婚約者の幼馴染が二十四回目のお詫びに来たので、氷の令嬢は書斎にある人を隠してみました
「ご覧になって。ダミアン様は今夜もエレーヌ様のおそばにいらっしゃるみたい」
「これで二十四回目ですって。お二人で夜会にいらっしゃった回数よりも、ずっと多いんじゃないかしら」
「でも、クロエ様はまるで動じていらっしゃらないわね」
「さすが次期アレクサンドル公爵夫人。本当に気高いお方ですこと」
ある春の日の夜会で、クロエ・ブランシェ伯爵令嬢はささやかな"見世物"になっていた。
会場の片隅、扇の陰でくすくすと笑い交わす令嬢たち。
クロエは聞こえないふりをして、グラスのワインに視線を落とした。
——気高い、ですって。
クロエはグラスを持ち上げると、自嘲する代わりにゆっくりとワインを唇に運んだ。
飲み慣れた銘柄のはずのそれが、今夜はやけに渋く感じる。
婚約者にいくら蔑ろにされようとも動じない、氷のような令嬢。それが社交界における、クロエの評判だ。
それはひとえに、婚約者であるダミアン・アレクサンドル公爵令息の行いのせいだった。
ダミアンは、幼馴染であるエレーヌ・カルヴァン伯爵令嬢を常に優先している。
エレーヌが熱を出したから、食事をあまり摂れないから、そう言って、クロエと婚約をしてからの四年間で二十四回、約束を反故にしたのだ。
そして、その度に社交界に律儀にふれ回っているのは——他でもない、エレーヌ自身だった。
「ダミアン様にまたご迷惑をおかけしてしまって……クロエ様にも本当に申し訳ないわ……」
クロエが一人で社交の場に立たされるたび、エレーヌは瞳を潤ませてそう嘆いた。
体が弱い自分のせいでクロエの婚約者を呼びつけてしまう、と。
それを聞いた令嬢たちは「エレーヌ様、お気の毒に」と同情し、その情報を律儀に拡散していく。
“でも、クロエ様は気高い方ですもの”
“いつも一人で、堂々と立っていらっしゃるわ”
“きっと、なんとも思っていないのよ”
そんな囁きが社交界に広まっていくうちに、面白がってクロエが約束を反故にされた回数を数え始める者まで現れた。
——それが、どれほどクロエを傷つけているかも知らずに。
クロエを取り巻く環境は、彼女がか弱い令嬢でいることを許さなかった。
ブランシェ伯爵家の当主であるクロエの父は、病のため長年床に伏せている。
当主が病に倒れてからというもの、ブランシェ家は静かに傾いていった。
次期当主である弟のノエルは当時まだ五歳で、母は家の中を切り盛りするだけで精一杯。
愛する家族の危機を前に、クロエは必死に頑張った。父の代わりとなり領地経営をなんとかこなし、心労で今にも倒れそうな母を支え、幼い弟を導く。
そんなクロエの奮闘は、意外な形で実を結んだ。
ダミアンの父であるアレクサンドル公爵がクロエの手腕に目をつけ、伯爵家への援助とダミアンとの婚約を申し出たのだ。
頼れる者がいなかった当時のクロエにとって、それはまるで救いの手のように感じられた。
一も二もなく承諾したクロエに待ち受けていたのが、ダミアンからのこの仕打ちだ。
しかし、次期公爵夫人ともあろう人間が、人前で婚約者の不義理を嘆くことなど許されない。
クロエ自身もそうだが、何より公爵家の名に傷がついてしまうからだ。
いついかなる時も冷静沈着に。完璧であれ。動じるな。
常にそう自分に言い聞かせ、クロエは長いこと必死に立っていた。
そうでもしないとすぐに崩れ落ちて、二度と立てなくなってしまうから。
◇◇◇
人の目を避けるように中庭に出ると、クロエのアルコールで少しほてった頬を夜風が優しく撫でる。
クロエは噴水の縁に手をついて、しばらく立っていた。
腰を下ろさなかったのは、座ったら立ち上がるのに力が要りそうだったからだ。
ダミアンは今夜もクロエの隣にはいない。
エレーヌが寝込んだから自分がそばにいなければという伝言が、彼の友人であるテオドール・モンフォール公爵令息からもたらされた。
ダミアンはきっと、またあのお決まりの言葉が書かれた手紙をよこすのだろう。
“多忙な君を、こんなことで煩わせるわけにはいかない”、と。
