↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
居酒屋げんじ  作者: わかめ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/1

第1話 悪夢の煮込み

午後五時を少し回ったころ、相良源次は寸胴の蓋を開けた。


 湯気と一緒に、醤油と味噌、それから牛すじの脂が混ざった匂いが立ち上る。


 悪くない。


 菜箸で底からひと混ぜして、柔らかくなった大根をひとつ小皿へ取る。箸で割って中まで煮汁が染みているのを確かめてから、端を口へ運んだ。


「……もうちょいか」


 塩を足すほどではない。


 源次は寸胴の火を弱めると、作業台の端に置いてあった茶色い保存瓶を手に取った。


 ラベルには油性ペンで、


『悪夢 三年』


 とだけ書いてある。


 蓋を開ける。


 中身は液体ではない。


 黒とも紫ともつかない、薄い靄のようなものが瓶の底でゆっくりと蠢いていた。


 源次はそれを小さな柄杓で掬い、ほんの一杯だけ寸胴へ落とす。


 じゅ、とも、ぼう、とも違う音がした。


 一瞬だけ厨房の照明が暗くなる。


 遠くで誰かが息を呑むような音が聞こえた。


 源次は気にせず蓋を閉めた。


「これでいいな」


 隣では、普通の鯖が味噌に漬かっている。


 その横にはポテトサラダ。


 冷蔵庫には豆腐、葱、鶏肉、刺身用の魚。


 さらに奥の棚には、『境界雨』『影片』『夢滓』『真夏霜』と書かれた瓶がいくつか並んでいた。


 どれも源次にとっては、仕入れた食材に過ぎない。


 午後五時半。


 表へ出て暖簾を掛ける。


 白い布に黒文字で、


『居酒屋 げんじ』


 洒落っ気も何もない。


 昔、店を始めるときに名前をどうするか聞かれ、考えるのが面倒だったので自分の名前を平仮名にした。それだけだ。


 暖簾が出て十分ほど。


 まだ人間の客は来ない。


 代わりに引き戸が、がらがらと開いた。


「よう、親父」


「おう」


 入ってきたのは、痩せた男だった。


 見た目だけなら六十を過ぎたくらいだろう。灰色の髪を後ろへ撫でつけ、古びた背広を着ている。


 ただし目だけが妙に大きい。


 白目がほとんどなく、黒い瞳が顔の中でやたらと場所を取っている。


 そして男が歩いたあとを、その影が半拍ほど遅れてついてきた。


 人ではない。


 源次は昔から知っている。


「今日は早いな」


「腹減ってんだよ。なんか濃いのある?」


「ある」


 男は勝手知ったる様子で、カウンターの左から二番目へ座った。


「どのくらい?」


「三年」


 男の目がわずかに細くなる。


「いいねえ。何?」


「煮込み」


「それくれ。あと酒」


「いつもの?」


「いつもの」


 源次は徳利を一本出してから、寸胴の蓋を開けた。


 牛すじ、大根、こんにゃく。


 見た目だけなら、どこにでもある居酒屋の煮込みだ。


 だが、椀へ盛った瞬間、湯気の中にほんの一瞬だけ別の景色が浮いた。


 机。


 積まれた参考書。


 消しゴムの屑。


 時計の針。


 白紙の答案。


 そして、何度走っても辿り着けない試験会場。


 源次が椀を置く。


「ほら」


「待ってました」


 男は箸を取ると、まず牛すじを一切れ口へ入れた。


 噛む。


 そして動きを止めた。


「……濃いな」


「だろ」


「事故もの?」


「違う」


「病気?」


「受験」


 男がもう一度噛んだ。


「これで?」


「三浪目」


「ああ」


 それだけで納得したらしい。


 今度は大根を食べる。


「いいねえ。追われる感じがちゃんと残ってる」


「火入れしすぎると飛ぶからな」


「去年のよりうまい」


「去年のは素材が若かった」


「やっぱ寝かせた方がいいな、悪夢は」


「ものによる」


 源次は答えながら、葱を刻んでいた。


 男はしばらく黙って煮込みを食っていたが、半分ほど減ったところで、徳利から酒を注いだ。


「なあ親父」


「ん」


「最近の人間、夢が浅くねえか?」


「知らん」


「浅いんだよ」


「そうか」


「寝ねえんだもん」


 源次は包丁を止めなかった。


「昔はよ、一度寝りゃ朝までぐっすりだったろ。そりゃ途中で起きる奴もいたけどさ」


「人によるだろ」


「今は駄目だ。寝る直前まで光る板見て、やっと寝たと思ったら三時間とか四時間で起きやがる」


