んだ眼窩から異様な光で睨め付けてくる。
私は、距離をとり身構えて立ち止まった。静かに、その視線を受け止める。執事が何か一言、言わねば治まらないだろうことは承知していた。
「貴女が相手にしているのは、我が国の王だ。私の言っている意味がおわかりかな」
もちろんだと、ただ頷くしかない。
「年中世界をふらふらする根無し草などが、釣り合いのとれるお方ではない」
口の中で頬側の肉を噛みしめ黙って聞く。何か迂闊なことを言って、これ以上逆撫でしたくはなかった。
「なぜなら、この国を治めなければならない人間だからだ。先祖代々、そして子々孫々まで、この地を離れる事も放棄することも、許されない御人だからだよ」
冷酷な視線とは裏腹に、憎々しげに絞り出される声は激昂を抑えているようだ。
「その妻となる者は、当然、民が安心して自らの生活を任せられる、先祖代々素性の明らかな貴婦人でなくてはならないのだ!」
何を言われるか予測できても、冷水を浴びたような気がした。
それは間違いではない。ただの嫌みでもなく、当たり前の指摘だ。
「彼の婚姻は、彼一人の問題ではない。冷静に、よく考えて欲しい。私が、貴女を客人として扱っている間に、どうかこの意味を理解していただきたい」
その声は氷の刃のように冷たく、鋭く研ぎ澄まされていて私の心を深くえぐった。
執事が廊下を曲がりその姿を消して、去っていく足音が遠のくまで、その場を動けなかった。
私は、自分勝手な事をしているの?
もちろん私自身が何も決められず、深く考えることからも逃れ、あてもなく徘徊していたくらいだ。自分勝手だろう。
心の中ですら、一言も言い返せなかった。
自らが、何をすべきか悩んでいるあやふやな状態だからこそ、執事の明確な意図を持った言葉に頷くしかなかった。
執事の声がどんなに冷たくとも、言っていることは何もおかしな事ではない。言っていることは正しい上に、王の身を案じている内容だ。
反対に私は、自分一人の幸せの為に多くの人を不安に陥れ、なおかつ愛する人の信用をも貶めようとしている。
私は、とても恐ろしい事をしているんだわ。
誰のためにもならない事を……。
昨晩の愛しい人の言葉を思い出す。そして、彼の態度も。
「いつまででもいればいい」
彼は軽く言った。
どうして、そんなにすんなりと受け入れてしまうのだろう。
分からない。
いや、と首を振る。
あれは夜の女神に幻惑されただけなのよ。
私にとってはこんなに悩んでしまう事だし、当然それは彼にとっても無縁の事ではないのだ。それは彼の境遇の事なのだから。
彼は、誰からも祝福される関係でなくては、許されない身の筈だ。
ただの街人の男ではない。
いえ、ただの街人だったとしても、旅人との交際関係は奇異な目で見られるか、同情されるか、ともかく祝福は受けないものだ。
旅人も家族を持ちはする。
子を生した場合、婚姻関係にある相手と、近い街の領主に許可を取りしばし滞在する。
夫が主に働いて、嫁は手作業をしつつ家で過ごす。
彼らが一般的な街人のように暮らす、短い期間である。
子供も育ち、ある程度身体ができてくると共に、ゆっくりと旅を始める。
子も成人すると、また皆別れて各々旅を始める。
これが、街人には家庭を捨てて出て行くと忌避される所以だ。
ただ、彼らの価値観では違う。一生留まらず世界を巡る。この世界は広大無限のようでいて、意外と狭いと知っている。
生きていれば再会する事もあるだろう。
側に居ながら、大切なことが見えないこともある。
街人にも劣らぬ家族間の絆は、確かに在るのだ。
だけど、それを街人に理解してもらえることは決してないだろう。
いつも街人はみなこう思うのだ。
『今はいいけど、きっと家庭を捨てて旅に出るに決まっている』
反対に旅人達は、私を見てどんな顔をするだろうか。
どっちにしろ、いい顔はしないだろう。
とある国から反感を買う可能性があるとしたら、それだけでも私を疎んじるかもしれない。彼らの評判を落としてしまうことになりかねないのだから。
では元の街に、私は戻ってきたと宣言しようか?
父の墓の前で、祈り師様に誓おうか。
私は街人に戻ったのだと。
でも私の心は、旅人だ。
戻れる筈がない。
それに私は、旅人でなければ、ただの街人の娘……それこそ何も持たない女なのだから。