青春の残り火
成人式だった。
私たちは、柄は違うものの日本の伝統的な民族衣装である着物……振袖に身を包んで同じ場所に集まる。そこで祝いの言葉をいただいたり、懐かしい友人たちと再会したりするわけだ。
「あんたは変わらないね」
「え?そうかな」
「綺麗になったと思うけど、昔っからそうだもん。憂は」
頬に手を添え、何重に重ねてつけたつけまつげをバシバシと何度も動かしながら目の前の女性は言った。この子も会うのは小学校を卒業して以来、実に八年ぶりになる。最初はこの化粧で髪もアップにしており、話し方にも世代特有の粘り気が身についている彼女が一体誰なのか私にはわからなかった。
あんたは変わったね、老けた。なんて言えるはずもなく、私は「果歩も変わってないよ」と返した。高校に入学してから必死でお洒落をして美しさを追求していたらしい果歩にはそれが不満だったらしい。彼女はテカテカと光る唇をつんと尖らせた。
そんな顔をされても、私はあなたの欲しい言葉をあげられそうにない。こっそり苦笑して、私はあたりを見回した。
「ねえ、シノちゃんは?」
「……はあ?」
「ほら、シノちゃんだよ。忍野……下の名前なんだったっけな」
「ああ……シノちゃんね」
私の言葉を聞いて、果歩も軽く周りを見た。写真を撮り合っている女性たち。再会にはしゃいでいるのか、肩を組んで笑い合っている男性たち。最後に見たとき「女子」や「男子」と形容するに相応しい見目をしていた彼らは、もうすっかりそんな段階を越していた。そして今日の成人式を境に、立派な大人の「女性」「男性」として堂々と振る舞うことになるのだ。
私たちは、その中に彼女の姿を探した。シノちゃん。彼女も、こんなふうに大人になっているのだろうか。それとも、変わらずにここにいるのだろうか。この中にも調和しているのだろうか。
そんなことを考えながら見ていたけれど、やはりシノちゃんは見つからなかった。果歩が溜息を吐きながら言う。
「いないね。……ま、来れないんでしょ。さすがに」
「へ?」
「えっ、憂は知らないの?意外。まあ、仲良かったけど他校進学しちゃったもんね」
そんなことを言う果歩は、シノちゃんと同じ学校に進学していたはずだ。そう言えば、中学卒業の時に言っていた。
あのね今思い出したんだけど、シノちゃんて……そう唇が動き出すのを見ていると、私の肩が叩かれた。振り返ると、対面していた果歩と同等かそれ以上のまつげに彩られ囲まれた目と、目が合った。人工の目に覆われた瞳はもはや小さく、それは人工の毛の塊だった。
人工まつげは私を見ると嬉しそうに言った。
「わあ、やっぱり憂だ!久しぶり!覚えてる?ウチのこと」
誰だ。
「あ!寿々じゃない!久しぶり!」
答えたのは振り向いた私ではなく、彼女の真正面にいた果歩だった。寿々も果歩の顔を見るなり「キャー、果歩!」と言って、この至近距離なのに手をぶんぶん振りながら近寄った。互いにすっかり変わってしまった元級友たちが抱き合うのを見て、つけまつげを着用し始めると、他の着用者の見分けまでできるものなのかとぼんやり思った。
果歩も寿々も元は目立つタイプではなく、学年でも大人しくて地味な女の子たちだった。それがこうして、ギャルみたいな見た目をし、喋り方をし、本日成人なのだと言う。大人になるって不思議なことだなと思った。
「そうそう。男子が、憂とも写真撮りたいって言ってたよお。ほら、果歩もさ、こんなとこで二人で駄弁ってないでこっちおいでよ」
果歩がいくいくーと軽やかに返事をして「こっち」と寿々が指差した方に急いだ。床で裾を擦っていてみっともない。やっぱりそういうところを気にしないのに着飾るだけ着飾っても……なんて考えたところで、寿々に尋ねた。
「男子が直接言いに来ればいいじゃない」