「スマホな」


「名前なんかどうでもいいよ。あれのせいで夢が育たねえんだ」


 男は不満そうに酒を飲んだ。


「こっちはようやく話が乗ってきたところで起こされるんだぞ」


「知らんがな」


「飯で言ったら、前菜食って椀物来たところで『お時間です』って追い出されるようなもんだ」


「それは嫌だな」


「だろ?」


 ようやく同意を得られたのが嬉しかったらしい。


 男は身を乗り出した。


「しかも最近の夢、細切れなんだよ。仕事の夢見てたと思ったら急に学校になって、次の瞬間知らねえ芸能人が出てきたりする」


「昔からそんなもんだろ」


「質が違うんだって。落ち着きがねえ」


「偏食すんな」


「食ってる側にしか分からねえんだよ、この違いは」


 源次は鼻で笑った。


「だったら昔みたいに直接食えばいいだろ」


 男の箸が止まった。


「嫌だよ」


「昔は食ってたろ」


「昔はな」


「人ん家入り込んで」


「言い方」


「寝てる奴の頭んとこ座って」


「だから言い方」


「夢だけで済まなくて、本人まで弱らせて」


「……昔の話だろ」


「俺が四晩追い回した」


「三晩だ」


「四晩」


 男は眉を寄せた。


「覚えてんのかよ」


「仕事だったからな」


「しつこかったよなあ、お前」


「お前が逃げるからだろ」


「殺されると思ったら逃げるだろ普通」


「普通の奴は寝てる人間の夢すすらねえよ」


「俺には普通なんだよ」


 そこは否定できない。


 夢を食わなければ、この男は腹を空かせる。


 人間が米や肉を食うのと、本質的にはそれほど違わない。


 ただ、人間から直接食えば被害が出る。夢だけを綺麗に切り取れるほど器用ではなく、食われた人間は寝ても疲れが取れなくなり、続けば精神まで削れる。


 だから昔は、始末する側とされる側だった。


 今はこうしてカウンター越しに煮込みを出している。


 別に和解した覚えはない。


 店を始めたらこいつが来た。


 腹が減ったと言うから、食えるものを作った。


 それだけだ。


 また引き戸が開いた。


「こんばんは」


「おう」


 入ってきた女を見て、夢喰いの男も軽く手を上げる。


「よう、榊原」


「こんばんは」


 榊原美智子は夢喰いを見ても、特に表情を変えなかった。


 そのままカウンターの端へ座る。


 四十代半ば。県庁の怪異対策課で長く仕事をしている女だ。


 源次とは、彼がまだ始末屋だった頃からの付き合いになる。


「仕事?」


「半分です」


「一番面倒なやつだな」


「私もそう思います」


「飲む?」


「日本酒を。あと焼き魚」


「今日は鯖」


「それで」


 榊原は上着を脱ぐと、隣の男の椀を見た。


「今日は悪夢ですか」


 男が得意げに言う。


「三年物」


「聞いてません」


「いい出来だぞ」


「食べませんよ」


「人間には味しねえよ」


「ならなおさら要りません」


 源次が鯖を網へ乗せる。


 脂が落ち、火が上がった。


「それでさあ、榊原」


「はい」


「最近の人間、寝なさすぎ」


「私に言われましても」


「役人だろ?」


「県庁職員が県民の睡眠時間を管理していると思わないでください」


「条例とか作れねえの?」


「作りません」


「夜十二時には全員寝るとか」


「余計なお世話でしょう」


「俺には死活問題なんだよ」


「県民にはもっと死活問題です」


 夢喰いは不満そうに唸り、残った煮込みをさらった。


「もういっそ久々に直接行くかな」


 源次が網の上の鯖を返しながら言う。


「別にいいけど、やりすぎんなよ」


「なんで?」


 源次は顎で榊原を示した。


「こいつの仕事増えるから」


 榊原が静かに夢喰いを見る。


「増やしたら普通に案件にしますからね」


「どこから?」


「何がです?」


「案件」


「人間側に継続的な症状が出れば、少なくとも調査は入ります」


「一晩なら?」


「程度によります」


「ちょっと寝不足くらい」


「あなたの『ちょっと』を信用していません」


「失神は?」


「アウト寄りです」


「寄り?」


「その質問を私の目の前でする時点で、かなりアウトです」


 夢喰いが源次を見る。


「役人めんどくせえ」


「俺に言うな」


「昔はもっと大らかだったぞ」


「昔のお前は俺に追われてただろ」


「あれはそれ、これはこれだ」


