第1話 悪夢の煮込み
午後五時を少し回ったころ、相良源次は寸胴の蓋を開けた。
湯気と一緒に、醤油と味噌、それから牛すじの脂が混ざった匂いが立ち上る。
悪くない。
菜箸で底からひと混ぜして、柔らかくなった大根をひとつ小皿へ取る。箸で割って中まで煮汁が染みているのを確かめてから、端を口へ運んだ。
「……もうちょいか」
塩を足すほどではない。
源次は寸胴の火を弱めると、作業台の端に置いてあった茶色い保存瓶を手に取った。
ラベルには油性ペンで、
『悪夢 三年』
とだけ書いてある。
蓋を開ける。
中身は液体ではない。
黒とも紫ともつかない、薄い靄のようなものが瓶の底でゆっくりと蠢いていた。
源次はそれを小さな柄杓で掬い、ほんの一杯だけ寸胴へ落とす。
じゅ、とも、ぼう、とも違う音がした。
一瞬だけ厨房の照明が暗くなる。
遠くで誰かが息を呑むような音が聞こえた。
源次は気にせず蓋を閉めた。
「これでいいな」
隣では、普通の鯖が味噌に漬かっている。
その横にはポテトサラダ。
冷蔵庫には豆腐、葱、鶏肉、刺身用の魚。
さらに奥の棚には、『境界雨』『影片』『夢滓』『真夏霜』と書かれた瓶がいくつか並んでいた。
どれも源次にとっては、仕入れた食材に過ぎない。
午後五時半。
表へ出て暖簾を掛ける。
白い布に黒文字で、
『居酒屋 げんじ』
洒落っ気も何もない。
昔、店を始めるときに名前をどうするか聞かれ、考えるのが面倒だったので自分の名前を平仮名にした。それだけだ。
暖簾が出て十分ほど。
まだ人間の客は来ない。
代わりに引き戸が、がらがらと開いた。
「よう、親父」
「おう」
入ってきたのは、痩せた男だった。
見た目だけなら六十を過ぎたくらいだろう。灰色の髪を後ろへ撫でつけ、古びた背広を着ている。
ただし目だけが妙に大きい。
白目がほとんどなく、黒い瞳が顔の中でやたらと場所を取っている。
そして男が歩いたあとを、その影が半拍ほど遅れてついてきた。
人ではない。
源次は昔から知っている。
「今日は早いな」
「腹減ってんだよ。なんか濃いのある?」
「ある」
男は勝手知ったる様子で、カウンターの左から二番目へ座った。
「どのくらい?」
「三年」
男の目がわずかに細くなる。
「いいねえ。何?」
「煮込み」
「それくれ。あと酒」
「いつもの?」
「いつもの」
源次は徳利を一本出してから、寸胴の蓋を開けた。
牛すじ、大根、こんにゃく。
見た目だけなら、どこにでもある居酒屋の煮込みだ。
だが、椀へ盛った瞬間、湯気の中にほんの一瞬だけ別の景色が浮いた。
机。
積まれた参考書。
消しゴムの屑。
時計の針。
白紙の答案。
そして、何度走っても辿り着けない試験会場。
源次が椀を置く。
「ほら」
「待ってました」
男は箸を取ると、まず牛すじを一切れ口へ入れた。
噛む。
そして動きを止めた。
「……濃いな」
「だろ」
「事故もの?」
「違う」
「病気?」
「受験」
男がもう一度噛んだ。
「これで?」
「三浪目」
「ああ」
それだけで納得したらしい。
今度は大根を食べる。
「いいねえ。追われる感じがちゃんと残ってる」
「火入れしすぎると飛ぶからな」
「去年のよりうまい」
「去年のは素材が若かった」
「やっぱ寝かせた方がいいな、悪夢は」
「ものによる」
源次は答えながら、葱を刻んでいた。
男はしばらく黙って煮込みを食っていたが、半分ほど減ったところで、徳利から酒を注いだ。
「なあ親父」
「ん」
「最近の人間、夢が浅くねえか?」
「知らん」
「浅いんだよ」
「そうか」
「寝ねえんだもん」
源次は包丁を止めなかった。
「昔はよ、一度寝りゃ朝までぐっすりだったろ。そりゃ途中で起きる奴もいたけどさ」
「人によるだろ」
「今は駄目だ。寝る直前まで光る板見て、やっと寝たと思ったら三時間とか四時間で起きやがる」
「スマホな」
「名前なんかどうでもいいよ。あれのせいで夢が育たねえんだ」