「だってー。憂、声かけにくいじゃん。超綺麗になってるし、雰囲気も昔まんま。そうだ、雰囲気よ。近寄りがたい雰囲気なんて学生までしか要らないの。いい加減人慣れしなさいよね。大人になったんだから」
失礼な。私はあんたたちよりずっと大人になった。
そう心の中で不満を漏らしつつ、ようやく中学までの記憶の中にあった寿々の面影を見た気分だった。彼女はこうして、人付き合いの苦手な私に優しく、言葉を選ばずに適切にアドバイスしてくれる姉気質なところがある子だった。彼女のおかげで私は人当たりも多少改善され、他人を批判しがちな言葉を押し留めるようになった。ただし、口にしないだけだけれど。
「ほら、来て」
そうだ。こうやって私を輪の中に誘いにきてくれる寿々。
彼女の本質は結局、変わっていないのだ。
「寿々、シノちゃん見てない?」
「シノちゃん?」
先程言葉を止めた果歩はシャンパンを口にして女の子たちの輪の中でけらけら笑っている。基本的に人と接するのは私なんかよりずっと得意なのだ、彼女は。
そんなわけで、手近にいた寿々にそれを聞くことにしたわけだが。
彼女は首を傾げた。
「そんな子、いた?」
「いたって!……フルネームはさっきから思い出そうとしてるんだけど」
「ああ、忍野じゃねえ?シノってニックネームあったよな、懐かしい!あれって誰が呼び始めたんだっけ?」
近くの男の子が私の言葉を受けて言った。私がそうそうと頷くと、寿々がようやく頷きを返した。
「忍野でシノちゃん!ああ、やっと思い出した!……でも来てたかなあ」
「来てねえんじゃね?わかんねえけど。果歩とさあ、忍野とあと……いち、に、三人くらい?全く別の高校に進学しちゃってさー。そこからの動きがわからなくなったよな」
「ああ。同窓会開こうにも、果歩以外はみんな連絡先わからなくて苦労したな。……そういや、同窓会は一応あの高校に進んだ奴らにもなんとか伝えて出席とったけど、忍野は来ねえって聞いたかな」
それを聞きつけた人たちが口々にそんな情報を交わす。そうだ……だって私もシノちゃんの連絡先を知らない。
「忍野ってあの出っ歯の忍野だろ。ひょろくてちっこくて、ソバカスだらけの」
「……馬っ鹿!」
そんなことを言った男の口を隣にいた別の奴が手で塞いだ。私は声の主をじろりと睨んだ。
シノちゃんは確かに、さっき男が口にした通りの風貌をした少女だった。でもそれだけじゃない。あれだけ誰も近づかなかった頃の私を救ってくれたのはシノちゃんだった。それに、彼女は声が透き通るようでとっても綺麗なのだ。
……とは、ずっと言えなかった。今回もシノちゃんの容姿を悪く言う奴にそう言ってやることはしなかった。シノちゃんの綺麗なところなんて私だけ知っていればいい。
「んー……あ、そうか。なかなか出てこなかったけど、シノちゃんのフルネーム!」
「え?」
寿々がぱんと手を打って言った。
「ユウだ!」
「はあ?」
「憂が印象強かったから忘れてたんだ。シノちゃん、忍野夕って名前だった」
「忍野さんって、下の名前なんだっけ」
「……夕。だけど大体みんな忍野って言うよ。ユウは、憂ちゃんの名前だから」
「そっか……ごめんね」
そう言うと、申し訳なさそうに彼女は大きく首を横に振った。
忍野さんという他人行儀な呼び方に嫌気がさした。彼女のことは特別な友人だと思っている。特別な呼び方がしたかった。
「いいの!気にしないで!」
「でも……」
「どうしても忍野じゃ気になるなら、憂ちゃんが好きに呼んでいいよ」
彼女は笑った。それが窓から射した夕日に照らされて綺麗なものだから、夕という名はとてもぴったりで羨ましくなった。綺麗な名前だ。憂、なんてどちらかといえばマイナスな言葉である。素直に人偏をつければよかったのに。
しばらく考えた。夕と呼んでもよかったけれど、彼女が自分との名前被りを気にしていることはその様子から明白だった。「……シノちゃん」