四年間、ダミアンの伝言には決まってこの一文が添えられていた。
最初は、気を遣ってくれているのだと思った。
しかし今となっては、これが本当に彼自身の言葉なのかどうか、わからなくなっている。
(思えば、エレーヌ様への見舞いを最初に申し出た時も、彼女に“ご多忙なクロエ様を煩わせるわけにはいかない”と断られたんだっけ……)
どちらが言い出したことなのかだなんて、もはや関心はないが。
クロエは、噴水の水面に映る月をぼんやりと見下ろして考えた。
ブランシェ家の領地経営は、このところ安定している。
父の容態も峠を越え、母も少しずつ余裕が出てきた。
十歳となった弟のノエルは、すでに帳簿を読みこなし始めていた。あの子は、思っていたよりもずっと早く成長している。
(……もう、終わりにしていいかしら)
クロエは、ゆっくりと噴水の縁から手を離した。
四年間、彼は何度も約束を破ったのだ。
——もう、十分だろう。
◇◇◇
「お父様、少しお時間よろしいでしょうか」
帰宅後、父のもとを訪れたクロエは、安堵のため息をついた。
ベッドの上にいる父は、上半身を起こして書類を読んでいた。
頬はかさついていたが、目には力強い光が戻っている。
「随分早く帰ってきたな」
「今夜は少々酔いが回ってしまいまして」
「……ダミアン様は、今夜も来なかったそうだな」
父のどこか悲しげな声に、クロエは心配させまいと穏やかに告げた。
「問題ありません。事情があったのだと、テオドール様から伺っております」
きっとまた、ダミアン様からお詫びのお菓子と、テオドール様からご機嫌伺いの贈り物が届いてしまいますね。と言って微笑むクロエに、父は表情を固くしたままだ。
「クロエ」
父は、手にしていた書類をわきへと置くと、絞り出すように言った。
「本当は、もっと前に言ってやるべきだったんだが……」
父の声は、少し掠れていた。
けれど、四年前に床に伏せた時の弱々しさは、もうどこにもない。
「もう、自分を殺して生きなくてもいい」
クロエはその言葉に、目を見開いた。
「お前のおかげで領地経営は安定し、私の容態も峠を越えた。アンヌもだいぶ心に余裕ができたようだし、ノエルは十歳とは思えんほど早く育っている。——これ以上、お前ばかりが重荷を背負う必要はない」
(……ああ)
クロエの胸の奥で、何かが震えた。
今まで必死に堪えていたものが、一気に涙となって溢れてくる。
「っお父様、私は——」
「クロエ、ダミアン様との婚約のことで、お前自身の気持ちはどうなんだ」
「……」
「すでに十分すぎるほど耐えた。私たちは、お前があの男から自由になっていいと思っている」
父は、クロエの手をそっと両手で包んだ。
「だが、これは、お前自身が決めることだ。お前が何を選択しようと、私たちはお前の意思を尊重する」
父の手は、クロエの記憶よりずっと痩せている。それでも、その温度は昔と変わらず温かいままだった。
「……実は私、お願いにきたのです。ダミアン様との婚約を解消させて欲しいと」
クロエが泣き笑いの顔でそう告げると、父は目を丸くしてから嬉しそうに破顔した。
「そうか。……そうか。クロエ、これからはお前自身のためだけに生きればいい」
父のその言葉に喜びが湧き上がると同時に、ふとある人物の顔がクロエの頭をよぎる。
新月の夜のような黒髪と、深い海のように青い瞳の持ち主、テオドールだ。
ダミアンが約束を反故にするたび、彼はいつもちょっとした贈り物をくれた。
観劇を逃した時は、間違えて2冊買ってしまったと言って、見られなかった劇の原作本を。
バラをテーマにした舞踏会のエスコートを反故にされた時は、屋敷の庭で咲きすぎたと言って、バラの花束を。
さらには、領地経営で疲れていた時期には、母が買い込みすぎたと言って、茶葉を贈られたこともある。
すべて、“自分から”ではなく“たまたま手に入って”という体裁を保っていたが、そのどれもがクロエのために用意されたものであることは疑いようもなかった。
わざわざ友人であるダミアンのフォローをするなんて、できた人だ、とクロエはずっと思っていたのだが。
