第7話 初夜のすれ違い
その夜、城の空気は、どこかそわそわしていた。
夕食を終えて離れに戻る途中、すれ違った侍女たちが、わたしを見るなり小さく声を潜めるのが分かった。
「今夜よね」
「陛下のご婚約者さま、同じお屋敷にお移りになるんですって」
「じゃあ、その……初夜、かしら」
言葉尻だけが、やけにくっきり耳に残る。
ミーナは、あからさまに眉をひそめた。
「もう、あの人たちったら。アリア様、気になさらないでくださいね」
「……初夜、というほど大げさなものではないと思いますけれど」
自分で言っておいて、頬が熱くなる。
形式上とはいえ、婚約者になった以上、同じ屋敷で暮らすことになる。
今までの客人用の部屋ではなく、レオンハルトの居室に隣接した棟へ移るのだと聞かされた。
それだけの話のはずなのに、人の想像はいつも、その先へ勝手に進んでいく。
「陛下はそんな軽々しいことなさらない方です。
……たぶん」
「たぶん、がついているわ」
「だって、陛下だって男の人ですから。
いえ、失礼しました。今のは忘れてください」
ミーナが慌てて口を押さえる。
わたしは苦笑した。
怖くはない。
むしろ、分からないことの方が多くて、何を怖がればいいのか分からない。
わたしは、男の人から優しくされた経験がほとんどない。
父は、いつも忙しそうにしていて、わたしをまともに見ようとしなかった。
義父としても、伯爵としても、彼の目には「厄介な妾腹の娘」としか書かれていなかったのだろう。
彼の周りにいた男たちは、もっと露骨だった。
「お前みたいな立場の女は、黙って抱かれていればいい」
「どうせ正式な婚約も望めないんだ。少しくらい楽しませろ」
笑いながら肩を掴まれた夜を、今でも思い出す。
あの時は、義母が現れてわたしを引きはがした。
守るためではない。
「いらない火種を持ち込まないでちょうだい。
同じ屋敷で子どもを作られたら、たまったものじゃないわ」
そう言いながら、扇子の先で、わたしの腕を強くはたいた。
細い痣が、しばらく消えなかった。
今、袖の下に隠している痣は、そのずっとあとにできたものだ。
「アリア様、こちらのお部屋が今夜からのお部屋になります」
ミーナに案内されて入った新しい部屋は、前の部屋とよく似ていた。
少しだけ広くなって、窓も二つに増えたくらい。
けれど、廊下側の壁に、一つだけ違うものがある。
扉だ。
装飾の少ない、重そうな木の扉。
鍵穴が二つあり、こちら側にも向こう側にも錠がついている。
「この扉の向こうが、陛下の居室になります」
「……本当に、隣なんですね」
「はい。でも、普段はきちんと鍵がかかっていますし、誰かが無断で開けることはありません。
鍵も、陛下とアリア様、そして侍女長の三人しか持っていませんから」
「そう、なんですね」
鍵を持ってしまったら、それだけで責任の重さに押しつぶされそうだ。
今はまだ、扉に近づくことさえ躊躇われる。
「それに」
ミーナは、少し言いよどんでから続けた。
「……陛下から、わざわざ念を押されたんですよ。
『アリアが嫌がるような段取りは、一切するな』って」
「嫌がるような、段取り」
「部屋に香水を焚いたり、やたら薄い寝間着を用意したりするなってことですね。
前例があるんです、他のご夫人方で」
どこか遠い世界の話に聞こえた。
わたしは婚約者であって、正式な皇妃でも側妃でもないのに。
「だから大丈夫です。
アリア様の意思を無視して、何かが進むことはありません」
ミーナの言葉に、少しだけ肩の力が抜ける。
「着替えをお手伝いしますね。
今夜は、お休み用のシンプルなナイトドレスをご用意しました」
柔らかな布地の寝間着に着替えるため、わたしは背中を向けてボタンを外した。
ミーナが、静かに布を下ろしていく。
肌に冷たい空気が触れた瞬間、彼女の指がぴたりと止まった。
「アリア様……」
「どうかした?」
「いえ、その……背中の、この痣は」
しまった、と思った。
鏡で見ても、背中の痣は自分ではよく分からない。
でも、侍女に見られれば、隠し通せるものではない。
「大したことではありません。
伯爵家にいたころ、少し転んで」
苦しい言い訳だと自分でも分かっていた。
ミーナも、それが本当ではないことを察した顔をしている。
けれど、それ以上追及はしなかった。
「痛みますか」
「今は、もうあまり」
「でしたら、せめて薬を塗らせてください。
痕が濃くならないように」
ミーナは用意していた薬瓶を取り出し、指先でそっと薬を広げていく。
ひんやりとした感触と共に、少しひりつきが和らいだ。
「ありがとうございます」
「本当は、こうなる前に止めてあげるのが周りの大人の役目なんですけれど」
ミーナの声は、どこか悔しそうだった。
「ここでは、そんな痣が増えることはありませんように」