「え?」
「忍野さん、じゃなくてシノちゃん。かわいいし。決めた。私、これからそう呼ぶ」
ね?そう言って笑った。
そんな思い出だってその頃は全てだったわけだが、二十年も経てば二十年のうちの一日でしかない。現に、果歩や寿々をいつから呼び捨てにし始めたかなどとうに忘れてしまった。けれど今は呼び捨てで呼んでいて、それに自然と返事がもらえている。今が大事なのだ。
シノちゃんとはそれから数時間して出会った。まったくの偶然だった。
同窓会は成人式当日の十九時からだった。場所は若者のよく利用する地元の居酒屋だ。幹事が高校時代にアルバイトしていた場所らしく、当時から「成人式後はここに来いよ」と言われていたらしい。しっかり覚えていて約束を守るあたり律儀である。それくらいでないと幹事なんてつとまらないのかもしれなかった。
同級生がそこでバイトをしていた。今日は中学卒業後からほとんど知らない彼らの生活の欠片を多く拾い集めるな、と思った。それが成人式、それから同窓会というものなのかもしれない。
その居酒屋に行く前、余裕をもって家を出過ぎた私は空いた時間で本屋に寄った。きっと酒を飲むだろうと思い、親の送迎である。本屋で下ろしてもらい、居酒屋まで歩くつもりだった。
その居酒屋まで歩く道筋で、私はやたら綺麗な女の子とすれ違った。昼間の私と同様、振袖を着ていた。彼女も成人なのだろう。
私はそんなことを思っただけだったけれど、向こうはぎょっとした顔を作った。
あれ?と思う。こんな人知り合いにいただろうか。
見れば見るほど、気持ち悪いくらいに綺麗な子だった。ぱっちりした目はその縁を人工の毛で盛っておらず、ルージュを引いた唇は形よくきゅっと結ばれている。背はあまり高くないが、堂々と背筋を伸ばして姿勢がいい。着物がよく似合っている。
ふわ、とルージュの花が開いて、言葉を零した。
「憂……」
ぴんと背に電流が走った。
この響きを私は知っていた。綺麗な声を私しか知らなかった。
「えっ……シノちゃん?シノちゃんなの?」
驚いた表情で大きな目を大きく開いた彼女は、それでも記憶の中のシノちゃんとは似ても似つかなかった。
果歩や寿々を、私は一瞬判別できなかった。しかし触れ合っていくうちに、元々知っていた幼い彼女らに蓄積されできた今の彼女たちを認識した。でも、シノちゃんは違った。
彼女には「今」しか感じられなかった。
私がシノちゃんを感じたのは声だけだった。
「久しぶりね、憂」
この喋り方もそうだ。シノちゃんは私のことを呼び捨てにしないし、「憂ちゃん」だってもっと優しい甘い言葉だった。
「そうだね」
結局、圧されて無難な返事しかできなかった。圧されて。なんて私らしくもない。
ふ、と目の前の彼女が笑う。
「よくわかったね、私が忍野だって」
「わかるよ。会いたかったから」
私がそう言えば、彼女はますます嬉しそうに笑った。私はシノちゃんの笑顔も好きだったけれど、彼女のそれからは嫌な感じしかしなかった。
「私も会いたかった。……あなたに私が、それだけ近づいたか知りたかった」
「え?」
「私ね。整形したの」
整形。シノちゃんが。代わり映えした容姿は、それで。ああ、果歩は知っていたのだ。それで、来づらいんじゃないかと言っていた。果歩が知っているということは、高校在学中のことだろうか。そんなことはどうだっていいけれど。心の中の冷静な私はそう思って途中で納得しようとする。冷静でない部分は、嘘だ、なんでだ、どうして彼女が、と叫んでいた。
くすくすと笑いながら彼女は囁いた。
「ずっと見返してやりたかったの。ねえ、あなたが一番私のことを見下していたから。あなたは綺麗だった。あなたはユウだった。私はあなたになりたかった」
「見下していただなんて」
