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処刑待ちの悪名令嬢ですが、冷酷皇帝に「ずっと探していた」と抱きしめられました  作者: しげみちみり


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第9話 宮廷に響く悪名と、ささやかな味方の影

 皇帝の婚約者として、正式に宮廷に組み込まれてから、まだ数日しか経っていない。


 それなのに、城の廊下を歩くたび、わたしの後ろには、いつもひそひそ声がついて回った。


「ほら、あれよ」

「処刑台から引きずり下ろされたっていう」

「王国の反逆者の娘でしょう。どうしてあんな女が、陛下の隣に」


 聞こえないふりをするのは、もうずっと前から得意だった。


 伯爵家でも、似たような囁きは日常の一部だったからだ。


 だけど、耳は勝手に拾ってしまう。

 言葉の棘だけを、器用に選んで刺してくる。


 うつむきそうになる視線を、必死に持ち上げる。


 背筋だけは、曲げたくなかった。


 処刑台の上で、最後まで立っていた自分に恥ずかしくないように。


「アリア様、前、段差です」


 後ろを歩いていたミーナが、小さな声で教えてくれる。


「ありがとう」


 裾を少しだけつまんで階段を上る。

 広い吹き抜けの上から、帝都の空が覗いていた。


 あの日、処刑広場で見上げた空より、少しだけ柔らかい色をしている。


 レオンハルトとは、思っていたより顔を合わせる機会が少なかった。


 朝食の席で、短く挨拶を交わす。

 夕刻、彼が執務から戻ってきたときに、廊下ですれ違えば会釈をする。


 それくらいだ。


「陛下は、今、とてもお忙しい時期なんです」


 わたしの様子を見ていたのか、ミーナがそっと教えてくれた。


「大陸協議会の準備もありますし、王国との関係も、微妙な時期ですから」


「ええ。分かっています」


 分かっている、と自分に言い聞かせる。


 わたしたちの婚約は、契約から始まった。


 保護と、真相を知るための同居。

 最初から、甘い夢物語ではなかった。


 それでも。


 処刑台で抱きしめられた時の、あの腕の強さを思い出すと、胸の奥がじん、と痛む。


 夜、一人で部屋の灯りを落とすと、どうしても風の音を探してしまう。


 あの日の広場を吹き抜けていた、骨の芯まで冷やす風。

 もうここには吹いていないのに、記憶だけが何度も蘇る。


 鎖の重み。

 群衆の叫び声。

 義母と異母妹の、遠くから投げられた視線。


 そして、黒い軍馬の蹄の音。


 それが全部まざった夢から覚めるたび、わたしはベッドの上で、握りしめていたペンダントを見つめる。


「……大丈夫」


 誰に聞かせるでもなく、そう呟く。


 大丈夫だと言葉にしておかないと、本当に壊れてしまいそうだった。


 そんなある日、帝国での礼法と歴史を学ぶため、わたしは宮廷内の小さな講義室へ向かっていた。


「皇帝の婚約者として、最低限の帝国史は学んでいただく必要があります」


 ライナルトはそう言っていた。

 彼にとってはきっと、当然の前提なのだろう。


 王国での教育はどうだったのかと聞かれ、わたしは曖昧に笑うしかなかった。


 妾腹の娘に対する学びの機会など、限られていたから。


「フォン・リース様、こちらです」


 講義室の扉の前で、若い侍従が頭を下げた。


 中には、すでに数人の令嬢たちが席についている。

 皆、帝国の名門貴族の娘だと聞いた。


「……あの人が」

「悪名令嬢」

「まあ、思ったよりおとなしそうじゃない」


 囁きが空気に混ざる。


 その中で、一人だけ、まっすぐこちらを見る視線があった。


 柔らかな栗色の髪を後ろでまとめた、淡いピンクのドレスの令嬢。

 瞳の色は、春先の森のような明るい緑。


 彼女はわたしと目が合うと、ふわりと笑った。


「お隣、空いているわよ」


 指さされた席は、彼女の隣だった。