(——ダミアン様との婚約を解消したら、きっともう関わることはなくなるのでしょうね)
その事実に、クロエの胸が少しだけ痛む。
しかし、今は感傷に浸っている暇はないと、その感情に蓋をした。
◇◇◇
翌朝。
ブランシェ伯爵邸の応接間に隣接する書斎で、ダミアン・アレクサンドル公爵令息は、戸惑った様子で立っていた。
「クロエ、これは一体どういうことだ」
「急なお呼び立てにも関わらず、お越しいただきありがとうございます、ダミアン様」
昨夜、クロエは父との話し合いが終わってすぐにダミアンへ手紙を送ったが、来てもらえるという確信はなかった。
クロエはダミアンの来訪に内心で安堵し、穏やかに微笑んだ。
「実は、一つだけお願いがあるのです。昨夜の夜会を欠席なさったお詫びとして、お聞きいただけますか」
ダミアンが、驚いたように目を丸くした。
いくら約束を反故にしようとも、クロエが自分から何かをねだることなど、今まで一度もなかったからだ。
「……何だ」
「これから、エレーヌ様がいらっしゃると思います。ダミアン様は書斎にお隠れになって、ただ黙って、最後まで私たちの話をお聞きいただきたいのです」
「なんだって? なぜエレーヌが——」
「お願いします、ダミアン様」
クロエはダミアンの言葉を遮り、キッパリと告げた。
「私の話は信じてくださらなくて結構です。ただ、ご自身の耳で聞いたものをどう受け取るかは、あなた自身でご判断ください」
ダミアンは何か言いかけて、結局、口を閉じた。
クロエの初めての"お願い"を、受け入れる気になったらしい。
「分かった、それで君の気が晴れるのなら」
クロエは応接間に向かいながら、書斎を振り返って言った。
「ダミアン様。何があっても、終わるまで動かないでくださいね」
ダミアンの戸惑った視線を背に受けながら、クロエは応接間の扉を開けた。
◇◇◇
「お嬢様、カルヴァン伯爵令嬢がいらっしゃいました」
執事がエレーヌの来訪を告げると、隣の部屋でダミアンが小さく息を呑む音が聞こえた。
何も知らない彼は、エレーヌがここに来ることすら半信半疑だったのだろう。
クロエはゆっくりと開かれる扉を眺めながら、ぼんやりと考えた。
エレーヌのブランシェ邸訪問は、これで何度目になるだろう。
ダミアンが約束をすっぽかすたび、エレーヌはその翌日に、必ず"お詫び"と称してクロエの元を訪れた。
それこそ、クロエの都合などお構いなしに。
去年の春、クロエが領地の水害対応で寝る間もなく仕事に追われていた時も、エレーヌは来た。
夏の終わり、父の病状が急変して家族全員が憔悴していた時も、エレーヌは来た。
冬、母が倒れて使用人たちが大わらわだった日にも、エレーヌは来た。
そのすべてで、エレーヌは不思議なほど、肌艶が良かった。
父の容態の悪化に怯え、寝不足で頬がやつれ、それでも淑女として微笑むことを自らに強いていたあの頃。鏡に映るクロエの顔色は土気色だった。
そんなクロエの前で、エレーヌはいつも血色の良い頬で「私の体が弱いばかりに……」と嘆いていたのだ。
応接間に通されたエレーヌは、彼女の清廉なイメージにピッタリの、繊細なレースのドレスを身に纏っている。
悲しげに眉を下げてはいるが、その頬は健康的に赤らんでいた。
「クロエ様、突然のご訪問をお許しくださいませ。私のせいで昨夜の夜会にお一人で参加されたと聞き、どうしても謝罪させていただきたくて……」
エレーヌはそう言いながら、クロエに歩み寄ってきた。
その歩き方を見て、クロエは内心で苦笑する。
(相変わらず、昨日まで寝込んでいた人の足取りじゃないわね)
しばらく寝込んでいると、筋肉が衰えて足元が覚束なくなる。クロエは病に伏せ衰えていく父の姿を、ずっと間近で見ていた。
だが目の前のエレーヌは、絨毯の上をしっかりとした足取りで歩いている。
「お気になさらないで、エレーヌ様。どうぞおかけになって」
クロエが穏やかに微笑むと、エレーヌは慣れた様子で向かいのソファに腰を下ろした。
エレーヌがティーカップに手を伸ばす。