男は不満そうに酒を飲んだ。
「こっちはようやく話が乗ってきたところで起こされるんだぞ」
「知らんがな」
「飯で言ったら、前菜食って椀物来たところで『お時間です』って追い出されるようなもんだ」
「それは嫌だな」
「だろ?」
ようやく同意を得られたのが嬉しかったらしい。
男は身を乗り出した。
「しかも最近の夢、細切れなんだよ。仕事の夢見てたと思ったら急に学校になって、次の瞬間知らねえ芸能人が出てきたりする」
「昔からそんなもんだろ」
「質が違うんだって。落ち着きがねえ」
「偏食すんな」
「食ってる側にしか分からねえんだよ、この違いは」
源次は鼻で笑った。
「だったら昔みたいに直接食えばいいだろ」
男の箸が止まった。
「嫌だよ」
「昔は食ってたろ」
「昔はな」
「人ん家入り込んで」
「言い方」
「寝てる奴の頭んとこ座って」
「だから言い方」
「夢だけで済まなくて、本人まで弱らせて」
「……昔の話だろ」
「俺が四晩追い回した」
「三晩だ」
「四晩」
男は眉を寄せた。
「覚えてんのかよ」
「仕事だったからな」
「しつこかったよなあ、お前」
「お前が逃げるからだろ」
「殺されると思ったら逃げるだろ普通」
「普通の奴は寝てる人間の夢すすらねえよ」
「俺には普通なんだよ」
そこは否定できない。
夢を食わなければ、この男は腹を空かせる。
人間が米や肉を食うのと、本質的にはそれほど違わない。
ただ、人間から直接食えば被害が出る。夢だけを綺麗に切り取れるほど器用ではなく、食われた人間は寝ても疲れが取れなくなり、続けば精神まで削れる。
だから昔は、始末する側とされる側だった。
今はこうしてカウンター越しに煮込みを出している。
別に和解した覚えはない。
店を始めたらこいつが来た。
腹が減ったと言うから、食えるものを作った。
それだけだ。
また引き戸が開いた。
「こんばんは」
「おう」
入ってきた女を見て、夢喰いの男も軽く手を上げる。
「よう、榊原」
「こんばんは」
榊原美智子は夢喰いを見ても、特に表情を変えなかった。
そのままカウンターの端へ座る。
四十代半ば。県庁の怪異対策課で長く仕事をしている女だ。
源次とは、彼がまだ始末屋だった頃からの付き合いになる。
「仕事?」
「半分です」
「一番面倒なやつだな」
「私もそう思います」
「飲む?」
「日本酒を。あと焼き魚」
「今日は鯖」
「それで」
榊原は上着を脱ぐと、隣の男の椀を見た。
「今日は悪夢ですか」
男が得意げに言う。
「三年物」
「聞いてません」
「いい出来だぞ」
「食べませんよ」
「人間には味しねえよ」
「ならなおさら要りません」
源次が鯖を網へ乗せる。
脂が落ち、火が上がった。
「それでさあ、榊原」
「はい」
「最近の人間、寝なさすぎ」
「私に言われましても」
「役人だろ?」
「県庁職員が県民の睡眠時間を管理していると思わないでください」
「条例とか作れねえの?」
「作りません」
「夜十二時には全員寝るとか」
「余計なお世話でしょう」
「俺には死活問題なんだよ」
「県民にはもっと死活問題です」
夢喰いは不満そうに唸り、残った煮込みをさらった。
「もういっそ久々に直接行くかな」
源次が網の上の鯖を返しながら言う。
「別にいいけど、やりすぎんなよ」
「なんで?」
源次は顎で榊原を示した。
「こいつの仕事増えるから」
榊原が静かに夢喰いを見る。
「増やしたら普通に案件にしますからね」
「どこから?」
「何がです?」
「案件」
「人間側に継続的な症状が出れば、少なくとも調査は入ります」
「一晩なら?」
「程度によります」
「ちょっと寝不足くらい」
「あなたの『ちょっと』を信用していません」
「失神は?」
「アウト寄りです」
「寄り?」
「その質問を私の目の前でする時点で、かなりアウトです」
夢喰いが源次を見る。
「役人めんどくせえ」
「俺に言うな」
「昔はもっと大らかだったぞ」
「昔のお前は俺に追われてただろ」
