道化師にはなりたくない
それにしてもどうしてこうなったのか。
求婚者を名乗る男を前に、セナはうんざりとため息をついた。
そもそものはじまりは、セナが別の屋敷に行くと聞きつけたレイアが泣き出した事だった。
レイアが結婚した時点で家庭教師としての役目は終わったと、自分も雇い主でレイアの父である侯爵も新しい奉公先をと考えていたのだ。ところが今は皇太子妃となったレイアの一言で、何故かその奉公先がレイアのままになってしまう。
つまるところ今までのように姫に勤める事となったのだ、城で。
平民の、しかしながら一介の侯爵令嬢を皇太子妃として問題がないほどきちんと育てられるだけの教養の深さとたく卓越した手腕を持った家庭教師、それが人々がセナに与える評価だ。
その為、けっこうな貴族達から声がかけられていたのだが。
『セナは私の先生でしょう? まだ知らない事がたくさんあるわ、だから私の傍にいて』
そう涙ながらに訴えられ、なおかつ夫たる皇太子殿下にも頼まれてしまっては逃げ場などなく。
そうして城に上がったセナを優良物件とみなした貴族達によって、連日のように求婚されるのが最近の日常だった。
「ああ、その冷たいまなざしもぞくぞくしますね、美しい」
「お戯れを。私は仕事がありますので、いい加減退いて下さるとありがたいのですが」
家庭教師の腕をただの侍女にするのは惜しいと、今のセナは城の書庫を預かる立場にある。今まで読めなかった書物が思いっきり読めるのは幸福だ。
そうして今日は壊れた古い本の修復を、同じく書庫を管理する王家付きの学者から教わる予定になっていた。このままでは遅刻になってしまうと若干焦ってしまうのは仕方なかったかもしれない。
そうして今日は絡んでくる相手も悪かったと言うべきか。
「その氷のような物言いも素敵です……」
うっとりとそんな事を言い出す男に嫌悪感を覚えた。顔をしかめて脇をすり抜けようとしたが、腕を掴まれてそれもままならない。
「いい加減に――」
「ですが、冷たい貴女を熱く溶かしてみたいものですね……私の名を呼ぶ甘い声を聴かせて頂きましょう」
「ちょっと!!」
ぐいぐいと腕を引っ張られる。このままではどこかに連れ込まれてしまうだろう。
焦りと共に護身用に隠し持ってた短剣に手を伸ばそうとした時。
「失礼、彼女に何か?」
涼やかな声と共に、最も苦手なエリアードが割り込んでくるのだから今日は運がない。
「え、あ、マクガウェル殿!? か、彼女とお知り合いで!?」
「ええ、セナ殿は私の大切な女性ですよ」
ふんわりと笑う姿は優しげだけれど、その背後に何やら黒いものが見える気がする。それは男も同じだったようで、引き攣った笑みで何かをもごもごと言った後転がりそうな勢いで逃げて行った。
後に残されたのはエリアードだけと言うセナにとっては頭の痛い状況だ。
「セナ殿は随分と人気があるようですね。もっとも、寄って来るのは女性に対する礼儀も知らぬ愚か者ばかりのようですが」
そう言って、エリアードはふっと嫌な笑みを口の端に浮かべる。
「それとも、ランクの低い男の方が気が楽なのか」
「ご冗談を」
本当に嫌味ばかりだ、この男は。好きで平民に生まれた訳でも、言い寄られている訳でもないのに。
「まあ、こんな事ばかりだと我が君に迷惑がかかるので自嘲して貰いたいものですね」
「一方的に言い寄られるのは私の責任ではないでしょう。私は平民だと言っているのですから」
「それでも自衛する手段はある、貴女がしないだけで」
ぐっと言葉に詰まってしまったのは、その方法をセナ自身も気付いてしまっているからだろうか。
「その顔だと、わかっているようですね。そう、位の高い貴族と婚約してしまえばいい。俺のような、な」
この男、こう見えて次期公爵なのだ。そう言える立場なのは重々承知だが。
「申し訳ありませんが、私は自分が好きになった殿方としか付き合えませんので。ええ、フリだけでもむりです」
ことさらにっこりしてやれば不愉快そうな顔をされるが知った事ではない。
そもそもこの嫌味男と婚約だなんて考えるだけでこちらも不愉快になってしまうのだ。
俺の物と言われた事もあるが、人をもの扱いする男になどなびく要素などない。
――そう、だから、あの結婚式でときめいたなんて間違いなのだ。
どきどきとしてしまった事を――プロポーズのようだと心が揺らいでしまった事を、今更ながら悔しく思う。どうせこの男はからかって楽しんでいるだけなのだ。
「私は道化師になりたくないの」
「道化師?」
「ええ、貴方の手の中で好きなように弄られて踊らされながらにこにこ笑ってるなんてまっぴら」
「おい、その言い方はあんまりだろう」
「何故? 本当の事でしょう。今までの自分の行動を振り返って、そんな事はないと言えて?」
誰もいない廊下、素の喋り方になったエリアードに対し、セナは大きくため息を吐き出す。
「では、私は仕事がありますので失礼します」
呼びとめる声はなく、セナはそのままエリアードを置き去りに歩き出して、ふいに足を止めた。
「そう、忘れるところでした」
振り向いた先にはどこか表情を強張らせた天敵がいる。セナはスカートを少し摘まみあげると、にこやかな笑顔で一礼した。
「先程は助けて頂き、ありがとうございました」
お礼はきちんと言わなければ。そうレイアに教えた手前、自分で破る訳にはいかなくて。ただそれだけで礼を言ったのだけれど。
「……マクガウェル殿?」
きっと皮肉のひとつも返すのだろうと思ったエリアードは、何故だか顔を赤くして驚いたようにセナを見つめ、それから何も言わずに足早に立ち去ってしまった。
後に残されたのは、困惑に途方にくれたセナだけで。
「……本当、あの人訳がわからない……」
いったい何がしたくてセナにいちいち関わろうとするのか。
それでも最後に見たエリアードの赤い顔がいつになく彼の本心を教えてくれるような気がして。
「悪い人じゃ、ないのかもね」
ぽつりと自分で呟いた言葉に驚いて、それから時間を思い出して、セナも慌ててその場を立ち去る。
そんな二人の様子を覗いていた人影がいた事には、エリアードもセナも気付く事はなかった。
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