第八話 畑仕事
扉の外へ出ると、朝の空気は思ったより冷たかった。森の中を抜ける風が、頬を撫でる。
地面にはまだ露が残り、草の先で小さな光が揺れていた。
エルシアは先に立ち、家の脇を回る。その後ろを、レインは少し距離を空けて歩いた。
昨日までなら、ただ手を引かれてついていくしかなかった。だが今日は違う。
レインはエルシアの足運びを観察した。
湿った地面では、踵から強く踏み込まない。
根の張った場所では、足先で感触を確かめる。
低い枝があれば、手で払うのではなく、肩を少し沈めて避ける。
どれも、わずかな動きだった。だが、真似をすると驚くほど歩きやすい。
レインは、できる限り同じように歩いた。
反応の鈍い右手は使い物にならず、右目も見えない。その分、左側の視界と足元の感覚を研ぎ澄ます。
動きはまだぎこちなかったが、昨日より枝に引っかかる回数は明らかに減っていた。
エルシアは一度だけ振り返り、レインの足取りを見て何かを言った。
褒めているのか、注意しているのか。正確な意味は分からない。
ただ、その声音に拒絶はなかった。
家から少し離れた場所で、木々が途切れた。そこには、小さな畑が広がっていた。
森の中を切り開いた場所だ。だが、地面はただ耕されているだけではない。
畝の間には細い石が等間隔に並べられ、その一つ一つに、あの幾何学記号が刻まれていた。
土は黒く、柔らかい。朝露をまとった葉が、規則正しく並んでいる。
薬草畑だ。
葉の細い草。小さな紫の花をつけた草。根元だけが淡く光る草。
昨日、家の中で見た乾燥した草束のいくつかとよく似ていた。
エルシアは畑の端に立ち、指先で一列を示した。次に、葉の一部を摘み取る動作を見せる。
レインは頷いた。刈り取れ、ということだろう。
エルシアは自分の作業を始めた。細い刃物で茎を切り、必要な部分だけを籠へ入れていく。
速い。だが、乱暴ではない。
葉を傷つけず、根を残し、次に育つための芽を避けている。
レインは、その手元をじっと見つめた。
命令の伝わりにくい右手では、こんな繊細な作業はできない。左手だけで同じことをするには、工夫が必要だった。
彼は地面に膝をつき、草の根元に左手を伸ばした。指先で茎の感触を確かめる。
どこを切ればいいのか。どこを残せばいいのか。
エルシアの手の動きを脳裏に再生する。
葉の下。節の少し上。新しい芽からは離す。
レインは、慎重に一株を摘み取った。
最初の一つは、少し失敗した。茎が途中で裂け、葉が傷ついてしまう。
エルシアがすぐ近くにしゃがみ込んだ。
彼女は傷ついた葉を見てから、隣の株を指差した。そして、根元と芽の位置を順に示す。
言葉ではない。だが、意味は痛いほど分かった。
――急ぐな。よく見ろ。
「……もう一度」
レインは小さく呟いて頷いた。
次は、葉を持つ位置を変えた。指先で茎を支え、少しだけ横へひねってから引き抜くように切る。
今度は、きれいに取れた。
エルシアは何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ頷いてみせる。
それだけで十分だった。
作業を続けるうちに、レインは畑の構造に気づき始めた。
畝ごとに植えられた草が違う。石に刻まれた幾何学記号も、列ごとに異なっていた。
水を保つもの。虫を遠ざけるもの。土の状態を整えるもの。
まだ推測にすぎないが、畑そのものが一つの精密な仕組みとして作られているように見えた。
エルシアは畑の端にある小さな木箱を開けた。中には乾いた粉と、砕いた石のようなものが入っている。
彼女はそれを土へ撒き、指先で短い動きをした。
畑の石に刻まれた記号が、かすかに青白い光を帯びる。
すると、土の表面がほんの少しだけしっとりと湿った。
レインは、その光景から目を離せなかった。
土を耕し、水を運び、肥料を撒く。そうした一連の工程に、魔法が無理なく組み込まれている。
この世界では、魔法は自然を暴力的に支配するためのものではない。
生活の手順を少しずつ補い、助けるために使われている。それが、レインにはよく分かった。
しばらくして、エルシアが自分を指差し、次に胸へ手を当てた。そして、短く何かを口にする。
レインは手を止めた。
自分を示す言葉。おそらく、彼女自身を指す一人称だ。
エルシアはもう一度、自分を指差してから、何事もなかったように畑の作業へ戻った。
レインは、その音を頭の中で反復した。
次に、自分の胸を指差す。そして、覚えたばかりの音を、ぎこちなく口にした。
「わらわ」
ぴたりと、エルシアの手が止まった。
紺色の瞳が、信じられないものを見るようにゆっくりとレインへ向けられる。
レインは、自分が何か失礼な言い間違いをしたのかと身構えた。
だが、エルシアはしばらく呆気にとられたように黙り込んだ後、ふっと短く息を吐いた。
あきれ返ったような顔だった。それでも、その口元はどこか笑いを噛み殺しているようにも見えた。
彼女は自分を指し、先ほどと同じ音をもう一度、はっきりと口にする。
次に、レインを指差した。
そこから発せられたのは、まったく別の音だった。
レインは二つの音を聞き比べた。
前者は、彼女。後者は、自分。そう理解した。
だが、誰が口にするかで役割が変わるという言語の規則までは、まだレインには把握しきれなかった。
エルシアは何かを呟きながら、作業へ戻っていった。
おそらく、「好きにしろ」か、「そのうち直せ」といったところだろう。
レインは首をかしげた。
名前はレイン。だが、自分を示す言葉は、まだよく分からない。
彼は手元の草を見つめ、誰に向けでもなく、小さく呟いた。
覚えたばかりの、彼女の一人称を。
その音はまだ、借り物だった。
それでも、幼い身体のレインの口には、不思議なほどすんなりとなじんだ。
朝の光は、いつの間にか高く昇っていた。
レインは左手だけで、もう一株の薬草を摘み取る。
その手つきは、最初よりも少しだけ正確になっていた。