 焼けた鯖を榊原へ出し、源次も自分用の湯呑みに茶を注ぐ。


 榊原が箸を入れながら、夢喰いを見る。


「でも、最近あなたの名前で案件は上がってませんね」


「だろ?」


 夢喰いが胸を張った。


「俺も丸くなったもんよ」


「人を直接食べなくなっただけでしょう」


「十分だろ」


「まあ、それはそうですが」


 榊原は鯖を一口食べてから、源次を見た。


「実際、この店に通い始めた怪異の案件化は減っていますからね」


「そうなのか?」


「あなたが把握してないんですか」


「客の外での行動まで知らん」


「そうでしょうね」


「俺は飯屋だからな」


 源次はそれだけ言った。


 夢喰いが酒を飲みながら笑う。


「親父は昔からそうだよな」


「何が」


「人間助けてる顔しねえの」


「助けてねえよ」


「結果的に助かってるんです」


 榊原が言った。


 源次は肩をすくめる。


「知らん」


 本当に知らない。


 腹を空かせた客が来る。


 食えるものを出す。


 代金を取る。


 居酒屋なんだから、それ以上でも以下でもない。


 夢喰いが空になった椀を置いた。


「うまかった」


「そりゃどうも」


「勘定」


 源次が金額を言う。


 男は背広の内側へ手を入れ、それからぴたりと止まった。


「あ」


「金ないんだろ」


「なんで分かった」


「お前が現金持ってきたこと一回でもあるか?」


「ないな」


「じゃあ出せ」


「今日あんまり状態よくねえぞ」


「見てから決める」


 夢喰いは嫌そうな顔をしたあと、口を大きく開けた。


 人間なら喉が見えるはずの奥に、黒い空洞がある。


 そこへ指を二本突っ込んだ。


「うえ」


 榊原が眉をしかめる。


「食事中にやらないでもらえます?」


「仕方ねえだろ。ここから出るんだから」


 ずるり、と男の口から黒い塊が出てきた。


 親指の先ほど。


 煤を固めたようにも見えるが、表面には小さな光がちらちらと走っている。


 男はそれを皿へ置いた。


「ほら」


 源次は指先で摘み上げた。


 軽く押す。


 柔らかい。


「薄いな」


「だから言っただろ」


「これじゃ足りん」


「じゃあ今度持ってくる」


「駄目」


「常連だぞ俺」


「知ってる」


「ツケ」


「先月の残ってる」


「細かいな」


「商売だからな」


 夢喰いは盛大にため息をつくと、もう一度口へ指を入れた。


「だから食事中に……」


「榊原は黙って魚食ってろ」


「何で私が怒られるんです?」


 もう一つ、黒い塊が皿へ落ちる。


 源次は二つを並べて確認した。


「まあ、これならいい」


「最初から一個でまけろよ」


「嫌だ」


「ケチ」


「次から現金持ってこい」


「人間の金なんかどこで稼ぐんだよ」


「知らん」


 夢喰いはぶつぶつ言いながら席を立った。


「じゃあな、親父」


「おう」


「榊原も」


「人間を弱らせない範囲にしてくださいね」


「分かった分かった」


「その返事が一番信用できません」


 引き戸が閉まる。


 男の影だけが一瞬遅れて外へ消えた。


 店内に静けさが戻る。


 源次は皿の上の二つの夢滓を、小さな保存瓶へ移した。


 黒い塊は瓶の底へ落ちると、ゆっくり溶けるように形を崩していく。


 榊原が酒を飲みながらそれを見ていた。


「それ、何に使うんです?」


「ん?」


「夢滓」


「仕込み」


「何の?」


 源次は蓋を閉めた。


「さあな」


「決まってないんですか」


「明日来る客次第」


 そう言って、奥の倉庫へ瓶を持っていく。


 棚には、今日の夢滓以外にもいくつもの瓶が並んでいた。


 雨とも水とも違うもの。


 光の当たらないところでだけ揺れる黒い薄片。


 夏だというのに白く凍りついた小瓶。


 誰のものとも分からない声が、時折内側から聞こえる壺。


 源次は夢滓を空いている場所へ置いた。


 扉を閉める。


 カウンターから榊原の声が飛んできた。


「源次さん」


「何」


「鯖、おかわりあります?」


「あるよ」


「ください」


「はいよ」


 源次は厨房へ戻った。


 外では日が落ち始めている。


 これからが、居酒屋げんじの営業時間だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。