そんなこと。私を救ってくれたシノちゃんに、私が。
でもシノちゃんはそう感じていたのだと言う。
「見下していたでしょう。私が傍にいるだけで、あなたは優越感に浸っていられる。最高の引き立て役だったでしょう、私は」
綺麗になったシノちゃん。彼女の口にする言葉には一つ一つに赤いルージュの色の毒が含まれていて私を刺した。昔のシノちゃんは、確かに不美人と呼ばれる人間だったけれどこんな言葉を吐かなかった。いつだって綺麗な言葉しか。
そんな彼女は綺麗だったのに。
「世の中、美人が勝つ仕組みになっているのよ。あなたは元々つくりが違うから知らないんでしょう。美人の方がいい接客業の仕事につけるし、稼ぎもいい。アナウンサーやキャビンアテンダントだって美しくなきゃそれだけで諦めざるを得ない。不公平だと思ってた。綺麗じゃないだけであなたに劣るなんて」
「シノちゃん……シノちゃんは私のことが嫌いだったの?」
「はあ?嫌いだったに決まってるでしょ」
目の前の、形の随分整った作り物の眉が歪んだ。
私は、ずっと大事にしていたきらきらの宝物の思い出を、歪に踏みにじられている気分だった。
だって、同性だったから見て見ぬふりをしていたけれど、きっとそれは言葉にするなら「初恋」と同義のものだった。
「私は綺麗になった。それに、これからもっと綺麗になるわ。今はやっと私があなたに追いついたところだけど、順序良く歳をとっていくあなたと違って私はきっと歳を取らないでみせる」
「……ねえ、シノちゃん。あなたはそれで幸せなの?」
「……っ、うるさいなあ!大体、私はもうシノちゃんじゃないの。夕なの。あなたとわざわざ区別しなくても結構よ。名前にコンプレックスなんてもう持っていないから」
彼女はそう言って、強い目で私のことを見つめた。その目は微妙に揺れていて、やっぱり彼女は私のシノちゃんのままだと思った。
弱気で、自分に自信がなかったシノちゃんの目だった。
それでも、もう好きだったシノちゃんじゃない。
「それじゃあね。会えてよかった。これで憂の陰に怯えて生きていかずに済むわ」
そう一方的に告げると、そのまま私とすれ違って通り過ぎようとする。同窓会の会場である居酒屋から遠ざかろうとする。
しかし、数歩で歩みを止めた。彼女は振り返って、気が付いたように言った。
「あ、そうそう。私、今働いてる会社の重役の方とお付き合いしてるの。……ふふふ、ブスのまま腐って生きてたら絶対そうもならなかったわね。結婚することになったら招待状を送るから、よかったら来て。私の、人生の晴れ舞台よ」
着物姿の、気持ちが悪いくらい美しい女は、私にそれだけ言うと気が済んだように歩き出した。今度こそ振り返らなかった。
晴れ舞台。なら、成人式にも来ればよかったのに。
きっとそれでは意味がないのだ。結婚式。彼女が忍野ではなくなる。シノちゃんとは本当に無縁になるのだ。私は、その「シノちゃん」という名の埋葬に来てくれと言われたのだ。
その言葉通り、およそ一年後に彼女から手紙が届いた。私は彼女の連絡先を知らなかったというのに、彼女は私の連絡先をちゃんと把握していたらしい。
中には結婚式の招待状が封入されており、表の名前は「初瀬水夕」となっていた。
違う苗字は、もう入籍を済ませていることを私に悟らせた。シノちゃんはシノちゃんではなくなったらしい。彼女は無言で、手紙だけで私にそれを告げる。
台所の流しに招待状を封筒ごと放り込み、火をつけた。
――おめでとう、初瀬水夕さん。
なじみのない名前を心で呟きながら、燃える紙の束を見つめる。私の心には何も浮かんでこなかった。
あるのは空虚感だけだ。それはあると呼べるのか。
さようなら、私の初恋。
私の初恋は大きな音も立てない小さい火と一緒に踊って、燃えて燃えて。
あとには灰しか残さなかった。