桜貝のような淡い色の爪が、窓から差し込む光を受けて、つやつやと光っている。血色のよい、健やかな指先だった。
(爪の色まで、こんなに健康的なのね)
クロエは何気なく、自分の指先に視線を落とした。
爪の色は蝋のように白く、表面は少しでこぼこしている。
おそらく食事をおろそかにしていることによる貧血と、過労のせいだろうと、クロエは小さくため息をついた。
エレーヌはそんなクロエの様子にも気づかず、いつものように、ペラペラとダミアンが何をしてくれたかを語っている。
この自虐を装った自慢を聞くのもこれで最後だと思うと、どこか清々しい気持ちにすらなってしまう。
クロエは微笑みを浮かべたまま、目の前の儚げな令嬢を真っ直ぐに見つめて、口を開いた。
「エレーヌ様。あなた、本当は健康なのでは?」
応接間の空気が、凍った。
エレーヌの蜂蜜色の瞳が、微かに泳ぐ。
しかし、すぐに悲しげに顔を歪めると、大袈裟なほどに嘆いてみせた。
「ひ、ひどいわ……クロエ様! いくらわたくしのことが憎いからといって——」
「エレーヌ様の頬は相変わらず、美しい薔薇色ですね」
羨ましいくらいに、とクロエは小さく呟いた。
「何ヶ月も寝込んでいる人が、こんなに健やかな血色をしているものでしょうか? 爪の色も、唇の色も、足取りも、ぜんぶ健やかでいらっしゃる。本当に昨夜まで寝込んでいらっしゃったのかしら」
エレーヌの呼吸が、大きく乱れる。
弁明しようと口を開き、しかし言葉が見つからないようで、ただ唇を震わせるだけで言葉はなかった。
やがてエレーヌは俯くと、絞り出すような声で言った。
「……どうして。どうして、そんなことを断言できるの」
「長く病に伏せていた方を、間近で見ていたからです」
クロエは端的に答えた。
「だから、見えるんです。本当に体の弱い方と、そうでない方の違いが」
繊細なレースのドレスが、指先が白くなるほどきつく握られている。
激しい感情に体を震わせていたエレーヌだったが、突然笑いだした。
それは低く、乾いた笑い声だった。
「……そう。気付いていらしたのね」
エレーヌは顔を上げた。
その目には、もうか弱さはなかった。
あるのは、ただ純粋な憎しみだけ。
「どうして病弱なふりなどしていたのですか? そんなことをしたところで——」
「うるさいっ!」
エレーヌの叫び声が、応接間に響き渡った。
「あなたみたいに無感情で氷のような女が、何の苦労もなくダミアン様の婚約者の座にいて、わたくしは……わたくしはっ!」
喚き散らすエレーヌは、まるで癇癪を起こした幼子のようだった。
クロエはその様子を冷静に観察しながら、確かに“これ”と比べると自分は氷のように見えるだろうな、とどこか他人事のように考えた。
「わたくしはダミアン様を、子供の頃からずっとお慕いしていたのよ。おそばにいるためなら、何度だって病気のふりもした。それなのに、病弱なわたくしには公爵夫人は務まらないだなんて理由で、婚約は許されなかった。わたくしたちは愛し合っているのに……!」
“愛し合っている”とエレーヌが口にした瞬間、書斎へと続く扉の方で小さな物音がした。
しかし、すっかり興奮状態に陥っているエレーヌの耳には届いていない。
「だから、せめてあなたからダミアン様との時間を奪うくらい、許されるでしょう? あなたはただ惨めに、選ばれなかった女として笑い物になればいいのよっ!」
——その時。
書斎側の扉が、静かに開いた。
耐えられなくなったダミアンが、応接間に足を踏み入れたのだ。
エレーヌの顔から、血の気が一瞬で引いていく。
「……ダミアン様……?」
ダミアンは、エレーヌを見なかった。
彼の目は、クロエだけを見つめていた。
それは四年間で初めて、彼がクロエを真っ直ぐに見た瞬間だった。
エレーヌが、震える声で何かを言いかけた。
だがダミアンは、視線をクロエから外さない。エレーヌなど、まるで存在しないかのように振る舞っている。
そんなダミアンにすがるように、エレーヌは必死にダミアンの腕を引いて訴えかけようとした。
「……ダミアン様、違うのです、わたくしは——」