 戸惑いながらも腰を下ろすと、彼女は少し身を乗り出してくる。


「初めまして。リディア・フォン・グラーツェです。

 皇帝陛下の従妹にあたります」


 公爵令嬢。


 ミーナから簡単な宮廷の相関図を聞かされていたわたしは、その名を知っていた。


「アリア・フォン・リースです。

 ご挨拶が遅れて、申し訳ありません」


「いいえ。こちらこそ、もっと早くお声をかけるべきでしたね」


 リディアは、ひそひそ声ではなく、はっきりとした声でそう言った。


「だって、あなたの噂だけが先に歩いているんですもの。

 処刑台の上からさらわれたとか、陛下の気まぐれだとか、王国の裏切り者だとか」


 さらりと言われて、思わず苦笑いが漏れる。


「……あまり、よろしくない噂ばかりですね」


「ええ。でも、わたしは噂より目で見て判断したい方なの」


 彼女は、じっとわたしを見つめた。


「さっき廊下で、侍女さんに頭を下げて礼を言っていたでしょう。

 そういうの、噂話の中の『悪名令嬢』とは、ずいぶん違うわ」


 ドキリとした。


 人の視線には慣れているつもりだったが、ここまで真っ直ぐ見られると落ち着かない。


「伯爵家では、礼儀だけはうるさく教えられましたから」


「礼儀だけ、ね」


 リディアは、小さく笑う。


「でも、礼儀って、嫌々やるとすぐ分かるものよ。

 さっきのあなたは、ちゃんと感謝している人の仕草だったわ」


 どう返したらいいか分からず、わたしは視線を伏せる。


 講師が入ってきて、講義が始まった。


 今日の内容は、帝国と王国の過去の関係についてだった。


「かつて帝国は、今の形になるまでに多くの戦を重ねてきました。

 隣国である王国との戦も、その中の一つです」


 年配の講師が、棒で地図を指し示す。


「大陸統一戦争の最中、十年前には王国宮廷で大規模な火災が発生しました。

 資料によれば、身元の分からない子どもたちが多数犠牲になったと記録されています」


 十年前、という言葉が耳に届いた瞬間、頭の内側がきりきりと痛んだ。


 炎。

 熱。

 誰かの手。


 断片的なものが、光の粒のように視界の端を流れていく。


「大丈夫?」


 隣のリディアが、小声で囁く。


「顔色がよくないわ」


「……少し、頭が痛くて」


 こめかみに手を当てると、講師がこちらを一瞥した。


「体調が優れないのであれば、途中で退室しても構わん。

 ただし、代理で資料を届けるよう、侍女に伝えること」


「大丈夫です。続けてください」


 意地でも席を立ちたくなくて、そう答えてしまう。


 ここで退室すれば、また余計な噂の種になるだろうし、何より。


 十年前の火災の話を、最後まで聞かずに終わらせたくなかった。


「身元不明の子どもたちの多くは、王宮付属の孤児院から来た者だとされています」


 講師の声が続く。


「しかし詳細な記録は、ほとんど残っておりません。

 なぜなら火災により、当時の書類の多くが焼失したからです」


 焼ける。

 紙が。

 建物が。


 心臓のあたりをぎゅっと掴まれたような感覚に、爪が食い込む。


 この痛みは、いつからあったのだろう。


 広場の冷たい風とは違う。

 乾いた熱と、息苦しさ。


「アリア様」


 ミーナが、後ろの席から心配そうにこちらを見ていた。


 視界が少しだけ霞む。


 けれど、講義は淡々と進んでいった。


 やがて鐘が鳴り、今日の授業は終わる。


「本日の内容はここまでだ。

 復習として、それぞれの家で、十年前の戦と火災についての資料を読んでおくこと」


 令嬢たちがざわざわと立ち上がる。


「王国の宮廷って、そんなことがあったのね」

「恐ろしいわ」

「でも、身元不明の子どもなんて、どこの国にもいるでしょう」


 誰かの軽い言葉に、胸の奥がじくりと痛む。


 わたしも、どこかの誰かにとっては、名前も知らない「ひとり」のうちの一人だったのかもしれない。


「アリア」


 リディアが、そっと近づいてくる。


「本当に平気?