「あれはそれ、これはこれだ」
焼けた鯖を榊原へ出し、源次も自分用の湯呑みに茶を注ぐ。
榊原が箸を入れながら、夢喰いを見る。
「でも、最近あなたの名前で案件は上がってませんね」
「だろ?」
夢喰いが胸を張った。
「俺も丸くなったもんよ」
「人を直接食べなくなっただけでしょう」
「十分だろ」
「まあ、それはそうですが」
榊原は鯖を一口食べてから、源次を見た。
「実際、この店に通い始めた怪異の案件化は減っていますからね」
「そうなのか?」
「あなたが把握してないんですか」
「客の外での行動まで知らん」
「そうでしょうね」
「俺は飯屋だからな」
源次はそれだけ言った。
夢喰いが酒を飲みながら笑う。
「親父は昔からそうだよな」
「何が」
「人間助けてる顔しねえの」
「助けてねえよ」
「結果的に助かってるんです」
榊原が言った。
源次は肩をすくめる。
「知らん」
本当に知らない。
腹を空かせた客が来る。
食えるものを出す。
代金を取る。
居酒屋なんだから、それ以上でも以下でもない。
夢喰いが空になった椀を置いた。
「うまかった」
「そりゃどうも」
「勘定」
源次が金額を言う。
男は背広の内側へ手を入れ、それからぴたりと止まった。
「あ」
「金ないんだろ」
「なんで分かった」
「お前が現金持ってきたこと一回でもあるか?」
「ないな」
「じゃあ出せ」
「今日あんまり状態よくねえぞ」
「見てから決める」
夢喰いは嫌そうな顔をしたあと、口を大きく開けた。
人間なら喉が見えるはずの奥に、黒い空洞がある。
そこへ指を二本突っ込んだ。
「うえ」
榊原が眉をしかめる。
「食事中にやらないでもらえます?」
「仕方ねえだろ。ここから出るんだから」
ずるり、と男の口から黒い塊が出てきた。
親指の先ほど。
煤を固めたようにも見えるが、表面には小さな光がちらちらと走っている。
男はそれを皿へ置いた。
「ほら」
源次は指先で摘み上げた。
軽く押す。
柔らかい。
「薄いな」
「だから言っただろ」
「これじゃ足りん」
「じゃあ今度持ってくる」
「駄目」
「常連だぞ俺」
「知ってる」
「ツケ」
「先月の残ってる」
「細かいな」
「商売だからな」
夢喰いは盛大にため息をつくと、もう一度口へ指を入れた。
「だから食事中に……」
「榊原は黙って魚食ってろ」
「何で私が怒られるんです?」
もう一つ、黒い塊が皿へ落ちる。
源次は二つを並べて確認した。
「まあ、これならいい」
「最初から一個でまけろよ」
「嫌だ」
「ケチ」
「次から現金持ってこい」
「人間の金なんかどこで稼ぐんだよ」
「知らん」
夢喰いはぶつぶつ言いながら席を立った。
「じゃあな、親父」
「おう」
「榊原も」
「人間を弱らせない範囲にしてくださいね」
「分かった分かった」
「その返事が一番信用できません」
引き戸が閉まる。
男の影だけが一瞬遅れて外へ消えた。
店内に静けさが戻る。
源次は皿の上の二つの夢滓を、小さな保存瓶へ移した。
黒い塊は瓶の底へ落ちると、ゆっくり溶けるように形を崩していく。
榊原が酒を飲みながらそれを見ていた。
「それ、何に使うんです?」
「ん?」
「夢滓」
「仕込み」
「何の?」
源次は蓋を閉めた。
「さあな」
「決まってないんですか」
「明日来る客次第」
そう言って、奥の倉庫へ瓶を持っていく。
棚には、今日の夢滓以外にもいくつもの瓶が並んでいた。
雨とも水とも違うもの。
光の当たらないところでだけ揺れる黒い薄片。
夏だというのに白く凍りついた小瓶。
誰のものとも分からない声が、時折内側から聞こえる壺。
源次は夢滓を空いている場所へ置いた。
扉を閉める。
カウンターから榊原の声が飛んできた。
「源次さん」
「何」
「鯖、おかわりあります?」
「あるよ」
「ください」
「はいよ」
源次は厨房へ戻った。
外では日が落ち始めている。
これからが、居酒屋げんじの営業時間だった。