「触るな」
その声は、これまでの二人の間柄を思えばあり得ないほど、冷え切っていた。
エレーヌはぞんざいに払いのけられた手を下すこともできず、呆然と立ち尽くしている。
そんな二人に冷めた眼差しを向けると、クロエは少しぬるくなった紅茶を口に含んだ。
◇◇◇
エレーヌが去った後も、ダミアンはしばらく無言だった。
窓の外を見て、それからテーブルの上のティーカップを見て、ようやく口を開く。
「……俺は、馬鹿だった。四年間、エレーヌを優先してきた。彼女は体が弱いと信じていたし……君は俺のことなど煩わしく思っていると、ずっと聞かされていたから。確かめようともせず鵜呑みにして、君には本当に申し訳——」
「ダミアン様」
クロエは穏やかな口調で遮った。
「謝罪は結構です。今更、なんの意味もありませんから」
ダミアンが驚いたように顔を上げた。
悔い改めれば、いつものようにクロエが受け入れてくれると信じ切っていたのだろう。
そんなダミアンが滑稽で、クロエは思わず笑ってしまった。
「四年間で、私は二十四回、あなたに約束を反故にされたそうです」
「……二十四回?」
「はい。社交界の令嬢方が、私が一人で夜会に参加するたびに、扇子の陰で嘲笑いながら聞こえるように噂しておりました」
ダミアンの呼吸が、止まった。
「そして、私が約束を反故にされたと毎回律儀にふれ回っていらしたのは——エレーヌ様です」
「エレーヌが、そんなことを……」
「社交の場で、決まってエレーヌ様は瞳を潤ませてこうおっしゃっていました。“私のせいでダミアン様にご迷惑をおかけして、クロエ様にも申し訳ない”と」
クロエは、手元にあるティーカップを見つめた。
お気に入りの茶葉だが、すっかり冷めてしまった今、とても飲む気にはなれない。
「エレーヌ様に同情した方達は、口を揃えてこう言ったわ——クロエ様は気高い方ですもの。動じていらっしゃらないわ。きっと何も感じていないのね、と」
「っ……」
「私が社交界で氷のような令嬢と嘲笑されているのを、ダミアン様はご存じないようでしたが」
ダミアンの顔から、血の気が引いていく。
ようやく、自分の行動がもたらした結果を理解しはじめたのだ。
「クロエ、本当にすまなかった! 今からでも俺が——」
「やめてください」
それは、婚約してからの四年間で初めての、はっきりとした拒絶だった。
「何もなさらないでください。今あなたができることは、ただ一つ。私たちの婚約を解消することだけです」
ダミアンは、しばらく動けなかった。
「もう、どうにもならないのか……?」
「ええ。父の同意はすでに得ているので、アレクサンドル公爵閣下には、本日中に正式な書簡をお送りいたします」
もはや、ダミアンの意思など関係ない。それほどまでに、彼の行いはクロエの名誉を毀損したのだ。
目の前で項垂れるダミアンへの関心は、四年の間に少しずつ消えてなくなっていた。
◇◇◇
婚約解消の手続きは、想像よりもはるかにスムーズに進んだ。
アレクサンドル公爵家は、息子のクロエに対する度重なる不義理が彼女を辱めたことを認め、慰謝料を含む正式な書面を寄越したのだ。公爵夫妻からの謝罪文は、長く、誠実なものだった。
エレーヌの件も、ダミアンの口から両親に伝えられたらしい。
エレーヌはひっそりと王都の社交界から姿を消した。噂によると、田舎の修道院で軟禁生活を送っているらしいが、クロエはその真偽を確かめるほどの興味は持てなかった。
社交界では、手のひらを返したようにクロエに同情が集まっている。
エレーヌが拡散していた“氷のような令嬢”という噂が反転し、今度は婚約者の仕打ちに陰で涙しながら必死に耐えていた令嬢、という話が一人歩きしているらしい。
婚約破棄をしてから初めて参加した舞踏会で、過去にクロエを馬鹿にしていた令嬢たちまでもが労りの声をかけてくる。
そのどれもに当たり障りなくお礼を言いながら、クロエはすっかり疲れ切っていた。
人波を抜け、クロエはひっそりとテラスに足を運んだ。
舞踏会の喧騒は、扉を一枚隔てるだけで、ずいぶんと遠くなる。