その願いが、叶えばいい。
願うだけなら、許されるだろうか。
夜も更けたころ、部屋の扉が静かに叩かれた。
「アリア。入るぞ」
低い声。
レオンハルトだ。
わたしは慌てて椅子から立ち上がり、ナイトドレスの裾を整える。
「どうぞ」
扉が開くと、彼はいつもの軍装ではなく、ゆったりとした黒いシャツにベストという姿だった。
鎧も外し、剣も携えていない。
それだけで、少し印象が違って見える。
「夜分に悪いな」
「いえ。
何か、ありましたか」
「今夜から同じ屋敷で暮らすことになる以上、あらかじめ伝えておきたいことがあってな」
レオンハルトは部屋の中を一瞥してから、わたしから少し離れた場所に腰かけた。
ソファではなく、窓辺の椅子に。
距離を取られていることが、妙に意識に触る。
わたしが変に警戒しているのが、伝わってしまっているのだろうか。
「……噂は聞こえているか」
「噂、ですか」
「今夜が初夜だの何だのと、城中がざわついている。
俺の耳にも入ってきた」
彼は少しだけ嫌そうに眉をひそめた。
「正直に言っておく。
君の心が追いつくまで、俺は何もしない」
「え」
あまりにきっぱりと言われて、間の抜けた声が出てしまう。
「もちろん、形式として婚約者である以上、人前ではそれなりの距離感を取ることになる。
腕を取ることもあれば、隣に立ってもらうこともあるだろう」
淡々とした声。
「だが、こういう場所で、君一人に負担を強いるつもりはない。
嫌なら、近づきもしない」
その言葉に、胸の中で何かがぐらりと揺れた。
ほっとしたのか、残念に思ったのか、自分でも分からない。
今までの経験が、わたしにささやく。
男の言葉はあてにならない、と。
「……お気遣い、ありがとうございます」
形式的な言葉が口をついて出た。
「ただ、わたしの方こそ、陛下のご迷惑にならないように」
「迷惑?」
「噂ばかりが先走って、陛下の評判を損ねてしまわないかと」
初夜だの何だのとはしゃいでいる人たちは、わたしが「陛下に取り入った女」だと決めつけるかもしれない。
あるいは、「すぐに捨てられるだろう」と笑うのかも。
レオンハルトは、少し目を細めた。
「もう十分すぎるほど評判は悪い。
君一人が何をしても、今さら大きく変わりはしない」
「そんなこと」
「事実だ」
彼は淡々と言って、椅子の背にもたれた。
「俺は長いあいだ、『血も涙もない征服王』として語られてきた。
今さら『処刑台から女をさらった男』が一つ増えたところで、印象は大差ない」
言葉の中身は冷たそうなのに、どこか乾いた冗談めいた響きもある。
「それに、君がここにいるのは、君自身のためだ。
誰の噂のためでもない」
そう言われて、胸の奥が温かくなる。
同時に、どうしていいか分からない不安も広がった。
信じていいのかどうか、まだ決めきれない。
でも、疑ってばかりいるのも、息が苦しい。
「アリア」
「はい」
「一つだけ確認させてくれ」
レオンハルトが立ち上がった。
ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
心臓が、どくん、と大きな音を立てた。
彼はすぐ目の前まで来ると、手を伸ばしかけて、そこで一度止まった。
「触れても、構わないか」
問われるとは思わなかった。
今まで、わたしに触れる男たちは、誰も許可など求めなかったのに。
「……少しだけなら」
自分でも驚くほど小さな声で、そう答えた。
レオンハルトの手が、そっとわたしの手首に触れる。
その瞬間、鈍い痛みが走った。
「……っ」
思わず肩が跳ねる。
うっかり強く掴まれたわけでもないのに、袖の下の痣が抗議する。
レオンハルトの指先が、ぴたりと止まった。
「痛んだか」
「いえ、その……少しだけ」
ごまかそうとしたけれど、彼はこちらの腕を確かめるように袖をめくった。
布の隙間から、黄色と薄紫が混ざった痣が覗く。
彼の表情が、わずかに凍った。
「これは」
「前の家で、少し転んで」
「嘘は下手だな」
静かな声だった。
怒鳴られたわけでもないのに、心臓がさらに速くなる。
レオンハルトは、深く息を吸い、指先で痣の周りをそっとなぞった。
決して痛みが強くならないように、慎重に。
「誰にやられた」
その問いに、昔の記憶が重なった。
伯爵家で、義母に腕を掴まれた夜。
怒りを込めてぎゅっと締め上げられた手。
「……大したことではありません」
「俺が大したことかどうかを決める」
淡々とした言葉の中に、抑えきれない何かが滲んでいた。
レオンハルトの指先が、ほんの一瞬、強くなる。
次の瞬間、彼の目が遠くを見た。
わたしの腕ではなく、何か別のものを見ているような。
「陛下?」
呼びかけると、彼ははっとしたように瞬きをした。
青い瞳の奥に、燃えるような何かがちらりと揺れた気がした。