 さっきより、顔色が悪い気がする」


「大丈夫。

 少し、外の空気を吸えば落ち着くと思います」


「なら、廊下まで送るわ」


「お気遣いなく……」


「わたしが行きたいの」


 言い切られてしまい、わたしはそれ以上断れなかった。


 講義室を出ると、廊下には他の生徒や侍女たちの気配が行き交っている。


 大きな窓から、帝都の街並みが小さく見えた。


「ねえ」


 リディアが、歩調を合わせながら話しかけてくる。


「王国にいたころのことって、やっぱり聞かれたくない?」


 真っ直ぐな問いだった。


「……正直に言えば、あまり得意な話題ではありません」


「そうよね。

 でも、さっきの先生の説明、少し違和感があって」


「違和感?」


「十年前の火事の話。

 身元不明の子どもがたくさんいたっていうのに、『誰も覚えていない』みたいな扱いでしょう」


 彼女は窓の外を見ながら言う。


「記録がないことと、誰も覚えていないことは、違うと思わない?」


「そう、ですね」


 記録は燃えても、人の記憶までは燃やせない。


 誰かは、あの日のことを覚えているはずだ。


 泣き叫んだ子どもの声も。

 煙にむせた匂いも。


「ごめんなさい。

 変なことを聞いたわね」


 リディアが、少し肩をすくめる。


「でも、何となく。

 あなたと、あの話は無関係じゃない気がしたの」


 頭の奥で、また鈍い痛みが走った。


「どうして、そう思うのですか」


「勘よ」


 彼女はからっと笑う。


「それに、さっき火事の話が出たとき、あなたの手が震えていたから」


 見られていた。


 また、この人に。


 わたしは返す言葉を失い、足元を見つめた。


 ちょうどそのとき、前方から大きなトレイを抱えた少女侍女が歩いてきた。


 両手で抱えた銀の盆には、ティーカップがいくつも乗っている。


「ご、ごめんなさい、通ります」


 彼女が慌てて横を通り過ぎようとした瞬間、カーペットの端に靴先を引っかけた。


「きゃっ」


 盆が傾き、カップが音を立てて揺れる。


 反射的に、体が動いていた。


 わたしは前に出て、彼女の肘を掴む。

 ぐらりとした重みを支えながら、もう片方の手で盆の端を押さえた。


 茶が少し跳ねて、カーペットにしみを作る。


 けれど、カップは一つも割れなかった。


「大丈夫?」


「は、はい……っ、申し訳ございません、フォン・リース様!」


 少女の顔は真っ青だった。

 失敗がどれだけ重大なことか、身に染みて分かっている顔。


「怪我は?」


「え」


「熱いお茶がかかっていないか、聞いています」


 袖口や手の甲を確認すると、幸い火傷はしていない。


「よかった。

 カーペットは、洗えば何とかなるでしょうし」


「で、でも、わたし……」


「次から気をつければいいだけの話よ」


 わたしは微笑んで言った。


「誰だって、転びそうになることくらいありますから」


 そう告げると、少女はぽろぽろと涙をこぼした。


「ありがとうございます……っ」


 彼女が何度も頭を下げるのを見届けてから、わたしは振り返る。


 廊下の少し離れたところに、いくつかの視線を感じた。


 リディアが、面白そうにこちらを見ている。


 反対側の柱の影には、ライナルトの姿があった。

 彼はすぐに目を逸らして、何事もなかったように歩き去る。


 もう一人。


 高位貴族の男性らしい黒いローブの影が、こちらをじっと見ていた。


 誰なのかは分からない。

 彼はわたしたちと目が合うと、すぐに踵を返して去っていった。


「ねえ」


 リディアが、くすりと笑う。


「処刑台から引きずり下ろされた悪名令嬢って、もっと高飛車な人かと思っていたのに」


「期待外れで、申し訳ありません」


「いいえ。むしろ、噂を信じていたわたしの方が恥ずかしいわね」


 その夜。


 自室で本を眺めていると、扉が控えめに叩かれた。


「アリア・フォン・リース様、いらっしゃいますか」


 聞き覚えのある声だった。


「どうぞ」


 扉を開けると、そこにはドレス姿のリディアが立っていた。


「夜分にごめんなさい。

 少しだけ、お話ししてもいいかしら」


「もちろん。

 狭い部屋でよろしければ」


「十分よ。

 それに、ここは落ち着くわね」


 彼女は部屋をぐるりと見回し、小さく頷いた。


「侍女さんには、部屋の前で待っていてもらっているから、少しのあいだなら人目も気にしなくていいわ」


 そう言って、椅子に腰かける。


「さっきの講義のこと、謝りに来たの」


「謝る?」


