【短編小説】猫の時代
世界は猫に溢れた。
人々は猫を可愛がり、猫を中心として世界が回った。猫は全てが許され、猫の為に発生した多少の不便を人々は飲み込んだ。
それまでピンボールみたいに駅舎を歩いてはぶつかり弾き合っていた労働者たちは互いの肩に乗った猫や足元を行き来する猫に気を使い、ゆっくりと歩くようになった。
そもそも満員電車は猫の為に足の踏み場を空けて乗るので存在が忘れられた。都知事は棚ぼたで公約を達成したので猫に感謝状を送ったが、逆にリコールされて都民は猫に感謝した。
おれが全身についた猫の毛を取っていると、マスターは笑いながら「猫の手も借りたい、ってやつですかね」と言っていつもの酒を用意してくれた。
グラスの縁についた塩を舐めながら半透明の液体が喉を下っていくのを楽しむ。たまらない。この瞬間の為に生きていると言っても過言では無い。
「参ったね、どうも」
早くも上がり始めた体温を自覚しながらスツールに腰を下ろして、隅のカウンター席にいる男に視線を走らせた。
「マスター、あの男は?」
「あぁ、ペットボトルを避けて入ってきたんだ。一見さんだけど大丈夫だろう」
マスターも鋭い視線を一見客に送ってから柔らかい笑顔に戻して、バケットに切れ込みを入れた。そしてナイフをトングに持ち替えて鍋のソーセージを掴んだ。
「マスター、それ茹でたてでしょ?」
不安そうに訊くおれに、マスターは再び優しい笑顔を向けた。
「大丈夫ですよ、食べやすい温度になっています」
そうは言うものの不安は不安なので、散々ぱら吹いて冷ましてから齧りつく。皮の食感と肉の味が口に広がり、小麦と脂の香りが鼻腔を抜ける。それを洗い流すように、グラスの縁に塩の付いた酒を飲む。
「いや、たまらんねぇマスター」
肉汁を酒でリセットする事を繰り返しながら次第に整っていく自分を感じる。マスターは優しく微笑みながらグラスを磨いている。
店内にはしばしの沈黙が訪れたが、おれはそれを楽しんでいた。
「マスター、ホットドッグをもうひとつ」
言い終わる前に、マスターの表情を見てしくじったと思った。そしてそう思った時には既に手遅れだった。
「動くな!!」
奥の席に座っていた男が立ち上がり、こちらにテーザー銃を向けていた。膝を軽く曲げて拇指球に重心を置いた視線はまるで猫のようであった。
おれもマスターも両手を頭の上で組み膝を付いた。
男はこちらに公安犬科の手帳を見せて「ここが犬派のアジトだと言う情報を得て内定していたが、まさか初日で結果が出るとはな」と言って笑った。
「ごめん、マスター」
合わせる顔もなく呟くと、マスターは「いいえ、お客様のせいではありませんよ」と言って微笑み、棚の酒瓶をひとつ引いた。
するとその酒棚が開き、奥から巨大なグレート・デンが飛び出してきた。
公安犬科の男は大慌てで「緊急事態だ!すぐに応援をよこしてくれ!」と無線連絡を取った。グレート・デンは咆哮と共に男に襲いかかり、やがてあっという間に全身を血で染めた。
「た、助かったけどヤバいよマスター……」
おれが血まみれのグレート・デンを撫でていると、マスターは事も無げに「大丈夫です。また場所を移すだけですから」と笑った。
「連絡、下さいね」
と言うおれに、マスターは犬歯を見せて笑った。