炎の色に似ている。
それが過ぎ去ると、いつもの冷静さが戻ってくる。
「……すまない。痛かったな」
「いえ」
「君の体にこれ以上痣を増やすつもりはない。
この夜が終わるころに、新しい傷が増えていたら、俺は自分を許せない」
それは、初夜のことだけを言っているわけではない気がした。
ここでの生活も。
これから一緒に向き合う真実も。
すべてを含めて、彼はそう言ったのだと感じる。
「だからこそ、今は距離を取る」
レオンハルトは、わたしの手首からそっと手を離した。
その動きがあまりに慎重で、逆に胸がざわつく。
「嫌われたらどうしよう」
そんな子どもじみた不安が、頭をもたげた。
触れられるのが怖いのに。
離れられると、それはそれで不安になる。
勝手なものだ。
「わたしは、その……」
何か言おうとして、言葉が出てこない。
好きか嫌いかと聞かれたら、まだどちらとも答えられない。
ただ、処刑台で抱きしめられた感触や、孤児院の紋章に込めた意味を聞いた時の胸の高鳴りは、簡単に忘れられるものではなかった。
「陛下は、嫌じゃないんですか」
「何がだ」
「わたしと、同じ屋敷で暮らすことが」
彼は少し目を見開き、それから小さく笑った。
「嫌なら、最初から処刑台に現れていない」
「それは、そうかもしれませんが」
「君と同じ屋敷で暮らすのが嫌だったら、こんな契約を結びもしなかった」
真っ直ぐな言葉に、頬が熱くなる。
なのに、彼はそれ以上近づいてこない。
わたしの心を守るために。
あるいは、自分自身を抑えるために。
そのどちらも、本当の理由なのだろう。
「アリア」
「はい」
「たぶん、君は男の善意をそのまま信じろと言われても、難しいだろう」
図星だった。
過去の経験が、どうしても邪魔をする。
「それなら、今すぐ信じろとは言わない。
ただ一つだけ、覚えておいてほしい」
レオンハルトは、少し視線を落として言った。
「俺は、君を傷つけるくらいなら、何もしないことを選ぶ」
その言葉は、優しいのに、なぜか胸に棘のように刺さった。
何もしない。
それは、こちらに選ぶ余地すら与えないということではないだろうか。
「……わたしだって、すべてを拒みたいわけではありません」
小さな声で、やっとそれだけを言えた。
「誰かに触れられるのが怖いのは、本当です。
でも、全部が全部、嫌というわけじゃなくて」
どう言葉にしていいか分からないもどかしさに、唇を噛む。
レオンハルトはわずかに目を見開き、それから困ったように視線をそらした。
「難しいな」
「難しい、ですか」
「俺は戦場で剣を振るうことはできても、壊れやすいものに触れるのは得意ではない」
彼は苦笑した。
「君を傷つけずに触れる方法を、俺は知らない」
静かな告白だった。
それは、わたしに責任を投げる言葉ではなく、自分自身への不器用さを認める声。
胸の奥が、きゅっと縮まる。
この人もまた、何かを恐れているのだ。
わたしを傷つけてしまうことだけでなく、自分の中の何かが壊れてしまうことを。
「なら、一緒に探せばいいと思います」
気がつくと、口が勝手に動いていた。
「わたしも、人に優しくされることに慣れていません。
だから、どう距離を取ればいいのか、よく分からなくて」
レオンハルトが、目を伏せたまま聞いている。
「少しずつなら、きっと。
お互い、やり方を覚えていけるんじゃないでしょうか」
言いながら、これがどれほど大胆なことか気づいてしまい、顔が熱くなる。
レオンハルトは、しばらく黙ったあと、ほんの少し、目元だけで笑った。
「……君は時々、俺よりよほど勇敢なことを言うな」
「そんなつもりは」
「分かった。
少しずつ、だ」
彼は立ち上がり、今度はわたしの頭の上に手を置いた。
掌が、そっと髪をなでる。
それだけの、軽い触れ方。
「おやすみ、アリア」
「おやすみなさい、陛下」
扉が閉まる音がして、部屋に静けさが戻る。
心臓の鼓動だけが、やけに大きく聞こえた。
その夜、なかなか眠れずにぼんやりしていると、廊下の方から小さな声が聞こえた気がした。
「……はい、今夜は……特に何も」
ミーナの声に、よく似ている。
相手の声は、扉越しでは聞き取れない。
誰かが、彼女に何かを尋ねているのだろう。
「アリア様は、お休みになられました。
はい……そうお伝えしておきます」
そこで足音が遠ざかり、廊下は再び静かになった。
誰と話していたのか、確かめる気力はなかった。
それよりも、さっきの会話の余韻で、頭がいっぱいだったからだ。
わたしはそっと、ペンダントを握りしめる。
扉一枚隔てた向こう側にいる皇帝と。
同じ屋敷の、同じ夜を、それぞれの孤独と不器用さを抱えたまま過ごしているのだと思うと。
怖さと同じくらい、不思議な安心が胸に広がった。




