迷宮配達人ですが、十年前に死んだ勇者宛ての手紙を預かりました
迷宮都市ラグナには、地上の郵便屋が入らない場所がある。
第一層の酒場。第七層の仮眠所。第十二層の採掘小屋。
そして、帰ってくる保証のない下層。
そういう場所へ手紙や荷物を届けるのが、俺たち迷宮配達人の仕事だった。
「リオ、これ行ける?」
受付のマリーが、封筒を一枚、指先でつまんで見せた。古い封蝋。赤ではなく、もう茶色に近い。宛名の文字は震えていた。
俺は受け取る前に、差出人の欄を見た。
「……勇者アルト・レイン?」
「宛先ね」
「知ってるよ。十年前に死んだ勇者だ」
マリーは口を閉じた。彼女が黙る時は、だいたい面倒な仕事だ。
俺は封筒を裏返した。宛先はこう書かれていた。
第十八層、灰の礼拝堂。
勇者アルト・レイン様。
「誰が出した」
「老人。名前はロウって言ってた。杖ついて、咳して、でも代金は前払い」
「断れよ」
「断ったわよ。でもね」
マリーは机の下から、小さな革袋を出した。中には古い金貨が六枚。十年前の王都造幣。今ではほとんど流通していない。
「……高すぎる」
「だから困ってるの」
俺は封筒を見た。封蝋には剣と月の紋章。勇者一行の印だった。
「死者宛ての手紙は届けられない」
「普通はね」
「普通じゃないのか」
マリーは目を逸らした。
「その老人、言ったのよ。『あいつは死んでない。ただ帰ってこないだけだ』って」
酒場の奥で誰かが笑った。皿が鳴る。外では朝市の呼び声。
迷宮の入口は、今日も口を開けている。
俺は革袋から金貨を一枚だけ抜き、残りをマリーに返した。
「一枚でいい。帰ってこなかったら、犬にでもやってくれ」
「犬、飼ってないけど」
「じゃあ買え」
マリーは少し笑った。それから、封筒を両手で差し出した。
「リオ」
「ん」
「開けないでね」
「配達人だぞ」
「知ってる」
封筒は、思ったより軽かった。
*
第十八層まで行く者は少ない。
十年前、勇者アルトが魔王を追って降りたのが、そこだったと言われている。戻ったのは、聖女の杖だけ。魔法使いの指輪だけ。剣士の右腕だけ。
勇者本人は見つからなかった。
王国は三日喪に服し、広場に石像を建て、吟遊詩人たちは泣ける歌を作った。それで終わり。
迷宮だけが、終わらなかった。
第十二層を過ぎると、壁の色が変わる。
赤茶けた岩肌に、灰が薄く積もっている。踏むたびに靴跡が残った。
第十五層で、俺は小鬼の群れをやり過ごした。第十六層で、折れた剣を拾った。柄に月の傷。勇者のものではなさそうだったが、古いものだ。
第十七層では、白い花が咲いていた。日も差さない迷宮の底で、花だけがやけにきれいだった。
俺は少し離れて歩いた。
触るな、と昔の師匠に言われたことがある。きれいすぎるものは、だいたい腹が減っている。
第十八層に着いた時、携帯灯の油は半分を切っていた。
灰の礼拝堂は、地図より奥にあった。石の扉は壊れていて、柱は傾き、祭壇には灰が積もっている。風もないのに、細かい灰が時々浮いた。
誰もいない。
そう思って、一歩踏み込んだ。
「配達か」
声がした。
若くも、年寄りでもない声。俺は腰の短剣に手をかけた。
祭壇の奥。崩れた壁にもたれて、男が座っていた。
鎧は錆びている。髪は肩まで伸び、顔の半分に黒い紋様が這っていた。右手は人間のものだったが、左腕は石のように固まっている。
生きているというより、迷宮に生かされているように見えた。けれど、その目だけは妙に澄んでいた。
「……アルト・レイン?」
「まだ、そう呼ぶやつがいるのか」
男は笑いかけて、うまくいかなかったように口元を歪めた。
「手紙だ」
俺は封筒を出した。男はしばらく見ていた。
受け取ろうとして、石の左腕が動かないことに気づいたらしい。右手を上げるのにも、ずいぶん時間がかかった。
俺は近づき、封筒を渡した。
配達完了。
それで帰るはずだった。
だが男は封蝋に指をかけたまま、止まった。
「読んでくれ」