「あなたの様子がおかしいと分かっていて、あまり気の利いたことが言えなかったから」


 リディアは、指先でカップの縁をなぞりながら言う。


「わたし、言葉より先に観察してしまうの。

 今も、『この人はどれくらい無理をして笑っているのかな』って、考えながら見ている」


「それは、少し怖いですね」


「でしょう?」


 彼女自身が、一番自覚しているらしい。


「でもね。

 今日一日見ていて、確信したことがあるの」


「何でしょう」


「あなた、本当に、噂通りの悪女なら、もっと傲慢に笑っているはず」


 あまりにきっぱりと言われて、思わず吹き出してしまった。


「……わたし、そんなに笑っていませんよ」


「笑っているわ。

 さっき侍女さんを助けたときも、そのあと何度も『大丈夫?』って声をかけていたでしょう」


 彼女はわたしの真似をして、少し首を傾げる。


「悪名令嬢なら、『気をつけなさいよね』って一言で済ませて去っていくはずだもの」


「それは、少し極端なイメージでは」


「噂って、そういう極端さを好むでしょう?」


 たしかに、そうかもしれない。


 王都でも、「悪名令嬢」と呼ばれるようになってから、わたしの行動はすべて都合のいい形に切り取られて語られた。


 一度、舞踏会で倒れそうになった侍女を支えたときでさえ。


「気絶した子に、何か盛ったんじゃないのかしら」

「伯爵令嬢の周りでは、ろくなことが起きないわね」


 そんな言葉が、簡単に飛び交っていた。


「リディア様は、噂を信じないのですね」


「信じないわけじゃないの。

 噂は噂として、『そういう話があるんだな』とは思う」


 彼女は肩をすくめる。


「でも、人を嫌いになる理由にするには、少し弱い」


 きっと、それが彼女の生き方なのだろう。


 公爵令嬢という立場なら、もっと安全な距離から笑っていることもできるはずなのに。


「どうして、今日はわざわざわたしの部屋に」


「さっき、講義の途中であなたの手が震えていたから」


 リディアの声が、少しだけ真面目になる。


「十年前の火事の話を聞いたとき。

 ただの頭痛じゃない、何かを思い出しかけている人の顔をしていた」


 そこまで見られていたのかと、少しだけ背筋が冷たくなる。


「ごめんなさい。

 深く踏み込むつもりはないの。ただ……」


 彼女は視線を落とし、言葉を選ぶように続けた。


「宮廷って、外から見るよりずっと冷たい場所だから。

 同年代の女の子が一人でそこに放り込まれているのを見ると、放っておけないのよ」


「同年代、と言っていただけるほど若くない気もしますけれど」


「わたしも、もう若くはないわよ。

 それでも、まだ『女の子』って言われたいお年頃」


 軽い冗談に、また笑ってしまう。


 気づけば、今日一日でこんなに笑ったのは初めてだった。


「それにね」


 リディアは、真剣な瞳でこちらを見る。


「帝国のためにも、陛下のためにも、あなたがここで孤立しすぎるのは、あまりいいことじゃない」


「陛下の、ため……?」


「そう。

 陛下がどんな思いであなたを連れてきたのかは知らないけれど、あの人が『守る』と決めたものは、時々、自分自身より優先してしまうところがあるから」


 それは、ミーナからも少し聞いたことがある。


 大陸統一戦争で、どれだけ多くのものを切り捨ててきたか。

 その代わりに、どれだけの人を飢えから救おうとしたか。


「だから、あなたの味方が、あの人以外にもいた方がいいと思うの」


 リディアは、少し照れたように笑った。


「わたしでよければ、だけれど」


 その言葉が、胸に柔らかく染み込んでいく。


 伯爵家でも、王都でも。

 わたしに向けられる視線は、いつも冷たかった。


 唯一の味方だった侍女でさえ、最後はわたしを庇おうとして屋敷を追い出された。


 だから、「味方」という言葉を向けられることに慣れていない。


「……そんなふうに言っていただけるとは、思ってもみませんでした」


 少しだけ目が熱くなる。


「わたしでよければ、仲良くしていただきたいです」


「決まりね」


 リディアは、ぱっと笑顔を見せた。


「これで、帝国宮廷の中で、あなたはもう『完全な一人ぼっち』じゃない」


 一人ぼっちではない。


 その言葉は、何よりも強い魔法のようだった。


 この先、どれだけ大変なことがあっても。

 今日、同年代の女性と同じ部屋で笑い合ったことを、きっと忘れない。


 小さな変化。


 それでも、わたしにとっては、大きな一歩だった。

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