クロエは欄干に手を添え、ぼんやりと夜空を見上げた。
(……四年間、ずっと一人で見上げてきた月)
それでも今夜は、もう同じものには見えなかった。
「クロエ嬢」
不意に、背後から低い声が聞こえた。
聞き覚えのある、けれどもしばらく耳にしていなかった声に、クロエは驚いて振り返った。
「テオドール様……」
ダミアンとの婚約が解消された今、もう関わることはないだろうと思っていた。
それなのに、テオドールはいつもと変わらない、温かな眼差しでクロエを見つめている。
クロエは密かに、そのことに安堵してしまった。
「お元気そうで、安心しました」
テオドールはそう言うと、心底ほっとしたように微笑んだ。
「実は、ずっと心配だったのです。あなたが倒れてしまうのではないかと」
「……え?」
思いがけない言葉に、クロエは思わず目を見開いた。
「この四年間、あなたはずっと——ご自分を律することで、辛うじて立っていらしたでしょう」
気付かれていた。
誰にも気付かれていないと思っていた秘密を、見透かされていたのだ。
その事実に、クロエの心臓が大きく脈打った。
「ですから、せめて少しでも、肩の力を抜ける時間があればと思って。……あのような、拙い口実で贈り物をするくらいしか、僕にはできませんでしたが」
テオドールはそう言うと、申し訳なさそうに目を伏せた。
観劇の本も、薔薇の花束も、茶葉も。
そのどれもが、友人であるダミアンのフォローではなく——クロエ自身のために、用意されていたのだ。
その事実が、じんわりと胸に染み込んでくる。
それと同時に、喜びに似た感情がクロエの中にこみ上げてきた。
(……いけない)
クロエは、慌ててその感情に蓋をしようとした。
婚約を解消したばかりの女が、こんなにも早く別の男性の言葉に心を動かされるなど——あまりにも節操がない。
戸惑うクロエに気付いていないのか、テオドールは穏やかに続けた。
「実は、先日……ブランシェ伯爵閣下から、お手紙をいただきました」
「お父様から……?」
「ええ。四年間、娘を陰ながら気遣ってくれて感謝する、と。それから、ダミアン様との婚約を解消されたことも、お知らせくださいました」
「っ!」
クロエの父は、知っていたのだ。
テオドールからの贈り物が、本当はどのような気持ちで贈られていたのかを。
そしてクロエが思っていた以上にずっと、その小さな出来事の一つ一つを、見守ってくれていた。
ベッドの上で「お前のためだけに生きればいい」と告げてくれた、痩せた手のひらの温度を思い出す。
気付くと、クロエの目に涙が滲んでいた。
「も、申し訳ございません……!」
慌てて目元を押さえようとしたクロエに、テオドールはそっとハンカチを差し出した。
そして、どこか躊躇うように、控えめに口を開いた。
「クロエ様。婚約を解消されたばかりのあなたに、こんなことを申し上げるべきではないと、わかってはいます」
その声には、隠しようのない緊張が滲んでいる。
「ですが……あなたがまた、別の誰かに奪われてしまうことだけは、どうしても避けたいのです」
クロエは驚きから、小さく息を呑んだ。
テオドールは、そんなクロエを深い青の瞳で真っ直ぐに見つめている。
「これから、あなたの時間をいただけませんか? 僕について知ってもらうための、時間を」
それは、求婚でも、愛の告白でもない。
ただ「知ってもらう時間が欲しい」とだけ告げる、控えめで、慎重な申し出だった。
その遠慮深さがいかにもテオドールらしくて、クロエは思わず小さく笑ってしまった。
四年間、自分を必死に律して、奮い立たせて、立ち続けてきた。
そんな自分を、ずっと陰ながら支えてくれた人。
それがどれほどクロエにとって得がたいものなのか、テオドールにも知ってもらいたいと思った。
「……はい。喜んで」
クロエがそう答えると、テオドールの瞳が、ほっとしたように緩んだ。
——自分のために生きていく。
そう思うと、不思議と足元が軽くなった。
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