「自分で読め」
「目が、もう半分きかない」
嘘ではなさそうだった。
俺は少し迷った。配達人は手紙を読まない。だが受取人が頼んだ場合は、別だ。規則の五番。たぶん。細かい文言までは覚えていない。
「いいのか」
「ああ」
俺は封を切った。中には紙が一枚だけ。字は震えていた。ところどころ、インクが滲んでいる。
俺は読み始めた。
『アルトへ。
お前がこれを読むことはないと思っていた。そう思いながら、十年書けなかった。
俺はあの日、道を教えた。お前たちが通る道を、王宮の連中に売った。
魔王を討てば、お前は英雄になり、俺はただの荷物持ちのままだった。それが嫌だった。
俺は、お前が少し失敗すればいいと思った。少しだけだ。
でも、王宮は最初からお前を帰す気がなかった。魔王と一緒に、勇者も迷宮に封じるつもりだった。
知らなかった、とは書けない。知ろうとしなかった。
聖女の杖を拾った。魔法使いの指輪も、剣士の腕も見た。お前だけが見つからなかった。
だから生きていると、勝手に思った。
許してほしいとは言わない。
ただ、あの日の俺が、お前の後ろで笑っていたことを、ここに置いていく。
ロウ』
読み終えても、男は動かなかった。
灰が一つ、彼の膝に落ちた。俺は紙を畳もうとして、裏にも文字があることに気づいた。
「続きがある」
「読め」
『追伸。
お前の剣は、まだ俺が持っている。
重い。馬鹿みたいに重い。俺には抜けない。
だから、これは俺が地獄まで持っていく。
先に行く。
お前は、できればまだ来るな。』
礼拝堂のどこかで、石が落ちた。
それだけだった。
男は、長いこと黙っていた。
怒るでもなく、笑うでもなく、ただ右手で紙の端を撫でた。指がうまく曲がらないのか、爪だけが紙に当たって、かすかな音を立てた。
「ロウは」
「たぶん、もう長くない」
「そうか」
「死んだかもしれない」
「そうか」
同じ返事だった。
俺は立ち上がろうとした。
「配達は終わった。受領印は要らない。ここまで来て印鑑探す気はない」
「配達人」
「リオだ」
「リオ。返事を頼めるか」
俺は振り向いた。
「紙は?」
「ない」
「インクは?」
「ない」
「じゃあ無理だな」
男は少し考えた。それから、右手を胸元に持っていった。
鎧の下から、小さな金属片を外す。古い認識票だった。名前の部分は擦れていたが、月の紋章だけは残っている。
「これを」
「誰に」
「ロウに。生きていたら」
「死んでたら?」
男は、その時だけこちらを見た。
「墓に」
俺は認識票を受け取った。
冷たくはなかった。
「何て伝える」
男は口を開きかけた。閉じた。また開いた。
「……重かったか、と」
「剣が?」
「いや」
男は紙を見た。
「十年が」
それ以上は言わなかった。
俺も聞かなかった。
*
地上に戻ると、雨が降っていた。
マリーは酒場の入口に立っていた。俺の顔を見て、何か言いかけ、やめた。
「犬、買ったか」
「買ってない」
「そうか」
俺はカウンターに認識票を置いた。
「ロウって老人は?」
マリーは奥の椅子を見た。そこには誰もいない。
「昨日の夜、宿で亡くなったって」
「墓は」
「北門の共同墓地。名札だけ」
俺は認識票をまた拾った。
雨は細かく、しつこかった。
共同墓地には、真新しい土の山があった。
ロウ、とだけ書かれた木札。姓はない。俺はその前にしゃがみ、認識票を置いた。
「重かったか、だとさ」
返事はない。
当たり前だ。死者宛ての配達は、いつもこうだ。
でも、土の上に落ちた雨が、認識票の月の紋章を少し洗った。
俺はしばらくそれを見ていた。
それから立ち上がった。
明日も配達がある。第五層の薬草小屋へ薬。第九層の採掘班へ請求書。
そして、誰かがまた言うのだろう。
そこに届けても意味がない、と。
俺はたぶん、また受け取る。
意味があるかどうかは、届けた後で決めればいい。
北門の鐘が、雨の向こうで三つ鳴った。
迷宮の入口は、まだ開いている。




